ヒースの丘で






 願えば、叶う。
 If you can dream it, you can do it.

 それは本当のことかもしれないとランツベルクは思った。



 ロンドンから五時間、ランツベルクとブラックロックはデヴォン州はダートムーアの荒野(ムーア)にいた。 
 ヒース、それは上司の名であると共に、荒野に咲くエリカの花の名でもある。
 花言葉は孤独、裏切り、そして博愛。
 何と、ふさわしい名前だろうか。



「――迷ったかな」
 後部ドアを開けつつ、ブラックロックは言った。
 見渡す限りの荒野でガソリン切れ。
 およそ遭遇したくない事態である。
 責任を感じた専属運転手が悲壮な決意と共に、一番近い村に向かってから、既に一時間が経過していた。
 ランツベルクも上司に続いて警察車輌から出た。
「こんなところで夜明かしすることになったら、バスカヴィル家の犬に襲われそうだな」
 煙草を口に咥えながら、上司がぼやく。
 如才なく煙草の口に火を点けてやりながら、ランツベルクは。
「貴方がホームズを読まれるとは」
「基本だろう。子供の時には胸躍らせて読んだもんだ。まさか」
 上司は煙草を深々と吸い込みながら。
「自分がレストレード警部の側に回るとは夢にも思ってなかったが」
 手近の岩に腰を下ろし、ランツベルクも又、煙草に火を点けた。
 困った時は、まず一服。
 それは、ランツベルクが父から直接教わった数少ない教えの一つだった。
「ダートムーアにいらっしゃったのは初めてですか」
「ああ、お前は?」
「私もです」
 ランツベルクは吸いさしの煙草を地面に放った。革靴の先で火を消すと。
「少しぶらつきましょうか。バスカヴィルの犬には遭遇したくはありませんが、妖精探しもまた一興でしょう」





 ダートムーアにはコナン・ドイルの「バスカヴィル家の犬」の着想の元になったと言われる魔犬や、妖精の伝承が山と存在する。
 だが、空は青く澄み、頭上には雲雀が囀る。ワーズワースの詩こそ似つかわしいこの陽気なら、散歩も丁度良い暇つぶしのように思えたのだ。
 二人は並んで丘を降りると、妖精探しの散歩と洒落込んだ。
 しかし天気は急変した。
 徐々に漂い始めた霞はやがて濃い霧となった。太陽すらも朧に霞む状態となって初めて、二人は荒野の恐ろしさを思い知らされることとなった。

「罰(ばち)が当たったのかもしれません」
「罰(ばち)?」
「願っていましたから。――貴方と荒野で二人きり」
「とんでもない願いごとだな」 
 それは叶うはずがないと思えばこそ、強く夢想してしまったことだった。
 特別な理由がない限り、二人が同時に休みを取ることなど出来はしない。ましてやロンドンから車で五時間のダートムーア。たとえ捜査で訪れたとしても、専属運転手が二人の邪魔をすることだろう。
「もう金輪際、願わぬことにしますよ。……ッ!」
 近くに小川が流れているのだろう。泥土に足を取られ、ランツベルクは丘から足を滑らせた。
「大丈夫か!?」
 丘を駆け降りてきた上司の腕を借り、立ち上がったその時――。
 洞窟の入り口が目に入った。





「霧が晴れるまでは、ここにいた方が良さそうだな」
 風を防げそうなその洞窟の中に入ると、湿っていないヒースの枯れ枝を拾い集め、火を熾(おこ)した。
 揺らめく炎に手を翳しながら、ランツベルクは天井を見上げた。
「妖精(ピクシー)洞窟と呼ばれる場所がいくつもあると聞きましたが、これもその一つでしょうか」
「妖精(ピクシー)洞窟ねえ」
 ブラックロックは疑わしげに天井を睨んだ。
 洞窟の中はじめじめとしていて、ひどく底冷えがした。
 綺麗好きで働き者だという妖精(ピクシー)が好んで住む場所とは到底思えない。
「寒くないか?」
 コートを脱ぎながら、ブラックロックが尋ねる。
「寒いですよ」
 澄まして答る。
 予想した通り、ブラックロックはランツベルクの手首を掴んで引き寄せると、自分の腰に手を回させ、その背をコートで覆った。

