キャビネ・ノワール 20





 オーストリア帝国皇帝カール六世の次女たるマリア・アンナ・フォン・エスターライヒは、1744年1月、ロートリンゲン公子カール・アレクサンダーと婚礼の儀を執り行った。
 同年12月、マリア・アンナは子を死産し、死産した子と共に亡くなった。
 カール・アレクサンダーはその死を深く悼み、生涯に渡って独身を貫いたという――。





 1792年、秋、コブレンツ。




 難破する船の船底から逃げ出す鼠さながら命からがらフランスから脱出を果たしたものの、行く当てなどなかった。
 亡命貴族(エミグレ)の仲間を求めて辿り着いたのが、ライン渓谷の中流上部に存在する街、コブレンツだった。コブレンツはトリーア大司教領に属する。
 亡命貴族がひしめくコブレンツはさながら小ヴェルサイユの様相を呈していた。
 宮廷の中心はルイ十六世の弟たるプロヴァンス伯とアルトワ伯だ。
 何と不運な、デュヴァリエ伯は溜息を付いた。
 人生も終わりかけとなってこのような目に遭わされようとは……。 
 それでも、自分はまだしも幸運な部類に入るのだろう。プロヴァンス伯と同日に亡命を図り、失敗し捕らえられた国王夫妻のことを思うと身も竦む思いがする。
「首を槍先に?」
「何と、恐ろしい!」
 貴婦人の扇の陰で交わされる会話も殿方の品定めとは程遠い、陰鬱なものばかりだ。
 性癖を誤魔化すことが出来ず、妻も子も持たなかったのは、今となれば幸いだったのかもしれない。自分にはその身を案じなくてはならぬ妻も子もいないのだから。
 だが、領地に残して来た家令からの送金も、文も途絶え、今は手元に残された宝石を数えるばかりの日々だ。
 皆、先に逝ってしまった。
 若く美しかった王――デュヴァリエ伯にとって国王とは未来永劫ルイ十五世であった――はあろうことか天然痘で亡くなり、リシュリュー公は九十二歳での大往生。
 それにしてもリシュリュー公は何と多くの女を陛下に斡旋したことか。
 マイイ伯爵夫人を手始めに、ヴァンティミール侯爵夫人、シャトールー公爵夫人。従妹たちが打ち止めとなり、それまで独占し続けていた公式寵姫の座をブルジョワのポンパドゥール侯爵夫人に奪われると、最後はパリから娼婦を担ぎ出した。マリ=ジャンヌ・ベキュー、デュ・バリー夫人だ。それにしてもあれは世にも婀娜な女であったな。
 娼婦を公式寵姫に斡旋したがために、当時の王太子妃に嫌われたのが運の尽き。リシュリュー公は表舞台から姿を消した。それでも革命に遭わずしてその生涯を全う出来たのは、何と幸運なことだろう。
 誰しも自分が若かった時代こそが一番輝いていたように思うもの。
 国王陛下、リシュリュー公、あまたの王女たち。王は結局、長女のルイーズ・エリザベート姫を除き、王女たちを誰一人として手放さなかった。
 第二王女のアンリエット姫は天然痘に罹患し、若くして亡くなった。
 昔はたいそう美しかったのだと言っても誰も信じては貰えぬ老嬢となってしまったアデライード姫とヴィクトワール姫はその道中に幾度も革命軍に捕らえられながらも、ローマに亡命を果たしたという。
 そして――。
 デュヴァリエ伯の口許に仄かな微笑が刻まれた。
 ラインラントの大使、カッツェンエルンボーゲン伯の何と美しかったことだろう。
 いつか再び王子の花嫁を求めに戻ってくるだろうと指折り数えて待っていたが、結局その日は来ず仕舞いだった。
 デュヴァリエ伯は後にも先にもあれほどまでの美貌の持ち主に会ったことはなかった。何と言っても、彼の帰国の痛手に耐えかね、帝国の大使が失踪するほどであったのだから。
 息災であろうか。それとももうずっと先(せん)に亡くなられたか。
 うつらうつらしながら追憶に浸っていたデュヴァリエ伯爵だったが、あることに気付き、肘掛け椅子から身を起こした。
 ラインラント王国はコブレンツから程近い。もしも確かめられるものなら――。
「デュヴァリエ伯爵閣下であられますか」
 突然声を掛けられ、デュヴァリエ伯は慌てふためいた。
「いかにも」
 急ぎ威厳を取り繕って顎を引くと、目の前に手紙が差し出された。すぐに裏を返すが、そこに差出人の名はなかった。
 封蝋に印璽(シール)で刻印された獣は狼。それはまごうことなきラインラント王国のシンボルであった。





