ヤドリギの下で





「ブラックロック主任警部なら資料室にいらっしゃいます。ご挨拶がてらお起こし願えますか? 七時にお起こしするよう言い付かっておりますので」
 制服警官に案内されて資料室に入ると、そこに人影はなく、無造作にダンボール箱が置いてあるばかりだった。
 蓋の開いたダンボール箱の中を覗き込み、納得する。ダンボール箱の中の毛布がこんもりと膨らんでいる。特捜機動課では大型犬でも飼っているのかと錯覚するが、これこそが自分の新しい上司なのだろう。
 さもあらん、と納得する。ここは特捜機動課。ヤードの花形であるCID(犯罪捜査局)の中で最も危険で最も忙しい部署なのだ。
「ランツベルク部長刑事です。本日より特捜機動課に配属されました」
 毛布の塊が動いたかと思うと、そこから若い男が顔を覗かせた。
「話は聞いてる」
 眠気を覚ますように、伸び加減の褐色の髪を打ち振うと、ダンボール箱から這いだしてくる。
 眦の高い、猫科の獣を思わせる顔立ち。噂通りの色男だった。
「特捜に配属されるとは不運だな、ランツベルク部長刑事」
「いいえ、ヤードで最も危険な部署に配属された僥倖を喜んでおります」
 立ち上がると、しなやかな体躯が目を引いた。ヤードの警官といえば六フィートを越す大男と相場が決まっているが、この男は六フィートにはやや欠けるだろう。大男ではないが、その存在感は大きい。
「いい答えだ」
 ヤード最短で主任警部昇進を果たしたというその男は唇を歪めて笑った。





 特捜機動課での一年は瞬く間に過ぎた。
「主任警視が母上のサインを欲しいと言っていたよ。自分で頼むのが恥ずかしいらしい。俺は舞台には疎いんだが、有名人だって?」
「知る人ぞ知る、の部類でしょう。主任警視と同年代の方はよくご存知のようですが。スコットランドのメアリが十八番だったと」
「それを聞くだけでどんな女優だったか想像がつくね。少し鼻にかかったフランス語訛りで演技するんだろう? 俺は断然エリザベスよりメアリが好みだ。全身これ女って感じがしないかい」
「英国をプロテスタントの国にしたエリザベスはお嫌いですか」
「そいつはカトリックに対する偏見だし、英国をプロテスタントの国にしたのはむしろエリザベスの父親のヘンリー八世だろう。パーティで政治と宗教の話はするなって言うよ。まあ、俺はカトリックで保守党で死刑復活論者だが」
 ランツベルク部長刑事はこめかみを指で押さえた。
――思いきり話してるじゃないですか。
「英国は死刑を廃止するべきじゃなかったね。一度廃止したら復活させるのは至難の業だ」
 特捜機動課に戻るなり、ブラックロックは大声で触れ回った。
「さあ、帰った帰った。クリスマスもボクシングデーも休めないからな。イブの夜だけは早めに店仕舞いだ。皆家族を大事にしろよ」
 仕事依存症とも言える上司が珍しく部下の帰宅を急かしていた。
 危険なだけでなくストレスも多い特捜機動課だけに家族の存在は大きい。しかしながら、キリスト教徒が一年で一番大事にするクリスマスもやはり休めない。せめてクリスマスイブだけは家族とゆっくり過ごさせてやりたいという気持ちがあったのだろう。
 歓声を上げて帰宅を急ぐ同僚達を尻目に、ランツベルク部長刑事はさりげなく上司の席近くに移動した。
「主任警部、私は今夜何も予定がないんです。主任警部はどうなされるおつもりですか」
「何も用事がないって? 女優の母君とハムステッドのお屋敷でクリスマスディナーは取らないのかい。クリスマスミサは?」
「ミサなんてカトリックのする事でしょう。……失礼致しました」
「別に謝って貰わなくても良いが」
 ブラックロックは咥え煙草で笑った。
「ブラックロック」
 特捜機動課を統括する主任警視に呼ばれ、ブラックロックは話の途中で席を立った。
 今夜の予定を聞き、何もなければ誘うつもりでいた。機会を逃し、気付いた時には既にブラックロックの姿はなかった。
 落胆はなかった。ランツベルク部長刑事には心当たりがあったからだ。





