賽は投げられた





 封を切ったばかりの煙草は甘い香りがした。
 銘柄はラッキーストライク、情事の後、上司はいつもその煙草の封を切った。
「女性の前では控えた方がよろしいのでは?」
 ランツベルクが女性と断ったのは、ストレスの多い刑事の常で、自身もヘビースモーカーだったからだ。手を差し述べて一本を強請る。口に咥えるや、煙草の先端を合わせて火を移した。
「嫌がるレディがいると聞きますよ」
「こんな名言があるよ。『煙草が存在しなかった時は、セックスの後で皆何をしていたのだろう』」
「もう一度していたのではないですか」
 ブラックロックは声を上げて笑った。
「かもな」
 何一つとして変わらないまま、日々は過ぎる。
 誘われれば答える。自分からはごく稀に誘った。
 上司の性欲を一手に引き受けて他の人間に目が行かないようにしたいという姑息な思いもあった。だが、ランツベルクが危惧するまでもなく、プライベートが皆無なその相手。殺人的な忙しさの中、他の人間を抱く暇はないようだった。
 二人、煙草を燻らせながら、部屋の高い天井に昇っていく紫煙を見ていた。
 この部屋には呼ばれる。けれど上司は幾度誘おうとも、ランツベルク部長刑事の部屋に寄ろうとはしなかった。
 恐らくそれが彼の答えなのだろう。
 吸い差しの煙草を灰皿の上に押しつけて消すと、ランツベルクは服を身につけ始めた。その姿を横目に、ブラックロックはぽつりと言った。
「お前は吸うのか?」
「どこで、ですか」
「女の前で」
 革靴を履いて立ち上がると、ソファの上に置いていた鞄を取った。
「吸いませんよ、主任警部は?」
「俺は吸うが」
 相手に悟られぬよう、ランツベルクは胸に手を置いた。
 痛かった、胸が。その人に女の存在を匂わされるだけで胸が焦げ付くように痛んだ。けれど口にしては。
「嫌われますよ、そのうち」
 何気なく落とした視線の先には、祭壇代わりの樽があった。樽の上のイコンが少し曲がっていた。
 直す振りで近付き、イコンの裏に家の鍵を忍ばせた。鍵にはスペアがある。

