子羊は惑う 10 |
---|
もう二度と来ないだろうと思っていた家だった。 庭から漂ってくる花の香りは沈丁花。以前は金木犀だった。友弥はその香りで季節の移り変わりを知った。 「あなたには謝らなければと思っていました」 その女は往年の美貌の名残りを留めていた。右京の母親であると同時、蓮の祖母でもあるその女。右京は母親似なのか、ぼんやりとそう思った。 「知ってらっしゃった? お母さまのご事情」 「母方の叔母から、先日」 「驚いたでしょう」 「いえ、薄々そんな気がしていましたから」 訪れるであろう気まずい沈黙を誤魔化そうと、友弥は冷めかけた茶を啜った。 ――聞きたいの、トモ、どうしても。 叔母は弱り果てたように言ったものだった。 ――心配しないで、叔母ちゃん。僕は薄々わかってる、たぶんショックは受けないと思うよ。 叔母は嘆息し、ぽつりぽつりと話し始めた。 ――……顛末を姉さんは詳しく話したがらなかったわ。きっと思い出したくもなかったのね。犬に噛まれたみたいなものと言っていたわ、たった一度だけ、それであなたを授かったの。 口にするのすら憚られるような忌まわしいその話を蒸し返すつもりはなかった。友弥は唇を開くと、ほんの少しだけずれたことを口にした。 「知り合いに堕胎したことによって子供が出来なくなってしまった人がいたんだそうです。そのこともあって、私を産むことを決意したのだと聞きました。こちらにはご迷惑な話だったかもしれませんが」 「あなたの養育費は私が責任を持って。こちらの揉め事とあなたとはまったく関係のないことだから」 「ありがとうございます」 友弥は深々と頭を下げた。顔を上げる、と、その女が食い入るように自分の顔を眺めていた。 「あなたはお母さま似でいらっしゃるの?」 友弥は一瞬息をつめ、その女を見返した。 知っているのだろうか、この女は。 夫が実の娘に向けていたその欲望を、その捌け口を友弥の母に求めたことを。 「私は父親似のようですよ。あなたの息子さんに言われました」 性格が、あえてその一言を抜いた。 その瞬間、友弥は決意したのだ。この秘密を墓にまで持っていくことを。 地獄で閻魔に舌を抜かれても構わない。それが傲慢でも、独善であっても。どれほど望まれようとも、自分はその真実を決して口にしない。この女にも、蓮にも。 真実は時に人をどうしようもなく傷つけるから。 その女は微かに息をついた。安堵、かもしれない。 「これまで苦労なされて来たのではなくて」 優しく哀しい声だった。 「いいえ、苦労なんて。私は――幸せでした。そしてきっと母も幸せだったろうと思っています」 叔母は声をひそめて語った。 嫌々といった表情を浮かべつつ、けれど自分以外にそれを話す人間がいないことを承知していたのだろう。 友弥の父親に対しての負の感情はなるべく表面に出さないように努めているようだった。それはお世辞にも成功しているとは言い難かったが。 ――その男には奥さん以外に好きな女がいたの。けれどその相手には事情があってどうしても結ばれることができなかった。姉さんはその人に似ていたんですって。そんなのは何の理由にもならないと私は思うけれど、だけど姉さんは許したの。 でもね、友弥、姉さんは男勝りの気性だったから、うるさい夫もなく、あなたという子供を手に入れて、きっと幸せだったんじゃないかしら。 友弥、あなたはわかっているでしょう。姉さんは本当にあなたを可愛がって大事にしていたのよ。 わかってるよ、叔母ちゃん。 生きていたらね、あなたがT大に入ったと知ったら、どんなに喜んだことか。 わかってるよ、叔母ちゃん。だからもうそれ以上。母さんのことを思い出すと……。 続く友弥の言葉は涙でかき消えた。 「それから、右京のことを公にしないで下さって、何とお礼を言ったらいいのか」 「いいえ、身内のことですから。けれど、僕が心配しているのは蓮のことなんです。