アストン・マーティンは永遠に |
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「お珍しい」 思わずその言葉が口をついて出た。 クリスマスプレゼントは何がいい、と尋ねられたからだ。 「何も。何もいりません。その代わり」 ランツベルクの口から怒涛のように言葉が滑り出す。 「私の家でクリスマスパーティをしませんか。七面鳥(ターキー)を焼いてクリスマスプディングには指輪をひそませ、ツリーを飾ってヤドリギを下げる。あの馬鹿馬鹿しいクリスマスクラッカーも一緒に引きましょう。そう、貴方が子供のころにしたような、何の変哲もないパーティを。そしてもちろん」 首の後ろに手を回して引き寄せた。 「その晩はカトリックの天国を見せて頂けますか」 ブラックロックは例によってにっこりとにやりの中間のような笑いを浮かべてランツベルクを見た。 「臆面もないな」 「直球がお好きでしょう」 「約束しよう。ただし――」 上司を兼ねる恋人はそう言って、腰が砕けるような濃厚なキスをしてくれた。 ちゅ、くちゅ、互いの舌が絡まる淫靡な水音が室内に響き、ランツベルクはすぐに立ってはいられなくなる。 長い口づけを終えると、ブラックロックはその親指でランツベルクの唇をまさぐりながら。 「ロンドンを根城にする犯罪者たちが大人しくしていてくれたのなら」 しかし犯罪者たちはスコットランドヤードの秘密の恋人たちを気遣うことなく大暴れし、ランツベルクが奮発した巨大な七面鳥(ターキー)はバケツに突っ込まれて捨てられる羽目とあいなった。日持ちのするクリスマスプディングは台所でじっと大人しくその出番を待っていた。 それこそ段ボール箱の中で寝泊まりする日々が続いた。煙草の吸い殻は灰皿に山と積み上げられ、ミルクティのカップは紅茶の渋で汚れきり、そしてようやく事件は収束した。 二人の関係を夢にも知らぬ主任警視は事件の解決を大いに喜び、恐ろしいほどの寛大さを見せて、二人の部下に公休を与えたのだった。 「パーティが出来なくて残念でした」 クリスマスプディングは通いのお手伝いによって既に蒸し上げられていた。 仕上げにブランディを振りかけてマッチで火を点ければ、青白い炎が立ち上る。 「いいや、クリスマスは好きじゃない。忙しくしていた方が気がまぎれていい」 さりげなく本音が吐露されていた。 プディングを切り分けながらこっそり様子を伺うと、恋人は何食わぬ顔で家から連れてきた猫とじゃれあっていた。 テーブルの上にプディングを載せた皿を置く。 置時計を見ると、ちょうど約束した時間だった。 「貴方へのクリスマスプレゼントは外に用意してありますよ」 「外? 馬でも買ったのか」 ブラックロックは軽口を叩きながら窓辺のカーテンを引き、そして絶句した。 馬、当たらずといえども遠からじだった。 ランツベルクの|馬小屋アパート《ミューズハウス》の前に停まっていたのは、恐ろしいほどの優美さを見せるアストン・マーティンのスポーツカーだった。 「さすが貴族とは言わせません。巡査時代からの貯金をすべてつぎ込みました。これは私が、私だけの力で買ったんです」 ランツベルクにとって給料は余剰金だった。 時折、銀行から送られる残高明細(ステートメント)を覗いて金額を確認するだけの代物。恋人のためにそれらをすべて投げ出すことに異存があろうはずもなかった。 「V8です。貴方が子供のころに欲しかったものとは違うかもしれませんが」 「俺がクリスマスにねだったのは、DB5だ」 「ボンドカーですね、『ゴールドフィンガー』」 「『サンダーボール』もな。――どういうつもりだ」 ブラックロックは振り返り、仄暗い光を湛えた瞳でランツベルクを見た。 「俺はこの車を見るたびにあの呪われたクリスマスイブのことを思い出すことだろう」 ランツベルクはその質問には答えようとせず、裏腹に尋ねた。 「どうします?」 およそ男に生まれてスポーツカーに興味を示さない者はいないだろう。それが子供の頃から憧れていた車であれば、なおのことだ。 ランツベルクはその可能性に賭けたのだ。 果たしてランツベルクが放った鍵をブラックロックは受け取った。 「……足慣らしをしてみようか」 次の瞬間、恋人の口から飛び出したのは、意外とも思える街の名だった。 