篝火の夜





 何が、変わったのだろう。
 それとも何も変わらないままなのか。





「もうすぐガイ・フォークス・デイですね」
 庁舎を出、警察車輌に向かうその途中、遠くの夜空に打ち上げ花火が浮かんだ。ガイ・フォークス・デイに備えての試し打ちか、ランツベルクは思い、上司にそう声を掛けた。
ガイ・フォークス、それは国会議事堂を爆破しようという火薬陰謀事件の実行犯の名前であった。 ガイ・フォークスは熱心なカトリック教徒であり、国王ジェームズ一世のプロテスタント優遇策に反発して、ウェストミンスター宮殿を王もろとも爆破しようしたのである。
 計画は実行に移される前に発覚し、ガイ・フォークスは11月5日に捕えられ、首吊り・内臓抉り・四つ裂きという英国で大逆罪のみに適用される最も重い刑に処された。
 この故事にちなみ、英国では毎年11月5日にガイ・フォークス人形を篝火にくべ、花火を楽しむ行事が行われるのだ。
「それはカトリックの俺に対するあてこすりか」
「とんでもない。貴方ならやりかねないとは思いますが」
「するかよ、爆破なんて」
 それは驚くほど硬い、冷たい声だった。ランツベルクは瞬時に失言に気付いた。
 そうだ、この人の家族は――。
 ランツベルクの表情を読んだのか、ブラックロックは片眉を跳ね上げて笑った。
「あの心意気は買うけどな」





 昼間の失言をやはり気にしていたのだと、ベッドに入ってから気付いた。
 常日頃から激しい性行為をする人だったが、今夜はそれに輪を掛けて激しかった。脚を大きく広げさせられ突かれながら、自身の屹立を握るよう命じられた。
 抗うように首を振ったが、強引に手を取られ、兆し始めた屹立に触れさせられた。
「あ……」
 常ならば極みに向かって追い上げられていくところ、しかしランツベルクは中途半端に放り出された。
「そら」
 見慣れたその顔が、にやりとにっこりの中間のような笑いを浮かべて見下ろしていた。
 その意図を悟り、ランツベルクはゆるゆると手を動かし始めた。手の動きに合わせて、律動もまた再開される。
「…っ…あ…ッ」
 動かせば与えられた。けれど手を止めれば、すぐに中途半端な形で放り出される。もっと突いて欲しくて、ランツベルクは肌が焼け付くような羞恥に耐えて手を動かした。
 逞しい肩とほどよく筋肉の付いた胸が上下し、突かれるその度に脳天に響くような快楽が走る。
「色っぽいな」
 ブラックロックは身を屈めて裸の胸と胸を密着させると、腰が蕩けるような甘い口付けをした。
「まるで吸い付いてくるようだ」
 ランツベルクの片脚を肩の上に担ぎ上げると、ブラックロックは更に激しく最奥を突いた。逃げ場を失ったランツベルクは動揺した。
「…待っ……」
 まるで罰を与えるかのように、ブラックロックは力強く、そして激しくランツベルクを突いた。過ぎる快楽に既に動かすことが出来なくなっていたランツベルクの手に自分の手を重ね、容赦なく擦り立てる。
「っ…ああッ!」
 感じる一点を角度を変えて突かれると、もはや声を押し殺すことは不可能だった。身を震わせ、身体を突っ張らせ、ランツベルクは達した。





 深夜、ランツベルクが目覚めると、ベッドにブラックロックの姿はなかった。扉の僅かな隙間から隣室の明かりが漏れていた。
 起き上がり、リビングを覗く。
 ランプシェードの下、上司は何かの作業をしているようだった。背後の気配に気付いたか、すぐに顔を上げ。
「すまん、起こしたか?」
「何をされていらっしゃるのですか」
 歩み寄り、テーブルの上を見る。テーブルの上には、ばらばらになった数珠の珠があった。
「この間突然ばらけた。嫌な予感がするのは、縁起を担ぎすぎかな」
 ロザリオの数珠だとすぐに気付いた。
「その考えから言えば、貴方の身代わりとなって壊れたのではないですか」
「ロザリオが?」
 眼を見開き呟いて、けれどもブラックロックはあっさりと頷いた。
「かもしれないな」
 ブラックロックはばらけたロザリオの数珠を直そうとしていたのだ。数珠珠の一つ一つに丁寧に糸を通していく、普段はあまり見ることのない上司のそんな姿を暗がりからランツベルクはぼんやりと眺めていた。
 ややあってブラックロックは諦めたように首を振った。
「駄目だな、ばらけた時に落としたらしい。数が足りない」
「ロザリオの珠は何個でしたか?」
「6と53」
 即答だった。
 ロザリオを祈りに用いない英国国教徒であるランツベルクは首を傾けて、その内訳を考えた。
「6は大珠、主の祈りのためですね。それは揃ってます?」
 ロザリオは祈りの回数を数えるためのものなので常に数は決まっている。小珠で聖母マリアの祈りを捧げ、大珠で主の祈りを捧げるのだ。上司が頷くのを見て、ランツベルクは言葉を継いだ。
「それでは、虎目石を幾つか買って足したらいかがでしょうか。邪気を払う効果があるそうですよ。それに……」
 上司はハッとした様子で顔を上げた。ランプシェードの淡い光に鳶色の瞳が照り返る。
 そう、きっと――。
「貴方の眼によく映える」
 ブラックロックはその特徴的な、にやりとにっこりの中間のような笑いを浮かべた。恐らく照れているのだろう。そして言った。
「まだ早いな。もう一度しようか」
 そうだ、この人は家に自分を泊めてくれるようになった。それこそがランツベルクが気付いた、唯一の変化だった。