――忘れたと言い訳すれば、また来れる。

 女のような浅知恵を働かせる自分がたまらなく嫌だった。





「おめでとうございます」
 ランツベルクの会食の相手は、犯罪捜査課のハードカースル主任警部だった。
「これでやっとブラックロックに追いついたよ」
 パブリックスクールからオックスフォードという典型的なエリート街道を歩んできた彼は、ジェントリー階級出身で、その育ちから来る性格の良さがあった。
 彼とはある事件を共に捜査したことから親しくなり、捜査が打ち切りとも言うべき状態となった後も、その友情は継続した。とはいえ互いに忙しい者同士、こうして向かい合わせで落ち着いて話すのは半年振りのことだった。
 現警視総監の子息ということもあり、上層部が贔屓と揶揄されることを恐れたのか、彼の主任警部への昇進はブラックロックよりも遅れた。もっともブラックロックが飛び抜けて早いだけで、彼はずば抜けて優秀な部類に入るのだが。
 食事場所はシンプソンズ・イン・ザ・ストランド。
 ビジネスマンから外国人観光客まで押し寄せる老舗のローストビーフ専門店である。席の間隔が狭いのが難点だが、天井は高く、木の内装は落ち着いていて、さりとて高級すぎず、昇進の祝いにはぴったりの店であった。
「私は意識していなかったんだが、周りが追いつけ追い越せと喧しい」
「貴方方はあまりにも対照的だから、周囲の人たちが比べたがるのだと思いますよ」
 絶妙な焼き加減のローストビーフに舌鼓を打ちながら、ランツベルクは言った。
 驚くほど対照的な二人だった。
 かたや警視総監の息子、かたやグラマー・スクールからの成り上がり。オックスフォード大卒とケンブリッジ大卒。これで階級までもが揃えば、さぞや二人のライバル話に花が咲くことだろう。
 ランツベルクはブラックロックが異常なまでの出世欲を持つことは知っていた。けれど彼の出世欲はすべからくこの世の悪を根絶したいと言うその思いから来ている。
 そして知り合う前は鼻持ちならないエリートと思っていたハードカースル主任警部もまた、誰よりも悪を憎み正義を愛する男だった。
 正義感の強い二人が切磋琢磨し続ければ、ヤードはより良い組織になるだろう、とランツベルクは思っていた。
「あの方は宣言していましたよ。初のカトリックの警視総監になると」
「本当かい? それじゃ、うかうかしてはいられないね」
 ローストビーフは上等で、ワインは美味く、話は弾んだ。ハードカースル主任警部には同じ階級の人間だけに通ずるある種の気安さがあった。
 食事を終えても話は尽きず、二軒目に寄ったパブを出る頃には既に深夜を回っていた。
 ロンドン名物、走るグランドピアノと呼ばれる黒塗りの箱型タクシーに同乗し、家路に向かう。
 運転席と乗客の間はプライバシー保護のために仕切られている。運転手に話を聞かれる恐れがないことと、また多少の酔いもあったのだろうか、ハードカースル主任警視は意外とも思える問いを投げ掛けてきた。
「部長刑事、君は付き合っている人はいるのかい」
「おりません。好きな人はいますが」
「君のような魅力的な男性を袖にするなんて、ずいぶん高望みな女性だね。どこの公爵令嬢だ」
 貴方のライバルですよ、とも言えず、ランツベルクは笑って受け流した。
「そう仰る主任警部は?」
「君と同じ答えだ」
 予想だにしない答えだった。ランツベルクは目を丸くした。
「どこの女王さまですか」
 思わず問い掛けてしまい、次の瞬間、声を揃えて笑いあった。
 タクシーはランツベルクのアパートメントに先に到着した。ドアを開けて外に出たものの、名残惜しく、もう一度振り返った。
「またご一緒に捜査が出来れば良いですね」
「ブラックロックが君を手放さないだろう」
 言われて肩を竦めた。
「さて、どうでしようか。――主任警部の恋の成就を願っていますよ」
「私の恋は望み薄だ。だが君の恋は叶うといい」
 そう言った横顔がひどく寂しげに見え、ランツベルクはそれに今の自分の境遇を重ね合わせてしまった。
 後部座席に戻ると軽く抱擁し、頬を付けた。ラテン民族ならば頬にキスをしたいところだが、あいにくとランツベルクの身体に流れる二つの民族の血はどちらもラテンには属していなかった。
 遠ざかるタクシーを見送り、ひどく満ち足りた思いで、アパートメントに向き直ったランツベルクはそこに信じられない物を見た。
「主任警部」
 今走り去ったばかりのハードカースル主任警部がそこにいた、という訳ではなく、そこに立っていたのは直属上司のブラックロック主任警部だった。
 ブラックロックは昨日ランツベルクが故意に置いていったその鍵を目の高さに掲げた。
「忘れていったろう、昨日」
「あ――」
「昨日は直行してたからまだ気付いていないんじゃないかと思ってね? 締め出しくらってるんじゃないかと来てみたんだが」
「いつからここに?」
「九時頃かな、定かじゃないが」
 九時からここに? 自分の浅知恵がとんでもない迷惑を掛けてしまったことにようやく気が付き、ランツベルクは絶句した。
「だいぶ酔ってるな」
 革靴を鳴らして歩み寄って来ると、ブラックロックは手に鍵を握らせた。
「二日酔いで遅刻なんてしないでくれ。じゃ」
「主任警部!」
 踵を返して歩み去ろうとするブラックロックをランツベルクは急ぎ引き止めた。
「お寄りになりませんか、家に」
「明日が――」 
「お寄りになって下さい。それとも」
 なおも口実を探す手を取り、ランツベルクは有無を言わせぬ口振りで言った。
「怖いんですか」
「何がだ」
「ならいいでしょう」
 半ばごり押し状態で、ランツベルクはブラックロックを家に引き入れた。
 ランツベルクは俗に馬小屋アパートと呼ばれる建物に住んでいた。その名の通り、昔の厩舎を改造して作られたアパートメントである。扉のない門のような構えを潜ると、その両脇に背の低い小さな家が並んでいる。
 郊外に大きな邸宅を持ち、都心には小さくて綺麗なアパートメントを持つ、それがジェントリー階級のスノビッシュな贅沢とされていた。
 ブラックロックにソファを勧めると、自分は酔い覚ましの意味もあり、キッチンで水を一杯飲んだ。薬缶に火を掛け、居間に戻ると、上司は落ち着かない様子で部屋の調度品などを眺めていた。
「何か?」
「いやお前らしい家だと思ってね? 品が良い」
「貴方の家にも品がありますよ、清貧に暮らしていらっしゃる」
 居間には上司が来ることがあれば、片付けようと思っていた家族の写真があった。幼い自分と父と母。父と母、そのそれぞれの肖像写真。
「やっぱりお前と母上は似てるんだな」
 一瞬ひやりとしたが、ブラックロックは軽くそう言っただけで、他の写真については触れようとしなかった。
 これ見よがしではないだろうと思っているものの、実家の城や母の屋敷から持ち出したそれらは、高級品ばかりだ。清貧な上司がそれをどう見たか、ひどく気に掛かる。
「あ……」
 上司は唇を開きかけたものの、何故か言い淀んでしまった。
「どうされました?」
「一緒だったな、ハードカースル」
 やはり見られていたのだとランツベルクは唇を噛んだ。
 一体どこから見ていたのだろう、別れ際のハグも見られただろうか。あれは親愛の意味合い以外の何物でもなかったのだが――。
「主任警部になられたとお聞きしたので、お祝いを」
「お前がそれほど奴と親しい仲だったとは知らなかった」
 ランツベルクはブラックロックの言葉に微かな棘があるのを敏感に感じ取った。
「お会いして話すのは半年振りですよ」
「会食するような仲とは」
「何年仕事を共にしようとレストランにさえも誘われない上司を持つ身の上ですから」
 言ってしまった。
 ブラックロックは呆気に取られたような顔つきで自分を見ていた。
「よく行くだろう」
「ああ、行きましたね、一年と七ヶ月前のクリスマスイブに。それから庁舎前の大衆食堂ではよくご一緒致しますが、あれをまさかカウントしている訳ではないでしょうね」
 怒りを露わにして言うと、ブラックロックは気圧されたようだった。
「すまん。お前のプライベートに立ち入るつもりはなかった。ただ少し意外に思っただけだ」
 上司に隠さなければならないプライベートなど、あいにくとランツベルクは持ち合わせていなかった。
 しかし今日の会食について上司に話さなかったのは、やはり心のどこかで疚しく思う気持ちがあったからなのかもしれなかった。その相手が彼のライバルと評判のハードカースル主任警部だけに余計。
「貴方の人間関係は他の人とは違うんですね」
 薬缶の湯が沸き立ち、ランツベルクは再びキッチンに立った。酔い覚ましに紅茶でも、と思っていた。だが紅茶などでは収まらないほど今のランツベルクは興奮していた。ガスの火を消すとサイドボードに向かい、コニャックの瓶を取り出した。
「貴方と食事をするまでに一年、貴方の家に呼ばれるまでに二年、私の家にいらして頂けるまでに二年と7ヶ月掛かりました」
 キッチンのカウンターの上で、バカラのコニャックグラスにそれを注ぐと、ランツベルクは立ったままで飲んだ。
「何をそんなに怖がっていらっしゃるのかと正直不思議に思いますよ」
 上司に向き直ると、挑戦的な口調で言った。
「ランツベルク」
 ブラックロックの眉根が寄り、怒りの表情を形作った。
 ランツベルクは片手だけで新しいコニャックグラスにコニャックを注ぐと、それを上司の方に向けて押しやった。
「貴方が他人とどのような関係を持とうともそれは貴方の自由です。けれど貴方の主義を私にまで押し付けようとするのは止めて下さい」
 ブラックロックはグラスを取り上げると、喉に流し込むようにしてそれを飲んだ。やがて目を上げると、真っ直ぐにランツベルクを見た。
 瞳孔が針のように細くないのが不思議なほど、猫じみたその双眸には皮肉げな光が煌いていた。昔、猫を飼っていたため、そんなことも判った。
「で、寝たのか」
 ランツベルクは自分の心が急激に冷えていくのを感じていた。不思議だった。怒りが強まれば強まるほど、裏腹に心は冷えて固くなっていく。
「気になりますか」
 ハードカースル主任警部にとんでもない濡れ衣を着せかけようとしている自覚はあった。何、後で冗談でしたと言って取り消せばいい。今はどうしても、クールを装う熱いこの男を揺さぶりたかった。
「どっちが良かった?」
 表情一つ変えず片眉を上げて問い掛けられ、ランツベルクもまた皮肉がちな笑みをもってそれに応えた。
「比べさせて頂けますか」





