クラリッジで朝食を






「父に会わせた時よりも心配ですよ」
 世話女房よろしくタイの結び目を直しながら、ランツベルクは言った。
「何故だ」
「前に言いましたね、母は父と別居中なんです」
「だから?」
 少し下がって、サヴィル・ロウ仕立てのスーツに身を包んだ上司の姿を見る。
 完璧だ。
 ランツベルクはブラックロックの首の後ろに手を回すと、音を立ててキスをした。
「母が貴方に惹かれてしまったらどうしようかと」
「そいつを人は」
 再び唇が重なる。重なり合った唇の隙間から熱い舌が差し込まれ、ランツベルクは情熱的なそのキスに酔った。
 彼を彼たらしめている、印象的な猫の瞳が煌めく。
「恋人の欲目というんだ」
 上司と自分の父が似ているとは皆目思わないが、父の方が夢中になり、母は口説き落とされたのだと聞く。父の持つ爵位に目が眩まなかったとは、恐らく言い切れないだろう。
 そして上司の性愛の相手は恐らく男女とも、だ。嫉妬の泥沼に落ち込むことが目に見えているため、直接聞いたことはないが、言葉の端々からそう推測した。
 一度気になり始めると、すべてのことが気がかりとなる。上司はかつてランツベルクにこう言ったことがあった。

――俺は断然エリザベスよりメアリが好みだ。全身これ女って感じがしないかい。

 そしてランツベルクの母の十八番はそのスコットランドのメアリだったのだ。

「で、誰が来るんだって?」
「皇太子殿下ですよ」
「尋ねてみようか、スペンサー嬢と結婚はするのかと」
「ご随意に」
 ランツベルクの母が初めて舞台を踏んでから三十年――或いは四十年だったか――、それを記念するカクテルパーティなのだという。スノッブ極まりないが、会場はバッキンガム宮殿別館の異名を取るクラリッジホテルだ。何とも名誉なことに王室関係者が臨席されるとの話を聞き、上司をもぐりこませてみようという気になった。
 そして王室への純粋な好奇心は上司の重い腰さえも動かしたのだ。
 放っておかれたことが不満なのか、ブラックロックの足元でじゃれつく子猫を抱き上げると、ランツベルクはおもむろに言った。
「それでは、行きましょうか」
「了解、閣下(イエス、マイ・ロード)」
 ランツベルクの自慢の恋人は冗談めかしてそう答えた。





 正面玄関の前で車を留めた。制服のドアマンがドアを開けるのを待って、二人は車から降り立った。
 恋人の欲目と上司は否定するが、チェスターコートを優雅に着こなした上司のその姿を改めて見、ランツベルクは誇らしさの余り、今やヒキガエルのように膨れ上がっていた。
 会場は人と花の香りであふれていた。ざっと見回しただけでも、見覚えのある顔が幾つも飛び込んでくる。政財界の大物、作家、映画俳優――。その中心にランツベルクの母、レベッカ・フォンティーンがいた。
「若いな」
「見かけだけかと」
「まあ、スティ!」
 両手を大きく広げて、レベッカ・フォンティーンは息子を迎え入れた。
「盛況ですね」
 主役の息子の登場に会場は沸き立った。芸能記者たちが周囲を取り巻き、フラッシュが瞬く。
 上司は少し下がったところから二人の様子を眺めていた。
「わたしがこの世に生まれて来た理由は二つあると思っているわ、その一つがお芝居ね」
「もう一つは?」
「貴方をこの世に産み出したこと」
 優美な銀狐のケープが白い肩からずり落ちていた。それを直してやりながら。
「父上はどうなさったのです」
「招待状は送ったわ」
 来るかどうかはあちらの自由、と言って、拗ねたように肩をそびやかせる。
「母上」
 ランツベルクは振り返り、母に上司を紹介した。
「以前に話したことがありましたね、私の上司の」
「あら、素敵な殿方だこと」
 自分とよく似た金褐色の瞳が上司を映す。
「ヒース・ブラックロックです、マイ・レディ」
 正式には離婚してはいないんだろう、とランツベルクに尋ねていた。恐らく呼び方を考えていたに違いない。離婚していなければ、伯爵夫人。そう、マイ・レディで正解だ。
「お噂はかねがね。主任警部さん、でいらっしゃったわね」
 会場の入口がにわかに騒がしくなった。人々は口々に呟いていた。皇太子殿下(ユア・ハイネス)……!
「失礼」
 ランツベルクの母はそう断ると、皇太子に礼を尽くすべく、会場入り口に向かって歩き出した。





