神の斧より人の斧 |
---|
「ブラックロック」 呼びかけられて、恋人は一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。 ランツベルクもまた、誰だ誰だと目まぐるしく頭を働かせた。警察関係者なら見覚えがあるだろう。だが、知る顔ではなかった。 「私ですよ、アンブローズです」 すぐに誰か思い当たったのだろう。恋人は口角を上げて笑うと。 「卒業以来だな。よく俺とわかったもんだ」 「忘れるものですか。貴方のお蔭で卒業が出来たといっても過言ではないのですから」 ――同窓か。 ランツベルクはそうとは悟られぬよう聞き耳を立てた。 「今は何を?」 「法律事務所で働いています。大学はオックスフォードに」 「それはそれは。今さらだが、おめでとう。目指すところは法廷弁護士か。また茨の道を選んだもんだ」 「ローマに行ったことのある人たちに囲まれて、さらなる高みを目指していますよ。でも大丈夫。貴方のご助言通り、フィレンツェにもアテネにももう行きましたから」 どことなく含みの感じられる言葉だった。だが、恋人には思い当たる節があったのだろう。 「ああ、あれか」 合点がいったように頷いた。 いつかゆっくりお会いいたしましょう、そう言って固い握手を交わし、青年はその場から去った。 ランツベルクの秘めたる性質を知り尽くしている恋人は、焦らすことなくすぐに望みの答えをくれた。 「グラマー・スクール時代の下級生だ」 「貴方のお蔭で、とは?」 探る響きが籠ってしまわぬよう、細心の注意を払って尋ねる。 「俺は監督生(プリーフェクト)だったからな」 耳を疑った。 監督生(プリーフェクト) 勉強、スポーツ、人格。そのすべてにおいて優秀と認められた上級生が校長から任命されて付く地位である。学校の運営に参加し、下級生を指導し(時には体罰を下すことも許される)上級生の虐めから下級生を守るのだ。 恋人は公立選抜校(グラマー・スクール)を首席で卒業したと聞いていた。監督生(プリーフェクト)であっても何の不思議もない。 むしろこれが私立中等教育学校(パブリック・スクール)なら、首席なのに監督生でないとなれば、人格に何か問題があるのかと疑われるところだ。だが。 「何で全寮制でもないグラマー・スクールに監督生がいるんだって顔してるな、正直俺もそう思うよ」 ランツベルクの表情を読んだのだろう。恋人は両の手の平を上に向け、同意を示した。 「グラマー・スクールの校長は大概、私立校の猿真似をしたがる。制服にスポーツに監督生(プリーフェクト)。ワーキング・クラスにはワーキング・クラスのリーダーが必要だとさ。だが、民主性を重んじるグラマー・スクールで監督生をしたがる奴は少ないよ。俺は権力を乱用したかったから喜んでやった。ただそれだけのことだ」 「貴方は本当に露悪的な人ですね。あの青年の口ぶりから、貴方がどれほど良い監督生だったかわかりますのに」 容易に想像ができた。 正義感が強く、清廉な恋人のことだ。上級生の虐めから、下級生をいっそ潔癖なほどに庇ったのだろう。十年を過ぎてなお感謝をされるほどに。 恋人は黙って肩を竦め、それから思い出したように言った。 「おまえはローマに行ったことがあるだろう」 「ええ、はい、もちろん」 失言に気付いたのは、次の瞬間だった。 もちろんときたか、と言って恋人は笑った。 それは自嘲の笑いだった。 「さきほどの方もそう仰っていましたね。どういう意味ですか」 「グラマー・スクールの教師がよく俺たちに言い聞かせていた。おまえたちの競争相手はローマに行ったことのある人間だと」 言葉通りの意味だと恋人は言った。 小さな頃からローマやヴェネツィア、フィレンツェやトリノに行っていて、コロッセオもパンテオンも大聖堂も聖骸布もすべてこの目で見てきている。そういう連中が書く答案は面白いのだと。 オックスフォード大とケンブリッジ大は戦前まで上流階級の子弟を無試験で入学させていた。