あなたの庭はどんな庭?





               つむじ曲がりのメアリーさん
               あなたの庭はどんな庭?
               シルバーベルにトリガイの殻
               きれいな娘が一列に





 突然、車のドアを開けて道路に飛び出した上司は、非難のクラクションの嵐を背に戻って来た。その腕に瀕死の仔猫を抱えて。
 渋滞中と言えども、その思い切った行動にランツベルクと専属運転手は度肝を抜かれた。
「息はありますか?」 
 車に撥ねられたのだろう。白い小さな仔猫は血だらけで、片脚は不自然な方向に捩れていた。
「たぶんな」
 上司は上着を脱ぐと、躊躇なくそれで猫を包んだ。
 英国人の永遠のパートナー、括弧付で表現される<犬>にこそ第一位の座を譲るものの、動物好きの英国人が次に取る行動は一つだけである。
 専属運転手は一番近い動物病院に向かうため、ハンドルを切った。





 こんなにいつも側にいるというのに、なかなかプライヴェートな話が出来ない相手というのも珍しいだろう。
 仕事に忙殺され、猫のその後について尋ねることが出来たのは、ゆうに一週間後のことだった。
「今夜、引き取りに行く予定だ」
「では、元気になったのですね」
「脚は脱臼してただけだった。ただ、ひょっとしたら飼い猫かもしれなくてな。何とか……」
 そこでブラックロックは主任警視に呼ばれ、二人の会話は打ち切りとなってしまった。
 それは四月も終わりに近い、よく晴れた日曜日の朝だった。ランツベルクは上司のアパートメントに向かった。
 口実がなくても家を訪ねられる関係になっていたこともあるが、ランツベルクは猫が好きだった。どうなったのかと純粋に案ずる気持ちがあった。
 早朝にも関わらず、なぜか上司は留守だった。裏庭に面した柵にもたれ、どうしたものかと思案していると、通りかかった大家が下宿人はアパートメントの裏の公園にいると教えてくれた。
 半信半疑で足を向けると、ブラックロックは公園のベンチに仔猫を抱いて座っていた。
 その背後には大きな馬酔木(あせび)の木があった。白い、小さなベルを思わせる無数の釣鐘型の花が重たげに垂れ下がっている。
「How does your garden grow? (あなたの庭はどんな庭?)」
 ランツベルクはその花から連想した童謡の一節を口ずさんだ。
「シルバーベルにトリガイの殻 きれいな娘が一列に」
 ブラックロックは顔を上げてランツベルクを見た。 
「マザーグースか」
「この歌は貴方を連想させますね」
「つむじ曲がり、だからか?」
 ランツベルクは笑うだけで肯定も否定もしなかった。
「モデルはブラッディメアリだって説があるな」
「そうなんですか? 私はスコットランドのメアリの方だと思っていました」
 ブラッディメアリ(血まみれメアリ)との異名を持つメアリー一世は、三百人以上のプロテスタントを処刑したことでとみに知られていた。
「ふふ、孤独なカトリックの女王様は庭に綺麗な侍女をはべらかせてたのかな」
 その生涯において六人の后を持ったヘンリー八世。その最初の結婚から生まれたメアリー。母はスペインの王女であったが、ヘンリー八世が王妃の侍女であるアン・ブーリンとの婚姻を望んだがために庶子に落とされた。後に不貞の疑惑を掛けられ、アン・ブーリンは処刑されるが、メアリーの不安定な立場は長く続いた。
 弟の死により三十八歳にて女王として即位し、従兄であるスペインのフェリペ王子と婚姻した。幸薄かったメアリーは子を望んだが恵まれず、四十二歳でこの世を去った。
「もしメアリーに子供が生まれ、それがもし王子だったら――。きっとこの国は変わっていたでしょうね」
「ガチガチのカトリック、スペインのフェリペとの間の子だ。そうだな、きっとこの国はカトリックに逆戻りしてただろうな」
「残念ですか?」
「さあてな。主流派に身を置かないってのも、なかなかどうして楽しいもんだが」
「やはりあなたはつむじ曲がりのようですね」
 ランツベルクは笑って言うと、上司の隣に腰を下ろした。額の辺りを指で弄ると、仔猫は満足そうに喉をごろごろと鳴らす。
「名前はもう付けられたのですか」
「名付けると情が移りそうでな。言ったろう、飼い猫かもしれないと」
 触られても嫌がらない。それどころか擦り寄ってくるところを見ると、確かに飼い猫の可能性は高い。
「覚えていますよ、アロイシアス、でしたか」
「凄い記憶力だな。そう、俺が名付けると、きっとクララやアグネスになるよ」
 アロイシアスが聖人の名であった同様、それらは聖女の名であった。
「ああ、レディーなのですね」
 その言葉でランツベルクは初めてこの猫の性別を知ることとなった。
「お前は? お前なら何て付ける」
「私は私で定番しかつけませんよ、ホワイティー、リトルスノー、スノープリンセス」
 ランツベルクが生まれて初めて飼った猫の名はシュネーヒェン(雪ちゃん)だった。それを思い出しながら答えると、上司は唇を歪めて笑った。
「どうして俺がここにいるとわかった?」
「貴方の大家に聞きました、なぜ知っているのかと不思議に思いましたが」
「この公園は公有地でな、手の空いている住人が開錠と施錠をすることになっているんだ。それが入居の条件だった」
「まさしく貴方の<お庭>という訳ですね」
 ブラックロックは仔猫を抱いたまま、ベンチから立ち上がった。
「張り紙をして探すつもりなんだ。もし飼い主が見つからなかったら、飼うか?」
「猫は飼わないことにしてるんです」
 顔色が変わったことにすぐに気付いただろう。相手も刑事だ。
「どうして? 好きだろう?」
 猫に触れる仕草、言葉の一つから判っていたのだろう。そう断言されて、ランツベルクは返事に窮した。
 ブラックロックは何かを尋ねかけるように唇を開いたが、やがて首を振ると。
「いや、いいんだ」
 ランツベルクに背を向け、歩き出す。
 何度も見たその背中。けれど他人を拒絶するようなその背中を見る度に、いつもランツベルクは堪らない気持ちになるのだった。
「前に」
 気付くと、ランツベルクは声を荒げていた。
「前に飼っていた仔のことがまだ忘れられないんです。思いませんか、まるで裏切りのようだとは」
 ブラックロックはその剣幕に少し気圧された様子だったが。
「奇遇だな」
 少し笑うと、こう言った。
「俺もなんだ」