二人は親族です、これからも会う機会があるかもしれない」 刑事事件にしなかったことについては後悔はしていなかった。一つ心配があるとしたら、右京がこれからも蓮に接触してくるのではないかということ。 友弥は右京がこれでやすやすと引き下がるようには思えなかった。愛と見まごうほど強いあの妄執で、また――。友弥の不安は払拭されるどころか、日に日に募る一方だった。 「あなたはまだ聞いてらっしゃらなかったのね」 その女は静かに。 「四方堂はこの春からアメリカに行きますのよ」 「庭をご覧になっていらっしゃったら? それからお帰りなさいな」 促されるまま、友弥は庭に出た。 昔は出口が見つからないほど広かったと蓮が言っていたその庭は、区画整理で縮小された今なお、充分に広いと感じられるものだった。 心字池の向こうには、一見丘のようにも見える盛り土があった。これかな、と当たりをつける。 ――蓮、丘の向こうから、君の羊飼いは来たかい。その羊飼いはどんな顔をしてた? 鮮やかな錦鯉を眺める、ちょうどあの葬式の晩のように。 これが最後の海外駐在になるだろうと仰られていたわ。蓮さんの受験が控えているから単身の予定だったのだけれど、話し合って、結局それが一番良いということに。 そう、それがきっと一番良い解決作なのだろう。距離を、時間を隔てて、それが一番。誰にとっても。……僕にとっては? 背後で小枝を踏む小さな音が上がった。咄嗟に振り返った友弥は、そこに思いもかけぬ人物の姿を認めた。 「十分だけ時間をもらった。たぶん部屋のどこかで見ていると思うよ、母が」 「右京さん……」 右京は母屋の方を振り返りつつ、自嘲めかして言った。 「参ったね。三十も半ばを過ぎて、母親に監視されるなんて」 「仕方がないでしょう。恐らくそれに値するだけのことをあなたはしたのだから」 右京は皮肉らしく片眉を上げただけ、それについては何も言わなかった。 「まずはおめでとうと言っておこうか。君はかなりうまくやったよ。まさか姉さんを引きずり込むとはね、彼女は話を大きくする天才だ」 どうやら摩耶を呼びだしたのは自分だと思われているようだった。否定はしない。彼女を呼びだしたのが蓮にしろ、自分にしろ、結果は同じだ。蓮を恨まれるよりも、むしろ誤解されたままの方がいい。 「まるで積年の恨みを晴らすと言わんばかりに責め立てられたよ。公にされたくなかったら、会社の経営に参画させろと言ってきた。まるで恐喝だ。せっかく相続した父の遺産も幾許か持っていかれそうな雰囲気だね。まあ、それで済むなら安いものだが」 「僕に――、何を話しに?」 まさか近況報告にきた訳ではないでしょう? 友弥の問いに、右京は唇に笑みを刷き。 「あの別荘で私が話したこと、覚えているだろう。どうするつもりだい、蓮に、話す?」 友弥は鼻白んだ。 「話せる訳がないでしょう。僕は話しませんよ、決して」 「そう答えるだろうと思っていたよ。だが、いつの日か真実を知ったなら、蓮はきっと君を憎むことだろう。君を信じていただけによりいっそう激しく、その可能性に、この秘密の持つ重みに君は耐えられるかい」 もしも蓮が真実を知ったら……、想像すらしたくなかった。 もういいんだ、口では言っていても、蓮が心の奥底で父親を渇望していることは知っていた。その父親が彼であると知ったら――。 友弥は昏く沈んだ瞳を右京に向けた。 「もちろん、墓まで持っていくつもりですよ、僕は。この秘密を守る為なら何だってする。地獄で閻魔に舌を抜かれたって構いません。そう、僕は蓮の為なら――」 友弥は決然と言った。 「死んだって構わないんだ」 「私もそう思っていたよ、友弥」 ふいに右京の口調が変わり、ティーローズのような小さな微笑が唇を掠めた。けれどそれはほんの一瞬のこと。 「彼女の為なら何でもすると。彼女が死んだら自分も死のうと思っていた。