 宗教心の薄い英国人の常で、知り合った当初はその信仰心をうさんくさく思っていた。時には狂信者だと思ったこともあった。
 けれど彼の信仰は純粋でひたむきだった。その姿を傍で見るうちに――改宗を強要されたら困るものの――、その熱情は手放しで素晴らしいと認められるほどになっていた。
 ガイ・フォークスが自分の命を賭けてまで国家の転覆を狙ったように、この国のカトリック差別は根強い。19世紀にカトリック開放令が出されるまで、カトリックは公職から締め出されていた。
 未だカトリックは王位継承権を持てない。カトリックに改宗したがために、王位継承権を手放すことになった王族の何と多いことか。
 そして未だかつてカトリックで警視総監になった人間もまた存在しないのだ。





 上司の様子がおかしいことに気付いたのは、テムズ河に掛かる橋を渡る頃だった。
 顔色が悪く、額には脂汗を滲ませている。その手はトレンチコートのポケットにあった。バックミラー越しにこっそり伺うと、上司はポケットの中でロザリオを握り締めていた。
 ガイ・フォークス・デイの打ち上げ花火の影響で、道路は混雑していた。運転を担当する制服警官共々、警察車輌に閉じ込められて久しい。
 制服警官は弱ったような声を上げた。
「これは降りて地下鉄に乗った方が早いかもしれませんね」
「そうしよう」
 ブラックロックはあっさりと言って、警察車輌を降りた。その時間僅か数秒、余程体調が悪いに違いない。ランツベルクも急ぎ車から降りた。
「体調は大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
 上司は答えず、足早に前を歩く。
 意地っ張りで痩せ我慢の気質はよく知っていた。素直に言う訳がない。ランツベルクは無言でその後を追った。
 ガイ・フォークス・デイの当日ということもあり、広場には移動式遊園地が設置されていた。回転木馬に施された煌びやかな電飾が目を牽き、ランツベルクは数年前のクリスマスイブのことを思い出していた。
 あの時もこんな風に上司の背中を見た。
 他人を拒絶するような、この背中を。
 突然遠くの空で花火が上がった。周囲の人々が、子供が歓声を上げて振り返る。
 ついにブラックロックは路上で蹲ってしまった。手に縋るようにロザリオを握り締め、肩で荒く息を付いている。
「病院に行きましょうか」
 ブラックロックは剛健だった。殺人的な忙しさの中にいながら病欠は皆無。こんな姿をランツベルクに見せたことは今までに一度たりともなかった。
「大丈夫、大丈夫だ、ランツベルク」  
 固く目を閉ざし、ロザリオの数珠を手繰っている。祈りを、捧げているのだ。
「それで大丈夫なはずがないでしょう」
「本当のことを言おう、お前は笑うかもしれない」
 医者を……と振り返ったランツベルクの手が引かれ、制止させられた。
「俺は花火が怖いんだ」
 ガイ・フォークスの火薬陰謀事件はロンドン初のテロ事件と言われている。火薬と花火は同じ、だからこそガイ・フォークス・デイに打ち上げる。そして爆弾も火薬から作られる。ロンドン大空襲の経験があるものは、花火の音を嫌って逃げ回るという。
 ランツベルクは背後から上司を抱き締めた。
 誰よりもこの人を知っているつもりで、実は何も知らなかったことに気が付かされた。
 胸襟を開いて話して欲しいと思っていた。どうして人との間に壁を作るのかと思っていた。
 違う。この人はいつも見せてくれていたのに、自分がちゃんと目を開いて見ていなかっただけなのだ。
「俺がお前に望むことはたった一つだけだ」
 新しく虎眼石の混じったロザリオを強く握り締めながら、ブラックロックは言った。
「長生きしてくれ、俺よりも」





 二人その場からじっと動かず、花火の上がる音を遠くに聞きながら、自分たちの関係が大きく変わったことをランツベルクは知ったのだった。





( 了 )
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