毒を食らわば皿までも




               主よ
               私をあなたの平和の道具としてください
               憎しみのあるところには愛を
               諍いのあるところには許しを
               分裂のあるところには一致を
               疑いのあるところに信仰を
               誤っているところに真理を
               絶望のあるところに希望を
               闇に光を
               悲しみのあるところに喜びを
               もたらす者としてください
               慰められるよりは慰めることを
               理解されるよりは理解することを
               愛されるよりは愛することを
               私が求めますように
               私たちは与えるから受け
               許すから許され
               自分を捨てて死に
               永遠の命を頂くのですから



               聖フランチェスコの祈り





 ボビーという愛称で親しまれるスコットランドヤードの警官は原則として武器を携行しない。警棒のみが所持を許される。
 ピストルを常時携帯しているのは全体の三%に満たぬ少数派で、それは重大犯罪を扱う特捜機動課と言えども例外ではない。
 相手が武装しているのを視認してから、急ぎ待機車輌に取って返し武装するというのはよくある話である。
 そして内偵の失敗から、武装集団の中に丸腰で飛び込んでしまう事も多々あるのだ。



 乾いた発砲音がしたかと思うと、ランツベルク部長刑事の眼前で、男が右腕を抑えて蹲った。男は撃たれた衝撃で持っていた銃を取り落とした。
「主よ」
 声と共に再び発砲音がした。
 今度はランツベルク部長刑事の背後にいた男が脚を撃たれて倒れた。
「私をあなたの平和の道具としてください」
 最初に右腕を撃たれた男が利き手ではない左手で取り落とした銃を拾おうとする。その手の甲を正確に射抜かれ、男は悶絶した。
「憎しみのあるところには愛を。――ランツベルク!」
 声は銃声のする方向から上がっていた。名を呼ばれ、ランツベルク部長刑事はそちらに向かって飛びだした。
「畜生!」
 背後からの銃弾がランツベルク部長刑事の髪を掠める。
「分裂のあるところには一致を」
 イーストエンドの倉庫を根城とするヤクザ達は、その男が一体何を口にしているのか判らなかった事だろう。
 けれどランツベルク部長刑事にはわかった。これは聖フランチェスコの祈り。
 伝統的な英国国教会の教徒であり、大多数の英国人のたぶんに漏れず信仰心の薄いランツベルク部長刑事は、狂信者と見紛うばかりのカトリック上司の信仰心の深さに思う所はあるのだが、今は神の加護に縋るしかない状況だった。それで平常心が保て、射撃の精度が上がるのなら、幾らでも祈ってもらおうではないか。
 ああ、イタリアはアッシジに生まれし聖フランチェスコ。小鳥に説教をしたという聖フランチェスコ。
 どうか我が上司に、否、上司の射撃の腕にご加護を!
 ランツベルクはドラム缶の影に転げ込んだ。
「闇に光を!」
 続けざまに発砲音がしたかと思うと、ぱたりと銃声が止む。後に残るは、濃厚な血の匂いと男達の呻き声だけ。
 恐る恐るドラム缶の影から顔を覗かせたランツベルクに声がかかった。
「内偵は誰がやった?」
「確かリーガン刑事だと」
 ブラックロックはおよそカトリックとは思えぬ冒涜的な言葉を吐いた。
「後でこってり絞ってやる」
「――銃はどうされたのですか?」
「よくある話だからな、こっそり携帯してた。お前もこれだけは覚えておけ。許可は後で取ればいい」
 制服警官達がどっと倉庫に雪崩込み、形勢は逆転した。犯人の確保を部下に任せ、ブラックロックは手を差し出すとランツベルクを立ち上がらせた。
「六人もの相手と銃撃戦をやらかしたのは初めてだ。流石の俺も肝が冷えた」
「これも聖フランチェスコのご加護のお陰ですか」
「さあな、おおかた神が俺の前にひれ付せと啓示でも垂れたんだろう」
 ランツベルク部長刑事は思った。
 こんな台詞を真顔で言うこの上司が好きだったのだと。





 そろそろ潮時ではないかと思っていた。
 好きという言葉はキンダーの子供でも言える単純、かつ最強の飛び道具だ。それを封じられてしまったなら、相手に想いを伝えるのは難しい。
 いや当の相手があえて気付かぬようにしているのだから余計に始末が悪い。

