犯罪は貴族の愉しみ 7





 月が出ていた。
 
 ブラックロックはゆっくりと身を起こした。
 全身がひどく痛んだ。
 フロントガラス越しの月はぼんやりと朧ろに霞み、ひどく美しかった。
「ビートルの原型は、フェルディナント・ポルシェ博士がヒトラーの命令一下、造り上げたものです。水の得にくい荒地でも稼動するようにとの配慮からエンジンは空冷。またビートルは水陸両用車のキューベル・ワーゲンの流れも汲んでいます。つまり――」
 ランツベルクは珍しくも悪童のような表情を浮かべて、助手席のブラックロックを見た。
「水に浮くんですよ」
 ブラックロックはうなるように言った。
「……そういうことは先に言え」

 川面に視線を落とすと、続いて転落し沈んだベントレーの車内からブランダイナが浮かびあがってきていた。
 まだ逃げるつもりでいるらしい。岸に向かって懸命に泳いでいる。
「結局のところ濡れる運命か」
 ランツベルクは軽く肩を竦めて同意を示した。
 開いたままだった窓から浸水が始まっていた。二人は互いに頷き合うと、川に飛び込んだ。
 ブラックロックはしみじみとランツベルクに言った。
「必死だな」





 サンダーランド公爵は、サヴォイホテルのロビーで手紙を広げていた。
 手紙の差出人は女王陛下夫妻。
 ケント州にある公爵の領地で行われる狩猟大会の招待状の返信である。手紙を読み終えると、公爵は満足げに息を付いた。
 スイングドアが回り、新しい客が入って来た。何気なくそちらに目をやった公爵は相手の姿を認めるや、瞳を瞬かせた。

 会ったのは、もう十年近く前のことだろう。忘れてしまっていても不思議はなかったが、会った場所はウィーンで、ちょうど舞踏会のシーズンだった。そしてその時、彼は世にも有名な女優の母親と一緒だった。
 公爵はその後も度々、姉弟と見まごうばかりに美しかったその母子のことを、ウィーンの舞踏会と共によく思い返していた。
 だから、満面の笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「これはこれは、|ステファン卿《ロード・ステファン》では?」
 公爵に呼びかけられた青年は驚いたように琥珀の瞳を見開いた。

「|公爵《デューク》、お会いするのはウィーン以来ですね」
「貴方が英国に来ているとは存じ上げなかった。レディ・ランツベルクはお元気でいらっしゃいますか?」
 公爵の中では、彼はランツベルク伯爵の嫡子というよりも、むしろ舞台女優のレベッカ・フォンティーンの息子という印象が強くあった。
 サンダーランド公爵はいたるところで控えているボーイを呼びつけると。
「君、珈琲を三つ持ってきてくれたまえ」

 三つと言ったのは、ステファン卿は人を連れていたからだった。
 サンダーランド公爵はステファン卿の隣に立つ若い男に如才なく微笑みかけた。どこかでお会いいたしましたか、あいにくと名前を思い出せないのですが、そんなニュアンスをこめて。
「初めまして、公爵閣下。ヒース・ブラックロックと申します」
 ステファン卿から男の紹介があるものと思ったが、ステファン卿は澄ました顔で珈琲を啜るばかりである。
 女優の母親によく似た白皙の美貌は十年前と何も変わらなかったが、ステファン卿もその隣の若い男も、落馬でもしたのか、傷だらけで、微かに消毒薬の匂いがした。
 奇妙な居心地の悪さを覚えながらも、公爵は。
「ところで、ステファン卿。貴方はいつから英国に滞在しておられるのですか。以前にお会いした時、ミュンヘンの大学に入られると聞いた覚えがありますよ」
「よく覚えていらっしゃいますね。大学は退屈で、私は一年と耐えられませんでした。そこで他の学校に通うことにいたしました。その学校はある特殊なスペシャリストを養成する場所で……」
「ほう、それはどのような学校ですか」
「あえて申し上げれば、福祉関係になるのかもしれませんね。世の中を少しでも住みやすくするために、私はその学校に入ったのです」
「それでご卒業はされたのですか? 今はその仕事に就いていらっしゃる?」
 ステファン卿はレベッカ・フォンティーンの息子らしい魅惑的な微笑を浮かべて公爵を見た。
「ええ、今日もその仕事のためにこちらに伺ったのです」
 ステファン卿は一枚の書状を取り出した。
「逮捕状です」
 若い男が立ち上がり、司法権発動に際しての口上を述べた。
「サンダーランド公爵閣下、貴方を麻薬取引の重要参考人として逮捕します。この後の発言はすべて書き止められ、証拠として扱われますので、そのおつもりで……」
 再び玄関のスイングドアが回り、十人ほどの制服警官が飛びこんできた。真打ち登場とばかり、一番最後に現れた主任警視は相手の身分にふさわしい最上級の敬意を払って。
「御同行を願えますかな、公爵閣下」
 サンダーランド公爵は品の良い態度で立ち上がった。
「いや、手錠は嵌めないでくれたまえ。逃げはしないよ。サンダーランドの名に誓ってそうしよう」
 主任警視は憐憫を含んだ目で、サンダーランド公爵を見た。
「貴方ほどの方が、なぜ……」
「サンダーランドの狩猟大会を楽しみにして下さっている女王陛下夫妻を失望させたくなかったのだよ。君は一回の狩猟大会にどれほどの金が落とされるのか考えたてみたことがあるかね。――くそったれ! 英国政府はどうしてあんなにも税金を絞り取るんだ!」





 サンダーランド公爵は主任警視と共にサヴォイホテルの玄関を出て行った。
「まるでジェリコの壁だな」
「旧約ですか」
「絶対に破られないと言われたジェリコの壁が角笛ひとつでもろくも崩れ落ちたように、公爵が作り上げた水も漏らさぬ組織も女の失言ひとつで瓦解するんだ……」
 二人の後姿を見送りながら、ランツベルクは寸鉄人を刺す毒舌を吐いた。
「主任警視とは本当に良い身分ですね。デスクにふんぞり返って自分は何一つ手を汚さず、それでいて手柄だけはしっかりと持っていく」
「俺が警視総監になったらそうはさせない」
 不遜な発言に絶句するランツベルクにウィンク一つ。
「そん時はおまえは副総監だろう」
 ブラックロックは言って、踵を返して歩きだした。ランツベルクが慌ててその後を追う。
「――おまえに何か礼をしないとな」
「そうですね。キス一回でいかがでしょう」
「随分と安いな」
「どうでしょうか。私は高いと踏んでいますよ」
「それじゃ、それにパブでの祝杯を付けようか」
 ランツベルクはブラックロックの顔を見据えたまま、一言。
「お珍しい」
「たまにはな」

 そして二人は連れ立ってスイングドアの方へと歩き出した。








( 了 )


( 了 )
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