その名残りからか、他大学のように共通試験の成績と面接だけで学生を採ることはせず、独自の入学試験を課した。 その独自の入学試験の中で、もっともグラマー・スクールの学生を苦しませるのが、教養問題なのだという。 「論理を展開する場合は必ず歴史書か文学書から引用しろってな。俺は大学受験までの五年間で一生分の本を読んだよ。ローマもフィレンツェも俺にとっちゃ本の中の街だ。ブエノスアイレスよりも遥かに遠い。そして俺たちはそのことをどこまで行っても思い知らされるんだ」 俺たち、と言われて鼻白む。 そこに自分が入っていないことは明白だったからだ。 「もっとわかりやすく言おうか」 顔色が変わったことに気付いただろう。だが、恋人は無慈悲にも言った。 「俺は譜面が読めない。――そういうことだ」 恋人の頭の良さがこの時ばかりは恨めしかった。 何と端的に表現することか。 どうしてこんなことになってしまったのかと途方に暮れる。 あの弁護士の卵が、と思いかけてやめる。弁護士の卵の登場はただのきっかけに過ぎない。 自分たちはただ見て見ぬふりをしていただけなのだ。 自分たちの間にある、この奈落の深淵(アビス)の存在に。 しばらくたってからブラックロックはぽつりと言った。 「すまない。言い過ぎた」 ランツベルクは唇を噛んで、その場に立ち尽くした。 いっかな戻らぬ刑事たちを探しに専属運転手がやって来る、その時まで。 その夜遅く、ランツベルクは恋人のフラットを訪れた。 「来ると思ってた」 猫を抱いたままでドアを開けた恋人は、ランツベルクを拒絶することなく部屋に招き入れた。 どう口火を切ろうかと思い悩むランツベルクとは裏腹に、恋人はあっさりと謝った。 「昼間は悪かった」 飲むって気分じゃないだろう。恋人はそう言って手ずからコーヒーを淹れてくれた。 「この世は」 カップをテーブルに置き、ランツベルクの横に腰を下ろす。 「あちこちで地獄がその顔を覗かせている。昼間あいつに会って、俺はそのことを思い出した」 どことなく気怠げな様子だった。 額に垂れかかる褐色の髪を指先で掻き上げる。その横顔はゾクゾクするほど美しかった。 「俺の話を聞いてくれるか」 そして恋人はゆっくりと話し出した。 ※ 入学早々、ホワイトチャペルから学校に来ている奴がいると噂になっていることは知っていた。 ドイツ軍の爆撃で皮肉にも浄化された形となったロンドンの最貧地区、ホワイトチャペル。しかし切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)の記憶は、なかなかどうして人々の脳裏から拭い去られるものではなかったからだ。 ブラックロックが育ったその施設がホワイトチャペル地区にあったのは、もちろん偶然ではない。カルカッタにマザー・テレサがいたように、教会という存在は貧困地区を好む。英国国教、メソジストにカトリック、なんでもありだ。救世軍の創始者であるウィリアム・ブースはホワイトチャペルにテントを張り、貧困者の救済に努めたと聞く。 だが、その噂は最初の試験の結果であっさりと上書きされた。ブラックロックは知的エリートを集めるグラマー・スクールにおいて、全科目において学年トップの成績を収めたのだ。 以来五年、ブラックロックはただの一度たりとも首席の座を譲らなかった。 ブラックロックは常々思っていた。この世は戦場。生きるか死ぬかだ。 生き残るためには武器を手にしなければならない。 それは腕力かもしれないし知力かもしれない。少なくとも施設では腕力が、学校では知力がその武器となった。 ホワイトチャペルから選抜公立校(グラマー・スクール)までは電車を乗り継いで一時間。往復で二時間だ。ブラックロックはその時間をすべて勉強の時間に充てた。立ったまま本を読み、カードを繰った。座ればノートを広げ、メモを取った。 「ブラックロック」 呼びかけられて、膝の上に広げていた地図から目を上げると、そこに見知った生徒がいた。 