――いつまでも黙って思っていると思ったら大きな間違いですよ。

 時々胸の内で嘯くが、所詮は負け犬の遠吠えという自覚はあった。
 刑事は二人組が常。仕事熱心な上司の元、それこそ一日中一緒に居る事もある。夫婦よりも長い時間を共に過ごし、信頼されている確信もあった。
 単純に嬉しい。だがそれ以外の感情もランツベルクは欲しかったのだ。
 ランツベルク部長刑事はその日、サグデン警視に呼び出されていた。
「ランツベルク部長刑事、特捜機動課には何年になる」
「二年になります、警視」
「二年か。どうだ、そろそろ他にも目を向けてみる気にはならないか」
「と申しますと?」
「犯罪捜査課の人手が足りない。その上であちらのハードカースル警部から推薦があった。内示を出す前に君の意思を確めておきたいと思ってね」
 殺人専門の犯罪捜査課。特捜機動課同様ストレスの多い部署だろうが、特捜が動ならあちらは静。違う意味でのやり甲斐があるだろう。そしてランツベルクはハードカースル警部をよく知っていた。
 ランツベルク部長刑事はゆっくりと唇を開いた。
「断る理由はありませんね」





 それを告げた時、ブラックロックは驚かなかった。恐らく彼独自の情報網で事前に情報を入手していたのだろう。そうか、と短く答えただけ。
「明日、内示が出ます」
「良いんじゃないのか。うちと違って知的な殺人犯と丁々発止の遣り取りが出来る。帰り際に『Just one more thing.(もう一つだけ)』なんて言って、犯人を追いつめるんだ」
 アメリカの刑事ドラマですか。ランツベルク部長刑事は思わずこめかみを指で揉んだ。
「ハードカースルの推薦があるんなら厚遇して貰えるだろう。奴はお坊ちゃまで優男だが――」
 吐き出された紫煙は溜息と同じだけの長さ。ブラックロックは指に煙草を挟んだまま。
「あいつがもっと嫌な奴なら引き止められたんだがな」
 ずんと胸に来た。
 駄目だ。上司のこれに、この思わせぶりな態度に、一体幾度騙されて来たことか。彼が欲しいのは優秀な部下としての自分。自分自身を必要としている訳では決してないのだ。
「寂しくなるな」
「そうですか、意外ですね」
 どうしても声に嫌味の響きが帯びてしまう。
「私は結局貴方のお住まいさえ知らなかったのに」
「……来るか?」
 上司の唇から飛び出してきた意外な返事にランツベルクは絶句した。
 これまで絶対に自分の領域に他人を入れなかったこの男が、家に自分を呼ぶ!?
「最後だからな。酒でも飲もう」





 謎の多い上司は聖フランチェスコもかくやと思われるほど清貧に暮らしていた。
 驚くほどに物は少ないが、吟味されて置かれた物の趣味は悪くない。祭壇の代わりだろうか、空樽の上にキリストのイコンが飾られていた。
「綺麗ですね」
「あんまり家にいないからな。お前もそうだろう」
 バザーで買ったというソファに腰を下ろしたランツベルクの前に、突如シャトー・マルゴーのボトルが置かれる。
「クリスマスに貰ったんだが、飲む機会がなかった」
 ブラックロックはナイフを使って器用にコルクを抜栓すると、ぽってりとしたボルドーグラスにワインをなみなみと注いで勧めた。
「丁度良かった。別れの酒だ」
 あまりにも洒落た酒、あまりにも洒落た言葉だった。
――思い出した。この人は……、気障なんだった。
 引きずり込まれるなと自らに強く言い聞かせながら、ボルドーグラスに口を付ける。
「トリュフの香りがしますね」
「ああ、深いな」
 背もたれのない丸椅子に腰をかけたブラックロックが答える。
「一緒に最後の酒を飲めて良かったよ」
 ランツベルクは掬い上げるようにして上司を見た。
 二年の間、何百回、何千回となく見た顔もこれからはもう見なくなるのだろう。幾ら同じ庁舎内にいると言っても仕事熱心な上司は特捜機動課を出る事は滅多にないのだ。
 ワインを嚥下する喉元を見ていたら、ふいに捨て鉢な気分になった。
 ソファから腰を上げ近付くと、身を屈めて不意打ちのキスをする。
 上司は一瞬目を見開いたが、すぐに舌を絡めてそれに応えて来た。
――酒の席。今日で最後。だからこそ、か。
 貪るような口付けを交わした後で、ランツベルクは手の甲で唇を拭った。
 心の中の悪魔が古い諺を囁く。