 レベッカ・フォンティーンの息子と話すことを楽しみにしていた客人を無下にすることは出来ず、満足しきるまで相手をした後で会場を見回すと、そこに上司の姿はなかった。
 ランツベルクは迷うことなく会場を後にした。
 クラリッジのロビーは宮殿さながらの豪華さだ。ややあってランツベルクは階段の陰のソファに腰を下ろす上司を見つけ出した。
「俺としたことが、人に当たった。さすがに犯罪者相手とは訳が違うな」
「殿下のご印象はいかがでしたか」
「写真と寸分違わず、といったところか。だが、俺の親父とお袋が生きていたら、さぞや羨ましがったことだろう」
 ランツベルクは上司の隣に腰を下ろした。
「レベッカ・フォンティーン、本名か?」
「いいえ、ヒッチコックの映画から取った芸名だそうですよ。本名はごく普通の――」
「あっちも写真と同じ顔だったが、実物はオーラが違うな」
「曲がりなりにも女優ですからね」
「後でサインを頼んでも良いかい。主任警視への土産に」
「お安い御用ですよ」
「スコットランドのメアリが十八番だったって? 成程、雰囲気だな」
 何の変哲もない会話の押収。けれども何故か、そこには奇妙な緊張感が漂っていた。互いに核心には触れないまま、当たり障りのない話題に終始しているような、そんな気がしてならなかった。
「いつかは、と思ってる」
「何が、ですか」
「おまえの父親に会った時にも同じことを思った。おまえは伯爵の子息で、しかも一人息子だ。おまえが子供を作らなければ、おまえの家は断絶……」 
「それは」
 ランツベルクは鼻白み、上司の言葉を途中で遮った。
「貴方も同じでしょう」
「伯爵の息子と銀行員の孤児を一緒くたにするな。俺はどこまで行ってもミスターだ。警視総監にまで昇りつめれば、或いは女王陛下から名誉あるサーの称号を賜れるかもしれない。だが、そこまでだ。おまえのようにロードと呼びかけられる日は永遠に来ない」
「時々思いますよ」
 ランツベルクは一語一語をハッキリと区切って言った。
「貴方が共産主義者(コミュニスト)なら良かったと。カトリックで死刑復活論者の貴方ともあろう方があまりに保守的過ぎはしませんか」
「カトリックは保守的と相場が決まってる」
 ランツベルクは憤然と立ち上がった。広いロビーを横切り、フロントに向かう。フロント係と二、三言、言葉を交わし、戻ってくると。
「部屋を取りました。――行きましょう」





「俺の月給が半分がところ吹っ飛びそうな部屋に連れ込んで何をする気だ、貴族さま」
 部屋に入るなり、上司はそう毒づいた。
 ランツベルクはその場に跪くと、ブラックロックのスラックスのジッパーを引き下げた。掌に包んでそれを引き出すと、躊躇なく口に含む。
「な……!」
 舌を這わせ、唾液を塗し、張り出したその部分に喉奥で刺激を与える。
 髪を掴まれて、仕方なしに顔を上げた。
「どういうつもりだ」
「さきほど仰いましたね、いつかは、と」
 ことさらに見せつけるようにして先端を舌先で擽る。
「いつかは? いつかは別れるべきだと?」
 ブラックロックは息を詰め。
「――今はとは言わない。だが、いつかは俺たちは離れた方がいいんだろう」
「貴方が言ったんですよ」
 内心のいら立ちが態度に出てしまったのだろう。ランツベルクは上等な上着を床に放ると、ベッドの方に歩いていった。
「好きだ、愛してる、一生一緒に。そうして誓った言葉を人はすぐに裏切ると」
 シャツのボタンを外し、ベッドに上がる。
「私は決して貴方を裏切らない。貴方の忠実な――、犬ですよ」
 全裸を晒し、脚を大きく開いた。
 言ったそばから皮肉らしくこう思う。
 いや、むしろ雌犬かもしれない、と。




「あぁ……っ、……っ」
 バスタブの縁に腰を掛けた上司の首の後ろに手を回し、向かい合わせとなる形で深く貫かれながら、ランツベルクは絶え間なく喘ぎ声を上げていた。自分では決して触れることの出来ぬ深い場所。その場所を愛する男が抉り、穿っている。
「……、っ…く…ッ…」
 自重が掛かっているため、動きが自由にならず、もどかしい。
 強い力で両脚を抱え込まれ、突き上げられた。
「あ、ああッ!」
 何度こうして身体を重ねたことだろう。
 最初はただのセックスフレンドだった。
 臆病でつむじ曲がりなこの人を相手に、日々を積み重ね、ようやく揺らがぬ関係を構築したと思っていた。だが、それは自分はこうあって欲しいと思った幻想にすぎなかったのかもしれない。
「ん……ん…っ…」
 突かれるその度に鼻に掛かったような喜悦の声が漏れてしまう。
 それに呼応するかのように突き上げが早まる。

 あの言葉が、自分を、自分の家のことを思っての発言だったということはわかっていた。だが、上司のその思いやりこそが無性に腹立たしい。
 なぜわからない、どうしてわかってくれないのだろう。