 いきなり髪を掴まれ、喉に屹立が押し当てられた。のっけから激しいディープ・スロートを要求され、ランツベルクは狼狽した。そのまま容赦なく喉奥を突かれてえづく。
 一度口から吐き出して、改めてその笠の張った、逞しく血管の浮いたそれを舐め始めた。
見せつけるように舌を伸ばして裏筋を舐め、笠の部分を口に含んだ。被虐の悦楽がそこにはあった。自分は同性の性器を口に含み、刺し貫かれるそのために、それを大きく育て上げようとしているのだ。
「ふ……大き…」
 張った部分を甘噛みすると、ブラックロックはぶるりと身を震わせ、逞しいそれは一際大きくなった。
 乱暴に肩を押され、口から屹立が引き抜かれた。名残の唾液が糸を引いた。
「……まるで獣ですね、昨日の今日で。元気でらっしゃる」
 物欲しげな唇にブラックロックの唇が押し当てられた。下唇を食んで舐め、角度を変えて情熱的に口付けてくる。逞しいその背中に手を回してキスに酔った。
 どうして自分がセックスフレンドなどという屈辱的な立場に甘んじているのか、その理由が今こそ判った気がした。
――抱かれている時しか自分の物という確信が持てないからだ。
 ベッドの上で膝立ちさせられ、壁に手を付かされた。
 スプリングの軋まない、上司の部屋のベッドの上ではない交接は初めてのことだった。そして日常生活を送っている家での非日常はたまらなくランツベルクを興奮させた。
 ブラックロックの指が慎ましやかな蕾を探り、こじ開けた。そこに生温かい舌が滑り込み、ランツベルクは怯んだ。
「お前が誰と寝ようとも抱かれようとも構わない。だが、お前を一番悦ばせられるのは、この俺だ」
「や、止め……っ…」
 抗おうとして身を捩るが、ブラックロックはそれを許さない。
 がっちりと腰を抱え込み、舌を伸ばして丹念に襞を舐めた。蕾は感じて、きっとヒクヒクと震えていることだろう。尖らせた舌先で感じる部分を擦られ、ランツベルクはついに音を上げた。
「ああっ」
 壁に付く手に力を入れ、崩れ落ちそうになる身体を必死で支えた。過ぎる悦楽に、視界すら白く霞むような気がした。
 子供のようだ、この人は。
 愛を欲張り、人に自分を愛するように強要し、それでいて人には愛をやらない。
 それは生まれ持った性格なのか、それとも過酷な生い立ちが作りあげたものなのか。
どんなにか望んだことだろう。レストランでの会食を、観劇を、いや競馬だっていい。その他スノビッシュな嗜好を持つ自分の趣味に伴うあれこれを。
共に出来ればどんなに良いと思ったことか。
だが、それが叶わなくても良いと思った。
どんなに贅を凝らした楽しい遊びを他の人間と共にしても、この人のベッドの上でこの人と共に燻らす煙草に勝る物はなかった。その味は値千金なのだ。
ブラックロックはすっかり解れきった蕾から唇を離すと、後孔に屹立を宛がった。
 期待に口の中に生唾が溢れる。まるで盛りのついた雌犬のようだと自分でも思った。
 襞が開かれ、待ち焦がれていた熱い大きな物が入り込んで来る。それだけで眩暈を覚えるほどの快感があった。
 壁に付いていた手が落ち、ランツベルクは腰だけを突き上げた淫猥な格好となった。
 身体を返されて上向かされると、印象的な猫の瞳がそこにはあった。
ブラックロックもまたいつになく激しかった。激しく強く抜き差しされて、声を殺せなくなる。
その激しさの理由は嫉妬からなのか、それとも子供じみた独占欲ゆえか。
 祈るような気持ちで思った。
 前者であればよいと。