――本当に……、たまらない男(ひと)だ。

 まさしくこんな状況を夢に見ていた。絶対に叶うはずがないと思えばこそ、自由気侭に想像の翼を広げて愉しんでいた。
 それが実際に叶ってしまうとは――。
 ランツベルクは今、安易に夢想することの恐ろしさを痛感していた。
「願ってたって?」
 片眉を跳ね上げて上司が問う。
「俺と荒野で二人きり。何でだ」
「貴方の名を口にする度(たび)」
 ランツベルクは考え考え、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「想像していましたよ、ヒースの花が咲く荒野(ムーア)の情景を」
 頬が熱いような気がするのは、焚き火の炎のせいか。
 それとも何か別の理由だろうか。
「いつか一緒に見られたら、とずっと思っていました。叶わぬ願いと知りつつ、ね」
「で、ついにその願いが叶った訳か」
「今でも願っていますよ。霧が晴れなければいい。専属運転手が戻らなければいい」
 横目で上司の様子を伺う。
「早くロンドンに戻りたい貴方には迷惑な話かもしれませんが」 
「いや」 
 ブラックロックは手を振って否定した。
「俺はあの仔(こ)が心配なだけだ」
 あの仔、それは二人の間だけで通じる符丁だ。名無しの子猫、ジェーン・ドゥ。
「だが、多めに餌を置いて来たから大丈夫だろう。俺の姿がなかったら様子を見てくれるよう、大家にも頼んである」
 ブラックロックは枯れ枝を焚き火に向けて放った。
「飲(や)るか? 温まるぞ」
 そう言って、ブラックロックがコートのポケットから取り出したのは、スキットルと呼ばれる錫製(ピューター)の携帯ウィスキーボトルだった。
「頂きます。用意がいいですね」
「気付け用だ」
 ランツベルクはスキットルを受け取った。スキットルは擦り傷だらけで、ところどころ窪んでいた。
「しかも年季物」
「親父の形見だ」
 反射的に顔を上げる。
 表情を読まれたくなかったのだろう。
 上司は明後日の方角を見ていた。 
 キャップを開け、ほんの一口、口に含んだ。少量のウィスキーを舌の上で転がしながら、ゆっくりと味わって飲み込む。喉の焼ける感覚が堪らない。
 二口、三口と飲み進むうちに、徐々に体が温かくなっていく。上司の肩に凭れ、心地良い酩酊感に身を委ねる。
 上司は言った。
「で、お前のその願いに性的な幻想(ファンタジー)は含まれてるのか」
「もちろん含まれていますよ。荒野に取り残され、水も、食料も乏しい。身の危険を感じた貴方は子孫を残そうと、獣のように激しく――」
 言い終わるか否か、性急に口付けられた。
 口付けは長く、深く、ランツベルクはすぐに息を乱した。口内に僅かに残っていたウィスキーが互いの唾液と混ぜ合わされて、強く香る。
「……こんな風に、か?」
 汚れますよ、ランツベルクの忠告も意に介さず、ブラックロックはコートを地面に敷いた。
 裸にされて、その上に追い立てられた。
 よもや性的なファンタジーまでが、本当に叶ってしまうとは。
 ランツベルクは未だ、自分の身に起こっていることを信じられずにいた。
「どうします? 専属運転手が戻ってきたら」
「そして、俺たちを探しに来たら?」
 秘所に熱く昂ぶった屹立が押し当てられる。
 早く挿(い)れて欲しくて、ランツベルクは下肢を淫らに揺らめかした。
「想像するだけで感じるだろう?」
 辱(はずかし)められるように囁かれた。
「きっと」
 狭い隘路を押し開き、ブラックロックが入って来た。ランツベルクは身体の力を抜いてそれを受け入れる。
「目を回す、……で、しょう…ね。…んっ……く…」
 実直を絵に描いたような専属運転手の姿を脳裏に思い浮かべると、思わず笑みが漏れてしまう。
 屹立を完全にランツベルクの内(なか)に収めてしまうと、ブラックロックはゆっくりと動き始めた。
 燃える焚き火の炎が、洞窟の壁に交わる二人の影を落とす。深く貫かれれば、顎が跳ね上がり、引かれれば、内壁は名残惜しげに締まる。
「あ……ああッ!」
 一度引き抜いた肉棒を、剣を鞘に戻すかのように再びランツベルクに宛がい、深く差し貫いた。
「……、っ…く…、…い、…良……っ…、ヒース! …ヒース!」
 滅多に呼ぶことのない上司の名をランツベルクは読んだ。

 ここはずっと来たかった土地だった。
 荒野(ムーア)に咲く、孤高のヒースの花。
 それは孤独を愛し、他人を心の中に入れようとしなかった、かつての上司の心象風景。
 けれど実際に目にしてみれば、ヒースは荒野の嵐に耐えて花を咲かせる、可愛らしい小さな赤紫の花。

 まるで白い火花が散ったように快感が弾け、ランツベルクはブラックロックに縋りついた。
「あ、ああッ……ああッ!」
 下肢を押し付け、背を仰け反らせながらランツベルクは達した。
 快楽で痺れたようになった脳裏に、ヒースの花が咲き乱れる荒野(ムーア)の景色が見えた……。





「参ったな」
 なかなか落ちないコートの土を払いながら、ブラックロックが言った。
「運転手に何と言ったものか」
「バスカヴィルの犬に襲われた、で如何(いかが)ですか」
 上司には揶揄(からか)われることの方が多いランツベルクである。反対にやりこめることが出来、ランツベルクは上機嫌だった。
 変わりやすい荒野(ムーア)の天気である。
 霧はすっかり晴れて、今や太陽すら輝いている。
「それにしても」
 ランツベルクの手からウィスキーボトルを受け取りながら。
「お前の願望の力は大したもんだな」
「そうですね」
 ランツベルクは頷いた。
 ランツベルクはいつの頃からか上司に向かって言葉を飾ることをしなくなっていた。
「絶対に手に入らないだろうと思えたその人さえも、私は手に入れましたから」
 ブラックロックはランツベルクのその言葉を肯定することを否定することもしなかった。洞窟の入り口に立ち、黙って外を眺めていた。
 やがて――。
「クララにするよ」
 ランツベルクは瞳を大きく瞬かせた。
 それはもしも子猫に名を付けるとしたら、と上司が候補に挙げていた名前の一つだったからだ。
 聖クララ、それはアッシジの聖フランチェスコに最初に帰依した修道女(シスター)の名だ。
「名付ければ情が移ると思ってた。だが、名無しの癖に、こんな風に俺に気を揉ませるあの仔は許せない。だから名前を付けることにした。以前の飼い主が現われてももう返さない」
「……」
「そう、この世に絶対はない。俺はそのことをこの世の誰よりも知っている。だが、お前を見ていると」
 ブラックロックは洞窟を出た。過去に何百回、何千回となく眺めた、他人を拒絶するかのようなその背中。
 けれど今はその背中に他人を拒絶するような気配はない。
「絶対に不可能だと思えることを願ってみるのも、そう悪くないことのような気がするんだ」

 ランツベルクは笑って、背中からブラックロックに抱きついた。











( 了 )
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