月虹 10 |
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「宰相中将だ、今は」 斉信はゆっくりと言った。 まずい取り合わせだと行成は思った。 斉信が先の事件で大きな働きをしたことは世間に知れ渡っている。それはその後の順調な出世ぶりからも明らかだ。そしてその働きが認められ、今や道長の側近中の側近だ。 「大宰権帥殿、ご帰京あそばされたとは存じ上げず」 「前帥だ、今はな」 先ほどの斉信の物言いを揶揄するかのように伊周が言う。 「参内は禁じられているのでは?」 「ここは大内裏であって内裏ではない」 まるで子供の喧嘩のようなやりとりだった。 貴族といえども、口争いから刃傷沙汰に及ぶことは珍しくない。行成は口を挟む機会を伺い始めた。 「主上はこのことをご存知か。存じ上げぬのなら奏上に」 「行先は主上の元などではなく」 伊周は胡乱そうな目つきで斉信を見ると。 「道長の元ではないのか、宰相中将」 「それはどういう意味だ」 斉信は傍目にも明らかに腹を立てていた。 「言葉通りの意味だ、道長の狗が」 斉信は帯刀を許された武官だ。平緒で括られた太刀に斉信の手が伸びるのを行成は見た。 「ま、待て……」 不穏な雰囲気に気付いた行成は咄嗟に二人の間に割って入った。 「邪魔をするな、蔵人頭!」 ハッと我に返った斉信とは真逆、伊周は逆上した。振り上げた扇で行成を打とうとする。 「下がりあれ、帥殿!」 斉信は行成の袖を引き、身をもって行成を庇った。 「この者を傷付けるなら、中宮の兄であろうとも容赦はせぬ!」 伊周は斉信に躍りかかったが、すんでのところでそれを押しとどめた。落ちるところまで落ちた伊周だが、大内裏で刃傷沙汰に及べば、ただでは済まされない。 「知っているのか、中将。その者の正体を……」 伊周は武者震いをしながらも。 「私にも、下賤な牛飼童にも身体を開いた男だ。今は、そなたとか?」 斉信は反射的に行成を見た。 「道長の狗同士、乳繰り合っているがいい」 捨て台詞を残して伊周は去った。 後には斉信と行成だけが残された。 「本当なのか。今の、話は――」 行成は事実のみを告げた。 「方違えのために立ち寄った寺で狼藉された。同意の上ではない」 きっと斉信とはこれで終わるのだろう。自分に幻滅し、離れていくに違いない。 それも仕方のないことだろう。元より長く続く関係ではなかった。 驚いたことに、斉信は両足を交互に激しく踏み鳴らした。 「伊周め!」 「宰相中将」 「次に会ったらただでは済まさぬ」 斉信は振り向き、行成を射抜くように見た。 「まだ気付かぬのか、行成!」 斉信は叫んだ。 「私はそなたが好きなのだ!」 次の瞬間、行成は斉信の逞しい胸の中にいた。 「行成……」 背筋に沿って唇と舌が這わされ、行成は身体を弓なりに反らせた。つっ……とうなじを辿られ、耳を甘噛みされると堪らなかった。 「あ……、っ……」 ゆっくりと長い時間をかけて解された内壁に熱く昂ぶった斉信のそれが宛がわれた。 「あ……、…っああっ!」 やがて待ちかねたそれが入って来、行成は喉を晒して喘いだ。 車宿りに停めた牛車の中、行成は背後から抱きしめられるようにしてその屹立を味わされていた。 「行成」 斉信は執拗なまでに行成の名を呼んだ。人を呼ぶときには官職名を呼ぶのがこの世のならい。名を呼ぶのは先ほどの斉信が伊周にしたように腹据えかねてのことか、或いは――。 斉信は屹立を小さく出し入れしながら、張りつめた頂きを責めてくる。乾いた指先で抓まれ、こすり合わせるようにして動かされる。 「あっあぁ…んぁっ…っ」 頂きはさらなる刺激を乞うかのようにつんと尖り、身体は芯まで痺れた。 逃れようと腰を前に動かすが、斉信の大きな手が力強く腰を掴み、強引に屹立を挿し入れてきた。 「あ、ん…っ、ぁああ…!」 斉信の抽送はますます激しさを増し、律動に合わせて、ぎしぎしと牛車が揺れる。 「っ、…気……付か…れるぞ…」 内裏の警護に当たる滝口の武士に見咎められることを恐れ、行成は言った。 「滝口など恐れるに足りぬ」 「あ…あぁっ、…っ」 「そなたは私のもの」 熱を孕んだ斉信の囁き。 「誰にも、っ……、触れさせぬ」 繋がったまま身体を返され、向かい合う形で突かれた。行き場を求めてさまよう腕を自分の首に回させ、斉信は容赦なく行成を穿った。 「斉信ッ! あ、あ、ああッ!」 行成は強すぎる快楽に耐えるため、斉信にしがみついた。 打ち付ける肉の音が小刻みに早くなり、斉信の絶頂がほど近いことを教えてくれる。 「やっと我が名を呼んでくれたな」 屈託なく笑う斉信に、行成は心を鷲掴みにされる思いがした。 その昔、自分は源俊賢の秘めたる思いを知って、身体を与えた。だが、そこに愛が存在しないことに気付かれ、俊賢は去った。否、身を引いてくれた。 だからこそ斉信とは身体だけの関係でいるつもりだったのだ。 