だが、結局私は死ねず、こうしてのうのうと生き続けている」 右京は腕時計に視線を落し、時間だね、と呟いた。 「友弥、忘れるな。どんなに表面では嫌がろうとも、蓮の身体はきっと私を覚えている。私を、私が教えこんだあの快楽を、あの被虐の悦びを。私はいつか君から蓮を取り戻すよ」 庭に漂うその香りは、沈丁花。 きっと自分はこの香りを嗅ぐ度に思い出すだろう。友弥は思った。 右京のこと、右京と交わしたこの会話のことを。ひょっとしたら、一生――……。 待ち合わせの場所は、東京の外れ、競馬場で有名なその駅だった。 「よお」 久し振りに会う蓮はひどく元気そうだった。 「何だ、こんなところに呼び出したりして。今日は競馬日じゃないだろう」 「こんなところとは言い草だね、ここは俺ん家の最寄駅だよ。それにどっちみち学生は馬券を買えないよ、法学部だろう?」 思わず言葉につまる。 「いいから、付いて来いって」 蓮はさっさと改札口を出ると、欅の並木道に沿って歩き出した。友弥にとってはあまり馴染みのない武蔵野の風景、それらを物珍しく眺めながら、蓮の背中を追う。 「怪我は、もういいのかい」 「ああ、すっかり」 「摩耶が俺が向こうに行く前に皆で会おうって言ってたよ」 「いいね、楽しそうだ」 「楽しいかどうか、俺は何だか嫌な予感がするんだ」 そんな他愛のない会話を交わしながら、十分ほど歩いたろうか。眼前に石造りの大鳥居が現われた。 神社? いぶかしげな表情になった友弥に向かい、蓮は得意そうに。 「あんたが神様に祈ってたって話を思い出したんだ。困った時の神頼みってね?」 初詣でもなければ、境内は人影も疎ら。待ってろ、一言言い置いて、蓮は授与所に向かった。 「ほら」 しばらくして戻って来た蓮が差し出したのは、縁結びのお守りだった。赤と白、どっちがいいと大真面目に問われ、ぷっと吹き出してしまう。 「何だよ、人がせっかく買ってやったってのに」 「ごめん、ごめん。いや、ありがたく貰っておくよ。そうだな、白にしようかな」 要らないならいいよ、子供のようにむくれる蓮の掌からひったくるようにしてそれを受け取る。 「ここは由緒正しい神社なんだよ。安産と厄除けで有名なんだ、縁結びは……どうだろう、あんまり聞かないけど。俺はここの氏子だからね」 「いいや、何だか霊験あらたかって感じがするよ。大事にする」 「向こうに行ったら、真面目に教会にも行くよ。母親が師事してる日本人の牧師がいるから、どうしたって避けられないんだ。熱心に通って、ついでに願いも適えてもらうつもりだよ」 「それじゃ、僕も氏神さまに参拝しようかな。お百度は無理かもしれないけれど、出来るだけ」 「ついでに水ごりもしてくれよ。俺はあれをしようかな。修道僧が自分を鞭打ってキリストの痛みを体感するって奴、映画で見たんだ」 「行き過ぎて妙な世界に行かないでくれよ」 自分で言った言葉がツボに入り、友弥は声を上げて笑った。 そう、願えば、適うかもしれない。 神様は勝手で、時に意地悪だね。猫も、母も、僕から奪った。 だけど僕は信じようと思うんだ。あの子を拾った奇跡、僕が母の元に生まれて来た奇跡、君に会えたこの奇跡を。 「ああ、そうだ、うちに寄ってってくれるかい。母親がケーキを焼いて待ってるんだ」 蓮はポケットにお守りをしまい込むと、答えを待たず、先に立って歩き出した。 徐々に小さくなる後姿、けれど彼と初めて会ったその日に抱いたような不安感は湧いてこなかった。 ――蓮、君の羊飼いはどんな顔をしてた? 少しは僕に似ていたんだろうか。だとしたら……。 掌の中の小さなお守り、それを強く握り締める。 蓮、僕はとびきりの家を用意するつもりだよ。だって、猫は家に居つくっていうじゃないか。 「友弥?」 気付くと、蓮が立ち止まり、自分が追いつくのを待っていた。 友弥はかすかに頷くと、欅並木から零れる陽の光に向けて、一歩、足を踏み出した。 |
( 了 ) |
Novel |