正義の人 |
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四六時中一緒、さらに互いの家を行き来していても誰も不審に思わない。むしろ仕事熱心だと評価される。 刑事というのは、実に不思議な稼業である。 それを言うなら、つい数時間前までベッドで激しく求め合い、性交渉をしていた相手と、澄ました顔で仕事の話をしているというのも不思議なものだ。 上司は話の途中でふと顔を上げ、ランツベルクを見た。 心中で考えていたことを見透かされたような気がして、不自然に視線を逸らす。 上司は片眉を跳ね上げると、にやりと唇を歪めた。 指を口内に挿し入れ、ランツベルクに見せ付けるようにしてそれを舐め上げる。濡れたその指をくい、と目の前で曲げられ、スラックスの下の自身に熱が集まるのがはっきりと判った。 ――まったく、この人は……。 ランツベルクは慌てて周囲の様子を伺った。 「冗談も大概にして頂けますか」 憮然として抗議したが、上司は柳に風とばかり軽く受け流し。 「そういうお前こそ何を考えてた?」 痛いところを突かれ、ランツベルクは沈黙した。 「人の話をまったく聞いてなかったからな。ちょっと揶揄(からか)ってみた」 「まったく、貴方は……」 なおも言い募ろうとしたランツベルクだったが、煙草を片手に笑う上司を見ると、何も言えなくなってしまった。 「どうした?」 むろん恋人の欲目もあるのだろうが、ブラックロックは実に良い男だった。 猫科の獣を思わせるその顔立ちには独特の野性味があり、完全無比の美青年よりもむしろ魅力的だ。 ブラックロックは灰皿で吸いさしの煙草を消すと、ランツベルクを膝上に誘(いざな)った。 ランツベルクはブラックロックの首筋に顔を埋めた。上司からは髭剃り後の化粧水とその名の通り、ヒースの香りがした。 ブラックロックはランツベルクの頤に指を掛けると上向かせ。 「貴方は――」 物欲しげな表情に気付いたのだろう。 ブラックロックはすぐにランツベルクの望むものをくれた。 最初は唇と唇を触れ合わせるだけの、ごく軽いもの。唇の感触を確かめたその後で、ゆっくりと舌を挿し入れてくる。舌と舌が触れ合うその瞬間、電流が流れたような錯覚に陥る。二人の間で、もはや馴染み深いものになった煙草の味がするキス。 ランツベルクはスーツの上からでも判る、引き締まった背に手を回し。 「さぞやもてたのでしょうね」 舌を絡められ、きつく吸われ、唾液を飲まされているうちに、何も考えることが出来なくなっていく。上司は最後に軽く下唇を食んでから、唇を離した。 「そうか?」 否定も肯定もしないところが憎らしい。 「そういうお前はどうなんだ」 「そこそこ、と申し上げておきましょうか」 ランツベルクの脚間のそれは既に熱く、固くなっていた。ブラックロックは手慣れた様子でスラックスのジッパーを下ろした。引き出され、躊躇なく含まれる。 昼間そうしたように、ちらりと赤い舌を覗かせ、見せ付けるようにして舐め上げてくる。張った笠の部分に舌を滑らされ、先端を舌先で擽られて、すぐに息が上がった。 「ふ……、っ……上手、…ですね」 「年長連中のお仕込みが良いからな」 衝撃的な一言だった。 「それも」 ランツベルクは両手で上司の褐色の髪を掴むと、穏やかに。 「殺っちまえば良かった、と思う理由の一つですか」 かつて施設の年中連中を殺す計画を立てたという上司。 上司が卒業したグラマー・スクールは選抜制の公立進学校だ。階級主義の英国で、裕福でなく優秀な子供が成功するための唯一無比の手段と言っても過言ではない。 その合否はイレブン・プラスと呼ばれる11歳での入学試験において決定される。そのイレブン・プラス試験の直前、教科書は隠され、可愛がっていた猫は遊び半分に殺されたという。 上司は一瞬息を詰め、次の瞬間、冗談めかして言った。 「かもな」 上司が黙して語らない過去。それはスイスの上品な全寮制学校を卒業した自分の予想を遥かに越えた壮絶なものに違いなかった。 「……、…っ!」 喉奥で断続的な刺激を与えられ、ランツベルクは込み上げてくる射精衝動を必死で堪えた。上司の褐色の髪を引き。 「ご存知でしょう。貴方で……、…達きたいんです」 「そりゃ光栄だな」 上司は上着を脱ぐと、それをソファの上に置いた。それからドアを開けると、不思議そうな顔つきで二人を見ていたジェーン・ドゥ(名無し)と名付けられた仔猫を隣室へと追いやった。 ランツベルクは自らも服を脱ぎながら。 「私も気になっていましたよ」 「お前を虐めてると、あの仔に勘違いされたくないからな」 上司が発した何気ない言葉。ぞくり、と背筋に甘美な戦慄が走り抜けた。 ベッドに入る直前、部屋を見渡した。 部屋には住人の性格が出るとよく言われるが、この部屋は上司とよく似ていた。 古いアパートメントだが、調度品は上品で清潔。 