ノエルの贈物 |
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「 It's time to eat!」 牢番は怒鳴るように言って、牢の下方にある小窓から皿を押しやった。 「飯だそうだぞ。このフレーズは流石に覚えたな」 「最悪だな」 見るだけで食欲も失せてしまいそうな皿を引き寄せながら、フィリップは言った。 「牢番はフランス語も解さない下衆で、おまけに食事は青黴の生えたパンと来てる」 「青黴の生えたチーズもあるぞ」 そう言いながら、アシルは皿からチーズを取り上げた。 「だが、こいつは断じてブルーチーズ(ブリュ)じゃないな」 暦は聖誕祭(ノエル)を待ち望む待降節(アドベント)、しかし二人は恐ろしく底冷えのするロンドン塔にいた。 アシルに肩車をしてもらい、背を伸ばすと、明かり取りの小さな窓の向こう、灰色のテムズの流れが望めた。牢から見える景色はそれが全てだった。 積荷よろしく船倉に転がされ、カレー海峡(イングランド人はドーヴァー海峡と呼ぶ)を越えて、既に二月が経過していた。 ノエルはおろか、どうやらここで冬を越さねばならぬようだと二人は既に覚悟を決めていた。 「とはいえ、あの地獄を生き延びた幸運を神に感謝すべきだろう。神、もしくはお前にか」 嫌だ嫌だ、行くな行くな、頼む頼むアシル、と乞い願った。 だが、敵方から寝返った騎士という存在はそうそう信頼されるものではない。信頼を得るには、やはり武勲を立てる必要があった。 二人は決死の覚悟で出陣した。 フィリップの予言はやはり正しかった。アザンクールの戦いはフランス貴族にとっての地獄となった。 コンピエーニュでの戦いがまるでお花畑だったと思えるほどの生き地獄を二人は見た。そしてその地獄から二人して這い上がって来た。これを奇跡と言わずして何と言おうか。 その結末が、故郷から遥か離れた異国の地で、青黴の生えたパンを食べることになったとしても。 「一体全体、何人死んだんだ」 「ざっと一万人だそうだ。これでもうフランス王国から騎士はいなくなったかもしれないぞ」 「風通しが良くなって実に結構だ」 アシルはにやりと笑った。元々良い男ではあったが、今では頬の向こう傷との相乗効果で、より野生的な魅力を醸し出していた。 「言ったろう、長弓(ロングボウ)は侮れないと」 「結局、お前が正しかった訳か」 それはイングランドの長弓戦術(モード・アングレ)の大勝利だった。 人数の上で遥かに勝ったフランス軍は、イングランドの誇る長弓部隊によって歴史的な大敗を喫したのだ。 戦死者はゆうに一万人を越え、二千人が戦争捕虜となって、イングランド本土に連行された。 要求された身代金は二人の身分相応のものだったが、今はどちらも実家には頼れぬ身。到底、工面出来る金額ではなかった。 当初はその身分に応じた待遇を受けていたが、支払いは無理と知った二人が幾度も逃げようとしたため、逃亡の恐れありと判断され、ついには地下牢送りとなった。 「母君にはもう頼れぬか」 「先日送ってもらった金貨はお袋のへそくりだった。これ以上の無心は出来ないだろう」 アシルの母が夫に内緒で送ってきた金貨。それを牢番に握らせたお陰で、劣悪な地下牢から塔へと移ることが出来た。食事の質は変わらぬものの、居住環境は格段に良くなった。 だが、それが限界。 「お前の方はどうだ」 「連絡は取れぬ」 「そうだったな。――悪かった」 「気にするな。自分で選んだ道だ」 アシルには、フィリップに故郷を捨てさせてしまったという負い目があったのだろう。気にするなというフィリップの言葉を額面通りに受け取るつもりはない様子だった。 「俺はここに二人分の人質として留まろう。お前は金策のためにと言って、パリへ戻れ」 「言ったろう。当てはないと」 「だから、それでいい」 フィリップは猛り狂った。 「それは――」 どうしてこの男は、いつも! 「それはお前を見捨てて一人でパリに帰れ、と、そういう意味かッ!?」 それが命を賭してこの男をパリにまで追いかけてきた自分に言う言葉だろうか。 「 Shut up (黙れ)!」 いきり立ったフィリップだったが、牢番に怒鳴りつけられて、仕方なくその場に座り直した。 「悪かった」 謝るな、と言い掛けたフィリップの腕が引かれる。