アンブローズ、上の名は確かコリンだったか。第三学年(フィフスフォーム)の下級生だ。 どこまでも私立校の猿真似をしたがる校長の指導の元、生徒同士は名字を呼び合うと定められていた。その相手が最上級生(アッパーシックス)であろうとも、だ。 「それはどこの地図ですか」 「フィレンツェだ」 「ご旅行に?」 電車は学校のある駅に滑り込んだ。ブラックロックは地図を四分の一に折り畳むとその上にメモ用紙を重ね、席を立った。 「頭の中でな」 しぜん共に学校に行くこととなる。 ブラックロックは歩きながら地図上の建物に目を落とした。 元は宮殿だったというウフッツィ美術館。地図の上に重ねて置いたメモ用紙に思いつく限りを走り書いていく。 宮殿の設計者はジョルジョ・ヴァザーリ。フィレンツェの花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の大円蓋(クーポラ)の天井画はヴァザーリの手によるものだ。 大聖堂に足を踏み入れ、大円蓋(クーポラ)を見上げる自分の姿を想像する。天井画に描かれているのは、ヴァザーリの最後の審判。はたしてどんな天井画だろう。 ヴァザーリの最後の審判と走り書いた文字に大きく丸をする。要チェックだ。 ちらちらと横目でブラックロックを見ていたアンブローズだったが、やがて我慢が出来なくなったのだろう。唐突に尋ねてきた。 「頭の中とはどういう意味ですか」 ブラックロックはアンブローズに噛んで含めるように説明した。 グラマー・スクールの生徒がオックスブリッジを受験をするにおいて、教養問題こそがたちはだかる大きな壁となる。 経験を伴わずして面白い答案を出すには、山ほどの本を読み、ありとあらゆる場所から知のかけらをかき集め、それらを繋ぎ合わせるしかない。そして自分はそれを実践しているのだと。 「ローマとアテネにはもう行った。今はフィレンツェだ」 アンブローズはわずかに興味をそそられたようだった。 「地図の上で旅をするんですね」 ブラックロックは頷いた。ローマにアテネ、そしてフィレンツェ。いつの日か訪れることがあれば、目を閉じていても歩けるだろう。 「次はどこに?」 「ロードス島に」 ローマに行ったことのある奴らを出し抜け、教授を騙せ、奇をてらえと教師は激を飛ばした。平然と聞き流すふりで、ブラックロックはその言葉を胸に刻んだ。 ロードス島はエーゲ海に浮かぶ島だ。聖ヨハネ騎士団の本拠地があったことでよく知られている。かつてそこには世界七不思議の一つ、アポロンの巨像があったという。 シェイクスピアは『ジュリアス・シーザー』の中でシーザーを評してキャシアスにこう言わせる。『何とあの男はまるでロードス島の巨大なアポロ像のように』と――。 「どうして貴方がいつも首席なのかわかりましたよ」 アンブローズは笑って言った。アンブローズの頬には擦り傷があり、下唇は腫れていた。 ブラックロックは言おうか言うまいか悩んだ。この下級生は車輛を渡り歩いてずっと誰かを探していた。ブラックロックを見つけると安堵したように息をつき、その後偶然を装って声をかけてきた。 「誰にやられた」 その言葉を待ちかねていたに違いない。だが、アンブローズは口ごもった。 顔だけではない。校長ご自慢の制服は汚れ、擦りきれていた。明らかに私刑(リンチ)の痕だ。 一瞬息をつめ、アンブローズは告白した。 「ディクソンです」 ディクソンはブラックロックより一つ下の下級第四学年(ロウアーシックス)だ。そして入学以来、ディクソンにはある種の黒い噂がつきまとっていた。 ――成程。 ブラックロックは改めてアンブローズを見た。アンブローズは小柄、そして色白の美少年だ。 「俺が話しをつけておく」 「ですが、ブラックロック」 「一つ教えてくれ」 二人の生徒が通りではしゃぎ回っていた。小学校を出たばかりの第一学年(サードフォーム)だ。ブラックロックが睨みを利かせると、胸に光る監督生バッチの存在に気付き、ぎょっとしたように足を止めた。