 手紙の内容はラインラントへの訪問を乞い願うものであった。
 差し向けられた豪華四輪馬車に乗り込み、デュヴァリエ伯は一路ラインラント王国に向かった。
「国務大臣閣下がお待ちでございます」
 ニンフェンベルク宮殿の奥深くまで入り込みながら、デュヴァリエ伯は自分に面会を求めてきた国務大臣の正体を未だ図りかねていた。
 まさか、あの方か。
 だが、カッツェンエルンボーゲン伯は自分のことを知らぬ筈だった。彼への紹介者を求めて日夜奔走していたあの日々を、デュヴァリエ伯はまるで昨日のことのように鮮明に思い出すことが出来た。
 では、一体誰なのか。
「私が誰なのかおわかりになられますか」
 部屋に入るなり、国務大臣は笑って言った。
 親しげに振舞われて戸惑う。
 だが、知っている。私はこの男を知っている。デュヴァリエ伯の瞳が大きく見開かれた。
「まさか」
「結局、私はシャルトルにも聖ミカエル山の修道院にも行かず仕舞いでした」
「ヴェルフ伯!」
 それは五十年も昔にヴェルサイユから失踪した帝国の大使であった。
 当時、デュヴァリエ伯は帝国からの使者に何度も証言させられたものだった。
 はい、シャルトルかモン・サン=ミシェルに。最終的にどちらに行かれたかは存じません。気落ちをされているご様子でした。事故? 或いはそうかもしれませんが、私には何とも。ええ、供は付けぬと仰っておりました。何故? 一人になってゆっくり考えられたかったのではないでしょうか。さあ、私もそこまでは……。
 その半年後、ヴェルフ伯の弟を名乗る青年が尋ねてきた。デュヴァリエ伯は再び同じ内容を繰り返した。弟君は帝国の使者よりも執拗だったが、皇帝が急死し、女帝の継承を巡って戦争が勃発したために、帝国へとんぼ返りをしなくてはならぬ羽目に陥った。
 デュヴァリエ伯の驚きをよそにヴェルフ伯は笑って。
「コブレンツに亡命貴族(エミグレ)方が続々と集結している聞き及び、よもやと思いながらも貴殿の名を問い合わせたのです。――驚きました、ひょっとしたら同名のご子息かとも思いましたが」
「私の性癖はよくご存知でございましょう。結局、誤魔化すことは出来ませんでした」
 ヴェルフ伯は同意を示すように深く頷いた。
「この五十年もの間、一体どこにいらっしゃったのですか」
「ずっとこのラインラントに」
「何と」
「流石にもう、私を探す者も、連れ戻そうとする者もおりますまい」
「ご事情がおありのようですな」
「それをお話しする前に貴殿と取り交わした約束を五十年ぶりに果たそうと思うのです。――参りましょう」
 ヴェルフ伯はデュヴァリエ伯を謁見の間に誘(いざな)った。
「私たちもまた、貴殿にお尋ねしたいことが山とあるのです。どうかお教え下さい、ヴェルサイユのその後を」
 私たち。複数形であることをいぶかしく思いながら、デュヴァリエ伯は謁見の間に向かった。
 そしてデュヴァリエ伯はラインラントの国王と謁見を果たし、再び驚かされることとなる。
 その後、デュヴァリエ伯はラインラント王国に賓客として迎えられ、死ぬまでかの地に留まった。





――我の後に大洪水あれ。 Apres nous, le deluge.


 世にも有名なこの言葉はルイ十五世の公式寵姫であったポンパドゥール夫人が言ったものとも、ルイ十五世本人が言ったものとも、後世の創作だとも言われ、発言者は定かではない。
 フランス革命の原因となった国庫の破綻。これも王族の多大な浪費、貴族への莫大な年金等、様々な理由が挙げられている。
 だが、破綻の最大の原因はやはり戦費であろう。
 ルイ十五世の実質的な宰相であり、「彼の永遠」と謳われたフルーリー枢機卿は晩年、バイエルン公の支援のためにオーストリア継承戦争に参加し、戦費により財政を逼迫させた。或いはそれこそがアンリ四世から始まる栄えあるブルボン王朝の終焉の始まりとなったのかもしれない。
 フルーリー枢機卿は革命から遡ること五十年、九十歳にてこの世を去っている。 








( 了 )
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