 クリスマスイブにはロンドン市内の店舗は皆早々に店仕舞いをする。
 ナイトブリッジにある英国屈指の高級デパート、ハロッズもまたその例外ではなかった。
 緯度の高い英国では午後四時を過ぎればもう夜である。人でごった返すナイトブリッジの目抜き通りも今やシンと静まり返っている。
 そのハロッズの正面玄関に上司はいた。
 偶然を装って近付くつもりだったランツベルクだったが、上司の常とは違う昏い瞳を見ると、声をかけられなくなってしまった。

――いつまで、そうしていただろうか。

 ぼんやりとしていた上司の目の焦点が定まり、やがてランツベルクを認めた。
「いつからそこに?」
「さあ、いつからでしょう。もう忘れました」
 1960年のクリスマスイブの昼過ぎ、ハロッズの脇に止められていた車が爆発した。被害者は警官一名、一般人四名(イギリス人一家三名、アメリカ人観光客一名) 負傷者は90人を越えた。
 被害に遭ったイギリス人一家のうち、末の男の子だけが奇跡的に生き残った。
 後に血のイブと呼ばれたハロッズ爆弾事件、生き残った末の男の子こそがかの上司であった。
 ブラックロックは笑い、何かを言いかけたが、止めた。そして恐らく口にしようとした言葉とは違う内容を口にした。
「ここは寒いな。飯でも食おうか」