二人はどちらからともなく帽子を取った。 「すみませんでした、監督生(プリーフェクト)」 ブラックロックは鷹揚に頷き、アンブローズの方を向いた。 「奴の好きにさせたか」 アンブローズは蒼白な顔で、しかしかぶりを振った。 「よかった」 ブラックロックはそう言って、アンブローズと共に校門をくぐった。 「一度でも好きにさせたら、後は流されるだけだ。――大概の奴はな」 ※ 「ディクソンは見下げ果てた奴だった。追っ払ったところで、また次の雛鳥を探すだけだったろう。俺は奴を半死半生の目に遭わせた後で、校長に頼みこんで放校させた。監督生特権を使ったのは、後にも先にもそれきりだ」 コーヒーはすっかり冷めて、まずくなってしまっていた。 「親切心からじゃない。俺はこの世の地獄を見聞きするのにうんざりしていた。神は縋らせてはくれるが、何もしちゃくれないよ。神の斧より人の斧。俺はミノアの巫女の如く容赦なく両刃斧(ラブリュス)を振り下ろした」 恋人が両刃斧をダブルビットアックスではなく、ラブリュスと表現したことがひどく印象に残った。 ラブリュスはギリシャ由来の外来語だ。 ミノタウロスとイカロスの伝説で名高いミノアの巫女は生贄の雄牛を女神に捧げる際、両刃斧(ラブリュス)を用いたという――。 それは、恋人がこれまで黙して決して語ろうとはしなかった過去のほんの一部に過ぎないのだろう。 シティに勤める銀行員だったという父親。クリスマスプレゼントはハロッズで。その情報だけで恋人の出身階級は容易に想像がついた。 中位中流階級(ミドルミドルクラス)だ。決して労働者階級(ワーキングクラス)ではない。 卑劣なテロによって、彼は本来所属するはずの階級から締め出されたのだ。 身に纏う衣服も読む新聞さえも違う、この階級社会の英国で、階層を落とされるということがはたしてどれほどの絶望をもたらすのか。 そしてその落とされた階級の中で、いったい何を見聞きしてきたのか。 ランツベルクには想像することすらできなかった。 「大学に入りさえすれば、こんな地獄はなくなるんだと、俺は信じてやまなかった。だが、その次はローマに行ったことのある奴らとの戦いが待っていた」 「いい人たちばかりではなかったのですか」 「いい奴も、鼻持ちならない奴ももちろん。そいつらに出くわすたびに俺は思ったよ。教養をひけらかす知的スノッブは同族だけで群れてやがれ! ってな」 「私もさだめしその部類に入るのでしょうね」 「何を好き好んで一般警官に、とは思った。おまえが巡査時代、同僚とどうやって話をしていたのか気になるがな。同族は同族といるのが一番居心地が良いもんだ。だから俺みたいな成り上がりが同じ場所にいると肘鉄を食らわしたくもなるんだろう。俺の目には――」 珍しくも恋人は次の言葉を口に出すのをためらった。 「おまえはハードカースルと話している時の方が自然なように見える」 警視総監の子息、ハードカースル主任警部が卒業したウィンチェスターカレッジは、「ザ・ナイン」の一角を占めるパブリック・スクールだ。英国一古い学校で、偏差値と授業料の高さもまた英国一だという。 「居心地は良いですよ。それを否定はいたしません。あの人との会話にはどこまでいっても地雷がない。けれど貴方と話す時は」 喉奥から絞り出すようにしてランツベルクは言った。 「まるで地雷だらけのノルマンディーの海岸にひとり立ち尽くしているようで、私は時々途方に暮れるんです!」 言った。言ってしまった。 もうおしまいだ。 けれとランツベルクの予想に反して恋人は言った。 「やっと本音をぶちまけたな。最近のおまえは俺に合わせすぎてるようで、気になってた」 恋人はランツベルクの手からカップを取り上げると、台所まで歩いて行き、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを流しにぶちまけた。そして流しに手をつくと言った。 