「中でたくさん出し…下さい」
 耳元で囁くと、ランツベルクの内の牡が一際大きくなるのがわかった。
 ブラックロックは眉を寄せ、息を荒げながら腰を打ちつけてくる。一際強く突き上げられて、ランツベルクはついに限界を迎えた。嬌声と共に熱い屹立を締め付けてしまう。
「ああァ…ッ!!!」
「…く…っ!」
 それと同時に身体の最奥で熱い飛沫が弾ける。
 二人はこれ以上ないというほど互いの身体を密着させたまま、ほとんど同時に果てた。
「ランツベルク」
「ヒース……」
 ブラックロックはランツベルクの体内から屹立を引き抜いた。そしてランツベルクを両手で抱き直すと、ベッドに運び、上掛けの上に横たえた。
 離れていこうとしたところを、首に手を回して引き寄せた。
「貴方は何もわかってはいらっしゃらない」
「わかっていないのは――」
 際限なく繰り返された情事のためか、ブラックロックの声は低く、掠れていた。
「おまえの方だ。俺はおまえの城を見た、おまえの領地を、おまえを可愛がる両親も。譲り渡したいとは思わないのか。自分の血を分けた存在に、おまえの生まれ育った城を、領地を」
「税金に頭を悩ませるちっぽな城と領地、それが何だと言うんです。いとこがいます。その子孫がきっと受け継いでいってくれるでしょう」
「爵位はどうだ。おまえの先祖が血を流して手に入れた……」
「貴方も私も、愛のために王冠すら捨てた国王を持つ国の国民でしょう」
 王冠を捨てた国王。言わずと知れた、アメリカ人の人妻ウォリス・シンプソンとの結婚のために王位を捨てたエドワード八世のことであった。
 形の良いその唇に自らの唇を重ね、貪るように口づけた。赤子が乳をねだるように口内を探り、舌を絡める。ブラックロックはしばしさせるがままとしていたが、やがて舌を絡めてそれに応えた。
「――王室は皇太子のために、処女でプロテスタントの花嫁を探そうと必死。けれど私は思いますよ、愛のない結婚。それで殿下は果たして幸せになれるのかと」
 ブラックロックはもはやそれ以上の議論を仕掛けてはこなかった。
 ランツベルクをその胸に抱き寄せ、黙って話を聞いていた。
「貴方が私の家について思いを巡らせているその時、私はまったく別のことを考えていましたよ」
「何をだ」
「母が貴方に惹かれたらどうしよう。貴方が母に惹かれてしまったらどうしよう」
「何を馬鹿な」
 一蹴されたが、ランツベルクは恐ろしいまでに本気だった。
「ご存知かと思っていましたよ。私は物凄く嫉妬深い人間なんです。貴方が一瞬でも他の人に気を取られることが許せない。たとえそれが母でも」
 その逞しい胸に身を委ねながらランツベルクは言った。
「――家も、後継者も、貴方の存在の前には無にも等しい」
 ブラックロックの瞳がにわかに大きく見開かれる。
「貴方が私だけを見てくれるのなら、他には何もいらないんです」
 閉ざした瞼に口づけが落される。
 ランツベルクはようやく安堵して眠りについた。





「先に食べて下さっていても良かったんですよ」
 早朝のクラリッジのダイニングは人影も疎らだった。テーブルに着いたランツベルクを目ざとくも見つけ、給仕が注文を取りにやって来た。
「間に合いますか」
「いや、十分もあれば充分だろう」
 クラリッジからロンドン警視庁庁舎があるブロードウェイ通りまでは至近だ。せっかくクラリッジに泊まったのだからと二人は朝食を摂ってから出勤することとしたのだ。
「昨夜は遅くまで盛り上がったようで、まだベッドの中でした」
 ランツベルクは主任警視への土産とするべく母親にサインを貰いに行っていたのだ。
「聞かれましたよ、あの殿方とは朝まで一緒だったのかしら、と」
 テーブルに並べられているのは、カリカリのベーコン、トマトが添えられた卵、トーストにマーマレードといった伝統的な英国風朝食だ。
「上司の具合が悪くなり、急遽泊まった。心配だったから付き添ったと言いましたが――、マーマレードは?」
「もらおう」
 ランツベルクは上司にママレードの小皿を回した。
「すべてお見通し。私の悩みはどうや杞憂のようでしたよ。使い古されたフレーズですけれどね。そう、ママは何でも知っている( Mother Knows Best ) 」
 トーストにマーマレードを塗る、上司のその手が一瞬、止まった。
「こう言いましたよ。好きになさい、私も好きに生きているわ、と」
 ランツベルクは煎り卵に塩を振りかけながら。
「これで公認の仲ですね」
「馬鹿を言え」
 そう言いながらも、ブラックロックは笑ってベーコンを取った。











( 了 )
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