下弦の月 16





 その後――。
 伊周の弟、隆家が二条北宮から現れた為、網代車に乗せられ、配所に送られた。
 が、肝心な伊周は現れず、痺れを切らした検非違使たちは扉を破って二条北宮に乗り込んだ。邸内に伊周の姿はなく、天井裏から床下に至るまで剥がして捜索する大捕り物となった。
 中宮定子はその恥辱に耐えかねて、髪を切り出家した。
 二条北宮から逃亡した伊周は、その三日後に僧となった姿で見つかった。
 帝の温情により大宰府送りとはならず、伊周は播磨に、隆家は但馬国に留め置かれた。
 しかし伊周はその年の秋、病身の母、高階貴子を見舞うために密かに京に戻ったところを見つかり、改めて大宰府に送られた。
 高階貴子は悲嘆にくれ、死去した。皮肉なことに伊周の帰京は彼女の死期を早めたとも言えた。
 定子は相次ぐ不幸の中、気丈にも子を産んだ。幸か不幸か、内親王、女児であった。道長は胸を撫で下ろしたと伝えられた。
「少納言が?」
「里下がりの間、草子に宮中でのあれこれを書き留めておいたそうだ」
 俊賢が差し出した草子には見覚えのある少納言の字が躍っていた。
 あれから行方知れずとなっていた少納言。藤原斉信が少納言のかつての夫であった橘則光にその居場所を問い詰めたものの、頑として口を割らなかったと聞いていた。では誰が、と問うと。
「経房の左中将が持ってきたのだ」
 左中将、源経房は俊賢の異母弟だ。誰も居場所を知らぬと思われていた少納言の居所をよもや道長の義理の弟が知っていたとは。
 源経房は道長の妻、明子の同母弟であると共に道長の猶子であった。もっとも道長に近い男であるが、それは同時に最も道長に対して力を持つということと同義である。
 何より藤原と一線を引く源は、少納言にとっても付き合いやすかったのだろう。
「経房が少納言を訪ねた折りに読ませてもらい、面白いので広めろと」 
 その草子の元となった紙は、かつて伊周が帝と中宮に献上したものだったという。
 帝はその紙に史記を書き写させた。中宮がお前なら何を書くと少納言に問い、少納言は枕がよろしいでしょうと答え、その紙はそのまま少納言に下賜された。
 草子の中では在りし日の中関白家が――定子が、伊周が、亡き道隆が――。生き生きと描写されていた。
 行成は俊賢に頼み込んでその草子を持ち帰ると、細心の注意を払って書き写し、それを仕舞った。
 自分の書跡による写本を欲しがる人間がいることを知っていたからである。
 そして時折読み返しては、少納言を、伊周を思った。
 伊周と隆家が恩赦の対象となり許されたのは、その翌年のことであった。





「中宮を還俗させ、再び入内させたい」
 帝はきっぱりと言った。
「余の力となってくれるか、頭弁(とうのべん)」
 長徳三年、春。
 行成は昨年の叙目で中弁の官職を得、弁官を兼ねる蔵人頭、頭弁となっていた。
 一度出家した后を再び入内させるなど過去に前例がない。唯一望みがあるとすれば、中宮定子の出家が僧侶の手により行われた正式なものではないということだけだ。
 波乱が起きることは目に見えていた。
 資性温厚な帝は公卿達との調和を一番に望んでいた。しかし中宮定子の再入内を強行すれば、公卿の反発を招き、帝の権威は地に落ちることは必至。それを知りつつ、なお再入内を望まれるとは。
 愚問であるな、と行成は思った。
 帝は心の底から中宮定子を愛しておられるのだ。
 行成は平伏し、そして言った。
「御心のままに」
 行成が帝の昼の居所である清涼殿を出るや、背後から聞き覚えのある声が掛った。
「頭弁」
 裾を捌いて振り返り、振り返ると同時に膝を付く。
「左大臣」
 道長であった。右大臣であったのはほんの一時、道長は今や宮廷の最高位である左大臣となっていた。
 道長は扇で口許を隠しながら尋ねた。
「主上は何と仰せでいらっしゃる」
 行成は道長の目を見つめ返しながら。
「中宮定子の再入内を」
「そうであろうな」
 道長は唇を歪めて笑った。
 皇后である中宮不在の今こそ、道長は自分の娘を中宮として入内させたいはずだった。しかし悲しいかな、道長の娘は未だ九歳だった。
 機を見るに敏な道長は、それまで前関白の威光を恐れて入内を控えていた貴族の娘たちを次々に女御(中后に次ぐ后)として入内させた。弘徽殿女御と呼ばれる藤原義子、承香殿女御と呼ばれる藤原元子の二人である。貴族を自分の仲間に引き入れるため、ひいては定子への牽制のためであることは傍目にも明らかだった。
「恩赦が下りるや、さっそく再入内を望まれるとは。公卿方が納得するはずもない」
「しかしながら」
 道長は行成の言葉を遮り。
「前例がないぞ」
 かつて宮廷に吹き荒れた赤瘡の災いによって七人もの公卿が亡くなった。前関白、藤原道隆は亡くなり、内大臣の伊周は失脚した。そして藤原兼家の四男であった道長は瞬く間に、宮中最高位の左大臣となった。
 何と言う強運か。
 満月に向けて徐々に満ちていく上弦の月、それはまるで道長のよう。
「中宮は受戒を受けておりませぬ」
 受戒、それは出家の際に僧侶が執り行う正式な儀式のことである。定子の再入内が叶うとしたら、受戒を受けていない、ただこの一点に尽きた。
「成程」
 道長はしばらく扇を開いたり閉じたりしていたが、突如、扇を用いて行成の顎を持ち上げた。
 互いの視線が絡み合う。道長は薄く笑い。
「わきまえられよ、頭弁」
 道長は行成に背を向けた。
 所詮、自分は新月まで欠けていくばかりの下弦の月。どこまで行っても道長の影なのかもしれない。
 だが、それでも――。



 行成は簀の子縁に立ち尽くし、立ち去る道長の姿をいつまでも見送っていた。





 A novel inspired by " 枕草子 "






( 了 )
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