 情事の後はいつも空しさが残る。
 その空しさを埋めるために人は煙草に手を伸ばすのだろう。
 手持ち無沙汰の様子の上司を見て、ランツベルクはベッドサイドテーブルの引き出しを開け、そこに入っていたラッキーストライクの箱を差し出した。
「いつか来られるだろうと思っていましたから」
 ブラックロックは煙草の封を切りながら気安く言った。
「俺に惚れたか?」
 いつもの口癖だった。それに返す言葉もまた決まっている。まさか、だ。
 だがランツベルクはもはやお約束のようになっているその一言を口にしなかった。
「惚れてますよ。もうずっと昔から」
 ルビコン川はイタリアの北部を流れる小さな川である。だが、ジュリアス・シーザーの時代、その川は本国であるイタリアと辺境とを分ける国境線の役目を果たしていたという。
 武装を解かずこの川を渡ることは、すなわちローマへの反逆と見なされた。ジュリアス・シーザーは武装を解かずこの川を渡った。その時口にしたのが、賽は投げられた、であった。
 決して後戻りのできない重大な決断と行動をすることの例えとされている。
賽は投げられた。ルビコン川は渡ってしまった。
「貴方だってご存知だったでしょう?」
 上司とはもう長い付き合いになるが、次に返って来る言葉が想像もつかないというのは初めての経験だった。
「もっと恐ろしいことを教えてさしあげましょうか。私は貴方が初めての相手で、貴方以外の誰にも抱かれたことはないと」
 恐ろしいほどの純情をついにランツベルクは打ち明けた。

 ―― The die is cast. ――
 
 そう、賽は投げられたのだ。




( 了 )
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