 Might as well be hanged for a sheep as a lamb.
 (小羊を盗んで縛り首になるより、羊を盗んで縛り首になったほうがまし)

 今日で最後、こんな機会はもう二度と巡って来ないだろう。どうせキスはしたのだ。それならば――。
「餞別代わりに続きはどうですか。私は主任警部の性生活に興味があったんです」
「俺は、遊びでしか人と寝ない」
 硬い声だった。瞬間、ランツベルクの身内に凶暴な殺意が過ぎる。
 何て、傲慢な男だろう。
「貴方を陥落させたいと思った一時もありましたが、難しそうなので早々に諦めましたよ。どのみち私も関係の継続を迫られても困りますので」
 ひらりと手を振る。
 蓮っ葉な女のような演技は完璧だったろう。さもあらん、部長刑事の母は女優だった。
「お互い大人ですからスマートにやりましょう。その代わり私の性趣向はご内密に願えますか。警察という組織は存外保守的ですからね」
「俺も人の事は言えない、だろう?」
 よく知っている相手と肌を合わせるのは奇妙な感覚だった。上司とは誰よりも長い時間共に居たが、衣服の下の姿は何も知らない。
 ブラックロックはランツベルクを寝室へと誘った。
 ベッドに腰を掛けると、タイを解き、上半身を晒す。なめし革を思わせる引き締まった肌を見て、ランツベルクは思わず息を飲んだ。
 上司はケンブリッジ大卒のインテリと聞いているが、特捜機動課は頭脳だけでなく肉体をも要求する部署である。その厚い胸板は同性でも見惚れるほどのものであった。
「どうした? 早く脱げよ」
 低い声で囁かれ、ランツベルクの胸は高鳴った。
――全く、女学生でもあるまいに。
 ぞんざいに衣服を脱ぎ捨て、ベッドに上がる。男のベッドは煙草の匂いがした。
 冷たい冬の外気に触れ、ランツベルクの乳首は既に尖っていた。それを温かな口内に含まれて吸われる。
「白いな、色。いつも思ってたよ」
「っ……」
「だが、ここだけは綺麗な薄紅色だ」
 かり、突起に歯を立てられ、ランツベルクは思わず喉を仰け反らせた。シーツを握る手に力が篭る。
 舌と舌とが触れ合ったその瞬間、電流が走った。
「貴方のキスはいつも煙草の味がしますね」
 思い出すのは一年前のクリスマスイブ。その夜初めて口付けを交わした。縮まるかと思ったその距離は、しかし一年を経た今でも何も変わらなかった。
 激しく舌を絡まされて吸われる。
「名前を呼んでもよろしいですか。その方が感じが出ます」
「感じが出るって言う割には崩さないな、態度」
「貴方の名前は変わった、けれども貴方らしい名前ですね」
「俺の姉の名はキャサリンだった。これでどっから取ったのか丸判りだろう。俺の母親はあの小説が大好きだった。あんな陰鬱で、登場人物が皆ぎゃんぎゃん喚いてるような小説、俺は嫌いだがね」
 ブラックロックは慣れた手つきで、ランツベルクの膝に手をかけると脚を割り開いた。
「久し振りなんだ。手加減出来ないかもしれない」
――悟らせない。
 ランツベルクは微笑を浮かべて挑発した。
「でしょうね、貴方の仕事量は誰よりもよく知っています。構いません、むしろ私は激しい方が好きなので」
 意外ですか、と流し目一つ。
――愛を拒む傲慢な貴方には決して悟らせない、私の本心は。
「挿れて頂けますか?」
 圧倒的な熱と質量を持つそれが押し込まれ、ランツベルクは喘いだ。快感よりも痛みが勝ったが、脚を大きく開いてそれを甘んじて受け入れた。
「……大丈夫か」
 常とは違う、上司の掠れたような声が耳元でする。行為よりもむしろその声に感じる。
「想像していましたよ、貴方のはどんなだろうと。思った通り……硬くて、熱い」
「そりゃ光栄と言うべきかな」
 強く突き上げられ、全身が歓喜にわななく。
 自分はこの時を、この瞬間を待っていたのだと強く感じた。こんな風に強く、激しく、乱暴に、求められたいといつも思っていた。自分の唇が穢れるような隠語も猥語も驚くほどなめらかに唇をついて出た。
「……!」
 唇の端から唾液が滴り落ちる。ランツベルクは何度もその名を呼び、呼ぶ度に絶頂に達した。