 口に出せなかった言葉は、その想いは、まるでマリンスノーのように心の奥底に降り積もり、いつまでもランツベルクの周囲をただよう。
 生きるか死ぬかどうかだったという施設での生活。大事に世話していたという彼の猫は、悪童たちに遊び半分で殺されたという。彼にはもっと話したいことが、打ち明けたいことが沢山あるのだろう。
 けれどそれらはやはり、推し量ることしか出来ないのだ。





 しばらくして再び公園に赴くと、ブラックロックはすっかり元気になった仔猫と戯れていた。ベンチに腰を下ろすなり、切り出す。
「それで、どうなったのですか」
「飼い主が見つかるまでの間、俺が飼うことにした」
「名前は?」
「前にも言ったろう」
 情が移る。 
 ブラックロックは皆まで言わず、うんざりしたように顔の前で手を振った。
「そんなに怖いのですか」
 こんな会話を幾度交わしたことだろう。いつも自分は挑発し、そしてその度にこの人は怒った。自分のトラウマに触れてくれるなとばかり。
「ああ、怖いね」
 しかし上司はその後で意外とも思える言葉を口にした。
「お前もそうだろう?」
 同意を求められて言葉に詰まる。あっと思う間もなく唇が重ねられた。唇の形に沿わせて舌が動かされ、やがて温かな口内に滑り込む。
 誰が通りかかるとも知れぬ公園である。反射的に突っぱねようとしたランツベルクの手は、やんわりと押さえつけられ、貪るようなキスは続く。
「…は…っ……」
 シャツの釦は三番目まで外され、そこに手が滑り込んでくる。感じるその場所を探り当てられ、ランツベルクは喉を仰け反らせた。
「あ……やめ…っ…」
 ツボを心得た濃厚な愛撫、そして公園という場所が、ランツベルクを煽った。ブラックロックはランツベルクの耳の端を甘噛みすると耳に舌を這わせた。
「――名前を付けて、飼い主を探すのは止めようか。現われても渡さない」
「ひ、……人に、見られますよ」
「いつまでも俺を臆病者扱いをするからだ」
 背筋に甘美な痺れが走る。その身をがくがくと震わせながら、ランツベルクは必死に抗った。
「俺には自信がある。前の飼い主よりもこの仔を愛せる自信が」
 ランツベルクの脚間に回ったその手は器用にジッパーを下げ、既に勃ち上がりつつあった屹立に触れた。温かな掌に包まれ、容赦なく擦り立てられる。
「ん……っ……」
「前に話したな、施設の年長連中を殺す計画を立てたことがあるって。あの時、磔刑像が落ちてこなければ、俺は確実にやったろう。今でも時々思う位だ、殺っちまえば良かったと。俺は完全犯罪をやってのけて、決して後悔はしなかったろう。当然だ、あいつ等は俺の猫を殺したんだから。それが」
 唇を噛み、嬌声を押し殺す。
 ブラックロックは身を乗り出すと。
「――」
「……!」
 耳元で名を呼ばれ、ランツベルクは手からの刺激でなく達した。
 快楽で痺れたようになった頭に、低い声が響く。
「それが俺の愛の形だ」





「人に見られたらどうするおつもりだったのですか」 
 ランツベルクはもはや怒りを通り越して呆れるしかなかった。
 ヤードの現職の主任警部と部長刑事が公園で、考えたくもない事態である。
「大丈夫。俺には弾は当たらないし、人にも見られないことになってる」
「その先は言わずとも結構です」
 神が、の一言が出るのを察し、ランツベルクは機先を制した。
 不穏な雰囲気を察したか、ベンチから降りていた仔猫がさっそく戻ってきていた。
 ちらり、と横目で上司を盗み見るが、ブラックロックは世にも涼しい顔で仔猫を抱いているばかりである。
 よもやファーストネームを呼ばれるとは思わなかった。不意打ちだ。
「時々、この仔に会いに来てもよいですか」
 ランツベルクはブラックロックに許可を求めた。
 許可などいらない。いつでも来られる関係を構築したという自信はあった。だが――。
「会いに行く口実が欲しいので」
 そう、この人はついにその一歩を踏み出した。
 ならば、自分もいつもいつも口にして安心させよう。
 口に出さずともわかるとは思わずに。
 つむじ曲がりなこの人に。
「直球だな」
 ランツベルクはたたみかけるように。
「直球がお好きでしょう」
 この人の言葉はいつも短く、少ない。
 けれどそれらに注意深く耳を傾けてみれば、その値千金の一言は、百の言葉を連ねるよりもなお雄弁なのだということに気付く。
 そしてランツベルクは、自分にはそれが出来るという自負があった。
 そう、自分も又、刑事なのだから。
 ブラックロックは歌うように言った。
「Anytime. (いつでも) 」





( 了 )
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