「街中で偶然ポルシェに乗ってるおまえを見かけた。俺は驚くわけでも悲しむわけでもなく、ただこう思った。住む世界が違うんだと」 「幼い時の貴方に会いたかったと思いますよ。何もご不自由はさせません。貴方を引き取り、甘やかして可愛がり、最高の教育を……」 「与えて? それで」 恋人は底意地の悪そうな笑みを浮かべてランツベルクを見た。 「大人になった俺と何をするつもりだ?」 「何も。何もしませんよ。貴方はいつか素敵な女性を連れて来ることでしょう。私は心から祝福し」 ふいに視界がぼやけた。 恋人は馬鹿だな、と笑って言うと、ソファに戻ってきてくれた。恋人の肩に凭れて、ランツベルクは少しだけ泣いた。 「おまえはダイアナの結婚を想像して泣くアンか」 肩を抱いてくれる恋人の腕の温かみが嬉しかった。 「貴方がアンを読まれるとは」 「アンの舞台のアヴォンリーはシェイクスピアの出生地を流れるアヴォン川にちなむと思われる、とね。その昔メモに書いたよ。全編にわたってシェイクスピアに染まったあの小説のどこが少女向けなんだと俺は思うが」 「教えてください」 差し出されたハンカチを受け取って洟をかむ。 「貴方の初めての相手は誰ですか」 「おまえの考えそうなことぐらいはわかる。アンブローズと寝たことがあるのかと疑ってるんだろう」 恋人は面倒くさそうに言った。 「卒業以来、一度も会ってなかったんだ。どれほどの関係かわかるだろう。それに、俺はガキは趣味じゃない」 自分がそうであるにも関わらず、すわ年上が趣味なのかと色めきたつ。そして思う。 この病的な嫉妬深さはどうにかならないものかと。 「俺の初めての相手は口が裂けてもおまえには教えない。きっとおまえはそいつのことを殺しに行きたくなるだろうから」 「まさか」 「だから俺も聞かないよ」 「私は」 「男は、だろう」 ランツベルクは貴方が初めての相手だったと恋人に打ち明けたことがあったのだ。 ブラックロックは首を振り。 「いいや、女も、だ」 ブラックロックはランツベルクの額に自分の額を合わせると間近で笑った。 「――嫉妬深いのは自分の専売特許だとでも思っているのか」 頤に指が掛かり、唇を挟みこむようにして口づけられた。 うっとりと瞳を閉ざすと、上唇を舐めて、熱い舌が滑りこんでくる。舌を絡ませられ、強く吸われた。 「…ッ……ん……」 ランツベルクは恍惚の表情を浮かべて、注がれる唾液を余さず飲んだ。 「仲直りをしよう」 恋人はランツベルクをベッドに誘った。 シャツのボタンが外され、そこに恋人の手がすべりこんでくる。頂きを摘ままれ、そっと擦りあわされると、すぐに芯ある固さとなる。恋人によって開発し尽くされたそこはほんの少し触れられただけでもすぐに情欲の炎が点る。 「あ、……っ……」 尖りきった頂きを転がすように舌先で舐められると、堪えきれずに声が漏れる。頂きに歯を立てられた。胸元から甘い痺れが立ち昇り、体の芯が甘く疼いた。 「どうして俺なんだ」 その声を聞くだけで、女のように濡れる気さえした。 「貴方だから、ですよ」 「たまに思うよ。おまえは鏡を見たことがあるのかと」 「貴方こそ……ッ、……あ、るんですか」 ランツベルクは時折、世界中の人間が恋人を狙っているのではないかという強迫観念に囚われることがあったのだ。 耳朶に舌が這わされ、耳穴に挿しこまれる。そのまま舌を出し入れされると自分でも驚くほどに甲高い声が出た。 「あ、……ああッ! …ん…ッ…ぁ」 脚間に熱に凝り、ランツベルクは哀願した。 「挿れて下さい、…早く」 「はしたないな」 蔑まれているようで、それが堪らなかった。恋人がシャツを脱ぎ捨て全裸となる。ランツベルクは情欲で潤んだ眼を恋人に向けた。 「おまえが過去に抱いた女たちに見せてやりたいもんだ、この姿を」 「いいですよ、見せても」 そう言って笑う自分は恋人の目には妖艶とも映ったかもしれない。 「ああ、でも、やっぱり駄目です」 ランツベルクは言ったそばからすぐにそれを取り消した。 