「サウスエンド=オン=シーまで」 猫に留守番を任せ、一路、サウスエンド=オン=シーを目指す。 ロンドンから車で一時間半、テムズ川の河口にあるサウスエンド=オン=シーは海辺の景観地だ。世界一長い埠頭があることで知られている。ロンドンっ子は癒しと海の幸を求めてこの街にやって来るのだ。 道路に吸いつくような走りを見せるアストン・マーティンは、まさにエンジンの付いた芸術作品だった。 サウスエンド=オン=シーに着くや、海辺のホテルに部屋を取り、車を預ける。 職業意識に長けたホテルマンは内心の驚きをおくびにも見せず、平然と最高級車のキーを受け取った。 鉄製の桟橋の上を走る小さな電車に乗り込み、埠頭の突端に向かう。 「何十年ぶりかな」 電車の中で、ブラックロックがぽつりと漏らした。 「ちょうど夏の盛りだった。埠頭を見て、遊園地で一日遊んで、海沿いのレストランで舌平目(ドーバー・ソール)のムニエルを食べたよ」 「ご家族とですね」 海を見たいのなら他にも選択肢はある。メジャーなブライトンでなく、サウスエンド=オン=シーだ。そうだろうと思っていた。 「帰りの車の中で姉貴と喧嘩して、親父にこっぴどく怒られた」 電車はほんの数分で埠頭の突端に到着した。 一月の海風は凍えるほどの寒さで、ブラックロックはコートの襟を立てて埠頭を歩んだ。埠頭の突端で立ち止まると、瞳を細めて白い波頭を立てる冬の海を眺める。 「俺の姉貴(キャサリン)はいつまで経っても11歳のままだな」 文学少女だった彼の母親は、子供たちに自分の大好きな小説の登場人物の名を付けたという。 そこに深い意味はなかったのだろう。 キャサリンとヒース、それは素敵にロマンティックな名前だ。 だが、運命の悪戯によって、姉弟は物語と同様の運命を辿ることになった。キャサリンは死に、ヒースは一人取り残される。 ランツベルクは黙ったまま、恋人の傍らに慎ましく控えていた。 「わかっている。過去を乗り越えて生きろ、とおまえは言いたいんだろう」 一瞬の沈黙。 ややあって、ランツベルクは言った。 「貴方があの車を手に入れたとしても私は決していなくなりませんよ。アストン・マーティンは貴方が無くしたものの象徴だ。だから――」 皆まで言わず、ランツベルクはコートのポケットから黄金(きん)のシガレットケースを取り出した。口にくわえて火を点ける。 視線で促され、一本を差し出した。互いの煙草の先端を触れさせ、火を移す。 かすかに遠くにカモメの鳴き声を聞きながら、二人はいつまでもその場に佇んでいた……。 部屋に入り、骨の髄まで冷え切ってしまった身体を温めようと熱いシャワーを浴びた。 気が昂っていたのだろう。どちらからともなく激しく求めあった。 熱い舌が口の中に滑りこんで来、ランツベルクは舌を絡めてそれに応えた。互いの舌は貪りあうように絡みつき、シャワーの湯が床に叩きつけられる音が耳朶にやけに大きく響く。 「っ……」 だしぬけに昂る自身を含まれて、ランツベルクはバスルームの壁に背を擦りつけた。同性ならではのツボを得た濃厚な愛撫を受けると、身体から力が抜けていく。 たまらず恋人の髪を引いたが、許されなかった。先端の窪みを舌先で擽られ、ランツベルクはとうとうバスルームの床に座り込んでしまった。 「あ、貴方……貴方…で…」 自分だけ先に達(い)きたくはなかった。ランツベルクの願いを受け入れ、圧倒的な質量を持つそれが震える肉襞に押し当てられる。 突き入れられれば、悦びに全身が震えた。 「ああッ! これ……」 ランツベルクは臆面もなく言った。 「これ…が、…欲しかっ…、た」 ランツベルクは体をくねらせ、より深い挿入を乞いた。 「い、いいッ…もっと…もっと…」 もっと感じたかった、彼を。 彼の形を、彼の熱を――。 ブラックロックはランツベルクの胴を掴むと、激しい抽挿を続けた。髪も身体もしとどに濡れて、立ち上る湯気の中、肉と肉のぶつかり合う卑猥な音だけが響く。 「……っ」 恋人が掠れたような吐息を漏らすのがたまらない。ランツベルクはもっと深い部分で恋人を味わおうと、淫らに腰を揺らめかせた。 「あ、……いい…ッ…!」 胴を掴んでいたブラックロックの手が頂きに触れてくる。二、三度前後に動かされれば、頂きはすぐに切なく尖る。