 指一本動かせないのでは、と思えるほど疲れ果てていた。
 一体何度交わった事か。激しい交接により閉じる事の出来なくなった脚間より、どろりと熱い白濁が流れ落ちる。
 その感触が堪らず、息を吐いたその時、背中を向けたままでブラックロックは言った。
「本当はお前も久し振り――、いや……ひょっとしたら」
 流石と言うべきか、上司は自分と同じ刑事だった、しかも凄腕と評判の。どれほど卓越した演技でも誤魔化せない物はある。
 けれどもランツベルクは皆まで言わせず鼻先で笑ってみせた。
「まさか」
 疲れきった身体に鞭打ち、ランツベルクは半身を起こした。ベッド下に散らばった衣服を拾い上げ、手早く身に付けていく。長居は無用。これ以上この場に居ると悟られる。否、むしろ自分の方から何もかもぶちまけてしまいたくなる事だろう。
 身支度を整えて部屋を出ようとすると、再び背中に上司の声が掛かった。
「ランツベルク」
 覚悟を決めて振り返ると、ブラックロックがひどく真摯な眼差しで自分を見ていた。
「もし――」
「言いましたね。関係の継続を迫られても困ると」
 冷然と言って寝室の扉を閉ざし、ランツベルクはアパートメントを後にした。タクシーを捕まえようにも大通りは遠い。人通りの途絶えた小道を歩きながら、ランツベルクは先程の上司の言葉を反芻していた。

 もし――。

 彼は一体何を言うつもりだったのだろう。
 もしこんな生い立ちでなかったら。
 もしも生まれ変わったら?
 想像する言葉は全て否定形だ。
 聞きたくなくて逃げた。万に一つでも可能性があるのだとしたら、その可能性を残したかった。
 何て、未練がましい。
「ヒース……」
 極みの中、何度も呼んだその名を再び口の中で呼ぶ。
 その意味は荒野の崖に咲くヒースの花。
 ヒースの花言葉は孤独、裏切り、そして博愛。
「Cruel Heathcliff ――……」
 残酷なヒースクリフ。
 それは世にも激しくて貪欲な、「嵐が丘」の破滅型主人公の名でもあった。
 何て、ふさわしい名前だろう。


 貴方の愛は死者たるキャサリンの物ですか。
 その生涯を復讐に捧ぐおつもりですか。
 ヒースクリフが最後にどうなったか知らぬ訳ではないでしょう。


――忘れられるのか、本当に?
 その答えはランツベルク部長刑事自身にも判らなかった。





「いやすまなかった」
 言葉とは裏腹、サグデン警視は悪びれた様子もなく言った。
 サグデン警視がその後何と続けたかランツベルクは覚えていなかった。とにかくお役所的な事情から突然自分の異動がなくなったという事だけは判った。
 ふらつく足取りで特捜機動課に向かう。
 これで最後、最初で最後。もう顔を会わせる事もないだろう。そう思い、好き放題した結果がこれか。
 ランツベルクは顔から火が出る思いで特捜機動課に入った。

――この人は本当に庁舎に住んでるのかもしれない。

 つい四時間程前にベッドの上で自分と激しい交接をしていたその男は、既にスーツ姿でタイムズ紙を読んでいた。
「おはようございます、ブラックロック主任警部」
「おはよう」
 タイムズ紙の向こうからブラックロックの声が返る。音を立てて新聞を机上に置くと、ブラックロックは顔を上げた。反射的に顔を背けるランツベルク。
「話は聞いてる。とんだ勘違いだったな」
 常ならば、早速仕事の話に入る所。だが、意外なことにブラックロックは完璧な無表情を保ったまま、こう続けた。
「まだ痛いか?」



 ランツベルクはその夜、日記帳に一言、こう記す事になる。

 One Step Beyond.
 一歩、前進。





( 了 )
Novel