 クリスマスイブに開いている店は少ない。クリスチャンの祝祭日に左右されないインド料理店に入った。
 カリーとナン、サモサ等を頼んで腰を下ろす。すぐにインド人の給仕がビール壜とグラスを運んできた。
「どれ位になる? うちに来てから」
「もうすぐ一年になります」
 ブラックロックはグラスのビールを半分ほど飲み干すと、唐突に話し始めた。
「主任警視は選挙対策じゃないかと疑っていたよ。将来政財界に進出するとしたら良い宣伝になるだろうと。だから俺も色眼鏡で見ていた。伯爵の子息が一般警官になるなんて有り得ないと。……最初はな」
「島国の英国とは違い、領邦国家だったドイツに貴族は多くいます。それに父は確かに伯爵ですが、母は一介の舞台女優に過ぎません」
 苗字の前にフォンが付く、母親が高名な舞台女優、ランツベルク部長刑事はヤードのひそかな有名人だったが、上司もまた超が付くほどの有名人であった。
 ブラックロックが入庁する時、ヤードは震撼したという。その子供の名は未だ皆の記憶に新しかった。そして大方の予想通り、テロ対策を担当する特捜機動課に配属されたのだ。
「貴族の巡査部長を持て余していると噂に聞いた。だからこそ俺の直属になったんだろう。俺なら委細構わずこき使うだろうって判断だ。だが上司は選べないが部下は選べる。使えない奴なら放り出すつもりでいた。俺は怠け者と馬鹿は嫌いだ」
「私は少しはお役に立っておりますか」
「大いに」
 それは恐らく上司の最大級の賛辞だった。
「貴方の下に付くと聞かされて当惑したのは事実です」
「恨む恨む憎む憎むと顔に書いてあるような人間だとでも思ったかい?」
「正直に申し上げれば」
「それで全世界の悪を一掃できるんなら、俺はいくらでも恨むしいくらでも憎むだろう。そんな事は有り得ないと知っているからこそ、俺は心の中で思うだけだ。神は愛する者こそ試したもう」
「能弁ですね、今夜は」
「そうかい」
 ランツベルク部長刑事は上司の経歴を知っていた。
 選抜制の公立進学校であるグラマー・スクールを首席で卒業したにもかかわらず、ケンブリッジ大へは補欠入学だったという。
 面接で海外旅行経験の有無を問う大学入試。
 階層によって身に纏う衣服も読む新聞さえも違う階級社会の英国では、成り上がり者は常に冷遇される。スコットランドヤードに入庁するまでの道程には様々な困難があったのだろう。それこそ神に試されていると思わずにはいられないほどの。
「アストンマーチンのミニカーが欲しかったんだ」
 ブラックロックはほとんど手付かずの料理の皿を脇に押しやると、ポケットから煙草を取り出し、火を点けると口に咥えた。
「どうしてもクリスマスまでに欲しくて、俺はイブの日にねだった。父は根負けしてハロッズに行くことに同意した。母も姉貴もそれに付いて来た」
 衝撃の告白だった。驚きに目を見張るランツベルクの前で、ブラックロックは淡々と言葉を紡ぐ。
「あの事件の後で皆口を揃えて言ったよ。俺のせいじゃない。俺が責任を感じる必要はない。ただ運が悪かっただけなんだと。悪いのは俺じゃなく卑劣なテロを企てた奴らなんだと」
 ブラックロックは吸いさしの煙草を灰皿に押し付けて消した。
「その通りだ。そいつが正論だ。だがたとえそうだとしても、俺がミニカーをねだりさえしなければ、俺の家族はハロッズに行く事も被害者になる事もなかった。そいつは動かしがたい事実だ」
 何も――、言う事が出来なかった。彼の苦悩は誰よりも深い。
「捜査に没頭していると俺は一時自分の罪を忘れられる。危険に身を晒すと安堵する。痛みを感じると嬉しい。自分の罪がほんの少し軽くなった気がする」
 指を組み合わせて握った手の上に額を付け、ブラックロックは俯いた。硬く組み合わされた手は蒼白となり、ぶるぶると震えていた。
「すまん。妙な話を聞かせた」
 ブラックロックは給仕を呼ぶと、固辞するランツべルクを押切り、会計を済ませた。
 公共の交通機関が停止したクリスマスイブのロンドンの通りは静寂に包まれていた。時折ヘッドライトを点けた車が二人の前を通り過ぎて行くばかり。人影のない通りには華やかではないものの、上品なクリスマスイルミネーションが施されていた。
 背中を向けて歩きだすブラックロックに向かい、ランツベルクは眦を決して言った。
「そうして一生ご自身を責めて生きて行くおつもりですか。それでは亡くなった貴方の家族は浮かばれない」
 ブラックロックは立ち止まり、やはり背を向けたままで言った。
「ランツベルク、お前にはわからないだろう。いいや、身内の血を頭から被った経験のある人間以外は絶対に俺の気持ちはわからない!」
 かつかつと革靴の音を鳴らして近付いて行く。ランツベルクの接近に気付いて振り返ったブラックロックの瞳は憤怒に燃えていた。
「ええ、私にはわかりません。けれど貴方の事を思っていらっしゃる人間はこの世には沢山います。その人達は皆、貴方が幸せになる事を願っている」
「そんな人間は――」
「私は貴方を」
「その先は言うな、ランツベルク!」
 あらん限りの声で怒鳴りつけられ、ランツベルクは鼻白んだ。煌びやかなオーナメントが吊り下げられたクリスマスツリー、それが相手の気勢に押され、一歩下がったランツベルクの肩に当たる。
「思いを告げられるだけでも迷惑だと言うのですか。貴方は……傲慢だ」
 その瞬間、ブラックロックの鳶色の瞳が大きく見開かれた。彼はその時、ランツベルクではない何かを確かに見ていた。
 一体……?
 肩をぐいと掴まれ、強引に引き寄せられた。
 唇に触れる温かな感触に、ぞくりと背筋が震える。重なった唇の隙間から熱い舌が滑り込む。男のキスは煙草の味がした。
 ブラックロックはランツベルクの舌をゆっくりと味わい、優しく下唇を食むと輪郭に沿って舌を滑らせ、やがて名残り惜しげに唇を離した。
「ヤドリギの下にいるな」
 ゆっくりと振り向く。ランツベルクの肩に当たったクリスマスツリーには宿木を模したキッシングボールが下がっていた。
 それは欧州の古くからの言い伝え。
 ドルイドの慣習。
 殺しあう定めにある敵同士も、神木である宿木の下で行き会った際には武器を収めてキスをした。
 クリスマスの晩、宿木の下にいる女性にはキスをしても良いという――……。
「Merry Christmas」
 ランツベルクは男の革靴の音が遠ざかるまで、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。





 翌朝、特捜機動課に入ると、既に上司は出社していた。
「おはようございます、ブラックロック主任警部」
「おはよう」
 タイムズ紙の向こうからブラックロックの声が返る。音を立てて新聞を机上に置くと、ブラックロックは顔を上げた。
「クリスマステロの予告が入ってる。信憑性は乏しいが、確実に潰したい」
 その瞬間、上司の心の声が聞こえたような気がした。

―― Nothing happened before us, okay?
 何もなかった。いいな?

 ランツベルクは静かに答えた。
「ただちに取りかかりましょう」





 距離は、縮まったかと思うとまた広がる。
 広がったかと思うと、ふいに縮まる。


――キスをするのにさえ言い訳が必要な臆病な貴方。

 いいでしょう。
 私はいつか貴方にその一歩を踏み出させて見せる。





( 了 )
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