「ああっ!…はぁっ、…ん……ッ」 私は確かにこの男に惹かれている。 美しく才長け、明朗快活な。 だが、それでも主上のためとあれば、私はこの男の手を振りほどくことを決してためらわないだろう。 それこそが人の秘めたる望みを探り得る道長の唯一の、そして決定的な誤算だったのかもしれない。 私はこの男には支配をされない。 どれほどこの男に惹かれようとも。 「斉…信…、…私は…」 けれど――。 割り切れないのが人というものなのか。 無意識のうちに口を開いて、斉信の舌を誘い込んでいた。 滑り込んできた舌が上唇の上側を愛撫する。行成は斉信の首に回していた手を逞しい背に移し、甘い口づけに酔った。 「…私、…も」 斉信は再び笑うと、いよいよ抽送を早めた。 「んっ…あ…っ…、あっあっ……ああぁ……ッ!」 斉信の背に爪を立て、過ぎる快楽に涙を流しながら、ついに行成は達した。内壁は蠢き、斉信をきつく締め付ける。 「く、っ…」 身体の奥深いところで熱い白濁が爆ぜ、行成は再び絶頂に至った――。 道長を、中宮定子を脅かすかと思えた承香殿女御の懐妊は、不幸な形で幕を閉じた。 安産祈願のために参詣した寺で産気づいたものの、生まれてきたのは皇子でも皇女でもなく、大量の水だったのだ……。 出先であったため真実を隠し通すことは出来ず、承香殿女御は恥辱に耐えかねて、里である堀河院に下がった。 その堀河院を訪ねた後、夜遅く内裏に戻ると、斉信が声を掛けてきた。 「――堀河はどうだった」 「すすり泣きの声ばかりが響き渡っていた」 行成は主上の代理として堀河院を訪ねていた。再び宮中に出仕するようにという主上の勧めを伝えたにも関わらず、承香殿女御は首を振るばかりだった。 「堀河の右大臣もあたら不幸な目に遭わせたものだ。参詣などしなければ、隠しおおせたかもしれぬのに」 産み月が来ても一向に出産の兆候のない承香殿女御に業を煮やした顕光は寺籠りを強行し、聖域たる寺院で出産するという愚を犯した。あまつさえ水を産んだ女御として承香殿女御は世間の嘲笑の的となってしまったのだ。 「ともあれ、これですべてが振り出しに戻った。――行成」 口調を改めて、斉信は言った。 「左の大臣は大姫の入内を考えているそうだ」 ――ついに来たか。 今の宮中の権力構造において、一番しっくりとくるのは道長の娘が女御となることだった。しかし道長の娘は未だ幼い。 だからこそ、道長は中宮定子への対抗馬として、弘徽殿女御と承香殿女御を入内させた。 だが、帝のお気に入りだった承香殿女御が子を流した今、道長は考え直したのだろう。自分にも勝機が、と。 「裳着もまだ終えていないというのにか」 「裳着を終えれば、すぐなりにも、と」 斉信は噛んで含めるように。 「悪いことは言わぬ、行成。今、時代の潮流に乗っているのは左の大臣だ」 遠くに渡殿の軋む音を聞き、斉信は口を閉ざした。一旦は踵を返したが、なおも立ち去りがたい様子を見せていた。行成の耳元に口を寄せ、素早く囁く。 「…言わで思うぞ」 やがて渡殿の向こうで会話を交わす斉信の声が風に乗って届いた。 「夏は、夜、月の頃はさらなり。ですな、源宰相殿」 ややあって源俊賢がこちらにやって来た。 「そなたと宰相中将とは少し隔てある関係だと思っていた。――いつの間に親しくなったのだ」 「前に貴公が言われたように、地味な男は闊達な女に惹かれるもの。その逆で、派手な者こそ私のような地味な存在を友にしたくなるのやもしれぬ」 「そなたは自分に自信が無さすぎる」 「……」 「だが、それがそなたの良さなのだと思う」 行成はひそやかに嘆息した。 斉信が身体だけの関係を求めてくれれば、どんなにか良かったことだろう。 心を寄せられることが、こんなにも苦しいものだとは。 「たまさか戻りたい、と思うことがあるのだ」 「いつにだ」 「蔵人頭になる前に」 俊賢は僅かに眉を上げた。 「それでいて、もう二度とあの頃には戻りたくないとも思うのだ」 夏は、夜、月の頃はさらなり。 それは少納言の書いた「枕草子」の一節だった。 行成は勾欄に凭れ、空を眺めた。雨上がりの夜空に浮かぶ月が白い虹を朧に浮かび上がらせていた。おお、俊賢は感嘆の声を漏らし。 「夜に虹とは珍しい。月虹というそうだぞ」 夜空に架かる七色の虹はいっそ神秘的なまでに美しかった。 「美しいな。――まるでそなたのようだ」 行成はそれに返す言葉を持たなかった。 父のように名だたる美男でなかったとしても、父のように才に溢れてはいなくても、どこまでいっても道長の影だとしても、それでも――。 私の人生にはまだ驚くようなことがあるのかもしれない。 二人は黙ったまま、雨上がりの夜空に浮かぶ月虹を見つめていた。 A novel inspired by " 枕草子 " |
( 了 ) |
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