尖り切った頂きを摘ままれ、ランツベルクは鼻にかかったような嬌声を上げた。 「…ん…ッ…」 二人は獣の形で深く繋がった。 再び腰を掴まれ、逃げられないようにされた上で、深く貫かれる。 「あ、あああ……ああッ!」 頭の中が真っ白になり、ランツベルクはついに射精なしの絶頂を迎えた。恋人の熱い白濁が身体の奥深い部分に注がれていくのを感じながら。 屹立が引き抜かれていくその感触にすら感じてしまい、ランツベルクはぶるりとその身を震わせた。 「貴方は……」 抱き寄せられて、ランツベルクは言った。 「貴方は私のすべてです」 ブラックロックは愛を確信している人間にしか使えないその言葉を口にした。 「|I know.《知ってる》」 海沿いのホテルは早朝に立った。 二人うち揃って駐車場に向かう。歩き出しながらランツベルクは言った。 「次の休みはバースに行きましょう」 以前、恋人はランツベルクに話したことがあった。子供の頃、家族でバースに旅行に行ったことがあった、と。そのことをランツベルクはよく覚えていた。 「おまえの記憶力にはまったく頭が下がるな」 「貴方のことなら、どんな些細なこととて忘れはしません」 「そうやって俺から家族の思い出を全部奪っていくつもりか」 「いけませんか」 「おまえはひどい男だな」 「かもしれません」 ブラックロックがドアを開けて運転席に着く。けれどもランツベルクはすぐには乗り込まず、窓越しに運転席のブラックロックを見つめていた。 運転席の窓が開き、尋ねられた。 「何だ?」 「見惚れていましたよ。良い男に良い車はよく似合うと。やはり|イギリス男《ブリティッシュマン》には|イギリス車《ブリティッシュカー》ですね」 ブラックロックは唇を歪めて笑った。 「俺はお前がポルシェも持ってることを知ってるぞ」 図星だった。 清貧な恋人に軽蔑されることを恐れて、ランツベルクは自宅から遠い場所にわざわざガレージを借り受けていたのだ。 ランツベルクは笑って肩を竦めた。 「ご存知だったとは」 「秘密にしていたつもりか。バレバレだ」 「フェルディナント・ポルシェ博士は天才ですからね」 そう言ってはぐらかし、ランツベルクは改めてアストン・マーティンを見た。 「この車を見るたびに貴方は決意を新たにすることでしょう。この世にあまねく知らしめるべき正義を」 身を屈め、恋人の耳元に囁く。 「最近考えるようになったんです。私がこの世に生まれてきた意味について」 貪欲なランツベルクの母は二つあると言っていた。 一つは芝居。もう一つはランツベルクをこの世に産み出したこと。 自分の場合はたった一つだ。 「こう思っています。貴方を支え、導くこと。それこそが私がこの世に生まれてきた意味なのだと」 この国を実質支配しているのは、オックスブリッジ(オックスフォードとケンブリッジを合わせた総称)を出た、ザ・ナインと呼ばれる九つの私立中等教育学校(パブリックスクール)の卒業生。 ハロー、ウェストミンスター、ウィンチェスター、ラグビー、マーチャント・テイラーズ、セントポールズ、シュルーズベリー、チャーターハウス、そして――。 それらの八つのパブリックスクールを従えて、ザ・ナインの頂点に君臨する、イートン校卒業者(イートニアン)だ。 イレブン・プラスと呼ばれる公立選抜校(グラマー・スクール)への選抜試験。その合格者は全受験者のうちの上位二割。 しかしその選び抜かれた子供たちを集める公立選抜校からもオックスブリッジに進学出来る者は僅か1パーセントに届かない。 養護施設から公立選抜校(グラマー・スクール)、そしてケンブリッジ。針の穴を通すかの如き選抜試練の数々をかいくぐり、その道を進める者は決して多くはない。 貴方はこの広い世界でたった一人の、正義の人――。 ランツベルクは自らドアを開けると助手席に乗り込んだ。 「さあ、帰りましょうか。我らがロンドンに」 「ああ」 そしてブラックロックは言った。 「次はバースに」 ランツベルクは思わず息を呑んだ。 「これが俺からのクリスマスプレゼントだ。俺から何もかも奪っていけ。俺のすべてはおまえのものだ」 二人を乗せたアストン・マーティンは爆音と共に海辺の街を後にした。 |
( 了 ) |
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