それは興奮すると下町訛りのコックニーが如実に出る。だが、グラマースクールを主席で出、名門ケンブリッジを卒業した清貧な上司ともよく似ていた。 「挿れるぞ」 背後から身体を重ねられ、これまでの経験からそれが一番深く挿る体位だとよく知っていたランツベルクの喉が鳴った。 「あ……ッ」 熱く昂ぶったそれが秘所に宛がわれ、やがて狭い襞を一杯に押し拡げて挿って来た。身体の力を抜いて、それを受け入れる。 頂きを探り当てられ、首筋に舌が這わされる。両の頂きを同時に刺激され、思わず背がしなる。やがて規則的な律動が始まった。 どんな過酷な運命も、劣悪な環境も、彼を損なうことは出来なかった。彼は揺らがぬ信念と血の滲むような努力を重ねて、ヤードの主任警部となったのだ。 強く突かれて、頭の中が真っ白になった。汗ばむ手でシーツを掴み、崩れ落ちそうになる身体を支える。 彼の何もかもが愛おしかった。形の良いその唇、そこから漏れる皮肉交じりの言葉も、気障な物言いも。その唇が自分の名を囁く度、ランツベルクはいつも堪らない気持ちになるのだった。 「…っ……」 顔を見たいと、強く思った。 するとまるでランツベルクの心を読んだかのように、身体を返された。印象的な猫の瞳がすぐ近くにあった。 「っ、ああッ!」 固くいきり立ったそれが身体の奥深いところに突き刺さり、ランツベルクは縋りついた背に爪痕を刻み、脚を腰に絡ませた。 絶頂はもうすぐそこだった。 「良かったと思っているんです」 二人、煙草を燻らし、高い天井に立ち昇る紫煙を眺めていた。 上司は枕に身体を預け、黙ってランツベルクの言葉に耳を傾けていた。 「貴方が立てた殺人計画。それが未遂に終わったことが」 ブラックロックは曖昧に首を傾げて、その先を促した。 「貴方はきっと変わってしまわれたでしょう」 「俺は――」 変わらないと言いたかったのだろう。枕から身を乗り出し、次の瞬間、苦々しい顔つきで首を振った。 「いや、お前の言う通りだ。俺はきっとそれをやってのけ、決してそのことを後悔しなかったろう。だが、俺の中の何かが確実に死んだだろうと思う」 「貴方は正義の人だ」 目を閉じ、ランツベルクは言った。 「どうかそのままでいて下さい」 ランツベルクの祖父は戦後、戦争法廷にて裁かれた。 その時代、その身分にあり、条件を満たした者たちが皆そうであったように、ナチの親衛隊、SSの将校だった。親衛隊大将の実に二割が王侯、貴族で占められていたと聞く。 祖父はニュルンベルク裁判において有罪宣告をされたが、刑の執行を待たず獄死した。 ランツベルクはかつて過去からやって来た女に言われたことがあった。 ――おじい様と同じ時代に生まれていたら、同じ事をしないと貴方は言えて? そしてこうも付け加えた。 でも貴方は無理ね。ナチの高官にはなれない。黒髪は……雑種よ。 それこそがナチの本質、ナチの狂気だ。だが、ほんの三十五年前まで、ドイツ国民はそれを大真面目に信じていた。否、少なくとも信じる振りをしていた。そして今、そのつけを払わされている。東西に分裂した父祖の国、ドイツ。 自分は言えないだろう。同じことはしない、とは決して。 人は弱く、流されやすい生き物だ。 だが、時代の流れに逆らい、正義を貫く人々はいつの世にも存在する。ホロコースト(大量虐殺)からユダヤ人を守った非ユダヤ人をユダヤ人たちはこう呼ぶという。諸国民の中の正義の人、正義の異邦人、と。 そんなことをいつか上司と話してみたいと、ランツベルクは思っていた。 特捜機動課に割り当てられている部屋を出ると、同じ階層にいるというのに滅多に顔を会わせることのない、ハードカースル主任警部に出会った。 「ちょうど良かった、君と話したいと思っていたんだ。知ってるだろう、連続殺人……」 他部署の仕事には口を出すことのない上司が珍しくも会話に割って入った来た。 「人がロンドンに求めるものは、霧と切り刻まれた娼婦の遺体だろう。――珍しくもない」 ぐい、と肩を掴んでランツベルクを引き寄せると。 「悪いが、俺の部下は貸さないぞ」 その言葉が得意げに聞こえたのは、ランツベルクの気のせいだろうか。 「行くぞ、ランツベルク」 視界の隅でやれやれとハードカースル主任警部が肩を竦めるのが見えた。 「君は相変わらず急いでいるな」 「言ったろう」 機先を制し、ハードカースル主任警部は言った。 「時間と競争の仕事だろう? 君の金言は胸に刻んだよ」 そしてハードカースル主任警部は急ぎ大部屋に戻っていった。 さて、未来の警視総監はどちらになるのだろう。 人の指針となる正義の人は二人いる。 どちらに転んだとしても、スコットランドヤードの未来はきっと明るいはずだと、ランツベルクは思った。 |
( 了 ) |
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