「貴方を取られると困るから」 期待に震える襞に肉鞘が宛がわれ、一息に貫かれる。 「…く、…ぁあ!」 射精に頼らぬ軽い絶頂があった。 「おまえの身体は芸術品だ」 大きく脚を開かせた上に圧しかかり、荒々しい律動を繰り返しながら恋人は言った。 「こんなふうに俺に貪らせていいのか」 「私は私で」 首の後ろに手を回して抱き寄せる。 「貴方の若くて逞しいその身体を不当に搾取しているように思われてなりませんよ」 ランツベルクは恋人の耳元で甘く囁いた。 「……中で」 自分たちは今までも、そしてこれからも、同じことで何度も何度も言い争うのかもしれない。 だが、それでいい。 共にいたいというこの気持ち、それだけは絶対に変わらないのだから。 ※ 先日の詫びだと言って恋人はランツベルクを食事に誘った。 ひょっとしたら、これからは徐々に減っていくのかもしれない。 ランツベルクの発する、お珍しい、のその一言が――。 任せる、と言われて選んだのは店は母とよく行く店だった。ピアノの生演奏が聴ける、いわゆる洒落た(ファンシーな)店だ。母子をよく知っている支配人はいつも一番良い席を用意してくれるのだ。 食事の後で、恋人はイブニングドレス姿のピアニストに近付いた。気が気でないランツベルクをよそに長い間話しこんでいたが、やがて踵を返してテーブルに戻ってくると。 「休憩に入るそうだ。何か弾いてもらえるか」 「構いませんよ、譜面があれば」 「そうだな」 共にスタインウェイのピアノのそばに行った。恋人は譜面の束を手繰り、しばし思案の様子を見せていたが、やがて顔を上げ。 「ピアノソナタ14番を」 「『月光』ですね。ベートーベンとは貴方らしい」 そう返しながら、ピアノの鍵盤蓋を最後に開けたのはいつだろう、と危惧する。 しかしそんなランツベルクを尻目にかけて、恋人はさっさと椅子に腰かけてしまった。 「おまえは何か忘れてないか」 下方から見上げるようにして恋人は囁いた。 「俺は教会で育った。教会には何がつきものだと思う」 ランツベルクははっと息を飲んだ。 ――オルガンだ。 ランツベルクは恋人に一杯食わされたことに気が付いた。 「貴方は大した嘘つきですね」 「この世知辛い世の中を生き抜くには、時には駆け引きも必要だろう。譜面も読めない可哀そうな孤児と思わせておいて、だ」 にやり、と唇を歪めて笑うと、恋人は譜面を広げて譜面台に置いた。 「俺が弾けるのは第二楽章まで。だが、学寮のスノッブ野郎への虚仮おどしにはそれで十分だった」 椅子を引きながら、恋人は挑むように言った。 「第三楽章はおまえに弾いてもらうぞ」 テーブルに戻り、恋人の演奏が始まるのを待った。 はたして自分は難度の高い第三楽章を弾けるだろうか。 恵まれた環境にぬくぬくとその身を置きながら、自分はこれまで何をしてきたのか。 恋人の言葉を借りるなら、自分はまさしく足を掬われた『知的スノッブ野郎』だった。 或いは恋人のあのべらんめえ調(コックニー)さえも、知的スノッブの足を掬うための擬態なのかもしれないと、今さらながらにランツベルクは思った。 ああ、だからこそ自分はこの人にこんなにも焦がれるのだろう。 たゆまぬ努力によって過酷な運命に抗う、この人に。 そしてその血のにじむような努力を他人に見せるのをよしとせず、この人は唇を歪めて、ただ笑うのだ。 この奈落の深淵(アビス)が何だというのだろう。 自分はたった一つしかない命綱をこの人に預けると決め、これまで誰も手に入れることの出来なかったこの人の心を、その愛を手に入れた。 自分はもはや二度とこの深淵に落ちることを恐れないだろう。命綱はこの人に預けた。 奈落に落ちるときは一緒だ。 演奏が始まった。 ベートーベンのピアノソナタ第14番、通称『月光(ムーンライト・ソナタ)』だ。 その美しくも静謐な旋律に恋人の生きざまが重なり、ランツベルクはいつしか涙を流していた。 |
( 了 ) |
Novel |