アシルはその広い背中にフィリップを隠すようにして、口付けた。 情熱的に舌を絡められると、全身から力が抜けていく。アシルは脱力したフィリップを抱え直し、貪るような口付けを続けた。 地下牢から狭いながらも二人だけの牢に移った後、牢番が寝静まった頃合を見計らい、声を殺して交わることは多々あった。しかし今は真昼間、牢番に見られるかもしれないと思うと、余計に燃えた。 「…アシ…、…ル…」 フィリップは皺が寄るほど強くアシルの袖を掴んだ。 「ん、…ん…ッ」 アシルの口付けはいつも甘い。 フィリップは積極的に舌を絡めて、それに応えた。逞しい胸に抱かれ、間近でその汗の匂いを嗅いでいると、いつも眩暈がしそうなほどの陶酔が訪れた。 「あ、…アシ…、ル……欲…し…ッ…」 堪えようとしても堪えきれず、フィリップはつい強請ってしまった。 だが、その思いはアシルも同じだったらしい。 アシルは腰帯を引き抜くと、前だけを寛げた。既に逞しくそそり立った屹立を見て、浅ましくもフィリップの喉が鳴る。 アルルは唾液を掌に擦り付けると、潤滑油代わりのそれをフィリップの蕾に塗り込めた。 「……声、出すなよ」 背後から低い声で囁かれ、期待に胸の鼓動が高まる。 背を向ける格好を取らされた。腰を持ち上げられ、屹立の上に下ろされる。ず、と圧倒的な質量を持つそれが襞を捲り上げ、狭い隘路に入り込んでくる。 「あ……ああッ!」 耳を塞ぎたくなるほどの甘い嬌声が口をついて出た。ずん、と突かれ、再び漏れそうになった声は、しかしアシルの手によって消された。 「…ン……ンン……」 突き上げられて落とされると、自重がかかり、より深い部分を抉られた。喉を仰け反らせて喘ぐが、喘ぎはすべてアシルの掌に吸い込まれていく。 視界の隅で牢番の様子を確かめる。 聞こえてきたのは、下卑た笑い声。向かい合った牢の牢番とカード遊びに興じている様子だった。だが、もしも牢番がふと思い立ち、牢内を覗いたとしたら? それを思っただけで、びく、とフィリップの身体は大きく震えた。アシルを強く締め付けてしまう。 「フィリップ……」 切羽詰ったような声で、名を囁かれる。アシルの限界もまた近いようだった。落とし、突き上げて、フィリップを徐々に追いつめていく。 「……ン……ン…ン……ッ!」 アシルの大きな乾いた手が脚間の昂ぶりに触れてきた。指が絡みつき、それをゆっくりと擦り始める。 長い間、この手に欲情していた。この手で擦り立てられたくて堪らなかった。 今はこの手も、熱い屹立も、その全部がフィリップのものだ。 だが、その行為は想像したものよりも遥かに――。 フィリップは大きく身体を跳ねさせた。 自分でも届かぬ奥深い場所を貫かれて、敏感なそれに直接触れられ、押し寄せてくる快楽のうねりにフィリップはもはや抗うことが出来なかった。 フィリップが泣きながら吐精すると同時、アシルもまたフィリップの中に熱い精を放った……。 牢番の目を盗んで、こそこそと後始末を済ませると、アシルは。 「フィリップ、お前がここに残れ。身代金は俺が工面する」 「どうやってだ」 「方法は幾らでもある」 アシルの据わった目を見れば、何をするつもりなのか容易に想像することが出来た。 「待て、アシル」 フィリップは制止した。 親友兼の恋人であるアシルが追い剥ぎじみた行為に走ろうとしているのを看過することはどうしても出来なかった。 「騎士など所詮は人殺しだろう。人殺しが金を奪って何が――」 突然、重い鉄の扉が叩かれた。牢番が何事か喚いている。 「 Go outside!」 言葉の意味が判らず、互いに顔を見合わせる。身振りから判断すると、外へ出ろと言っているようだ。ついに賄賂の効果が切れたのだろう。 またあの地下牢に逆戻りか、とフィリップは深い溜息を付いた。 三日後、二人はカレー海峡を渡る船の甲板の上にいた。 見上げる先には、名に聞くドーヴァーの白い崖があった。往路は船倉に放り込まれていたため、目にすることすら出来なかった。 「クリュニー伯、何者だろうな。クリュニーは長年空位だったが」 十二月も終わりの海風はフィリップたちを骨の髄まで凍て付かせたが、二人はなかなか船内に入る気になれなかった。 クリュニー伯なる人物が二人の身代金を支払ったのだという。 クリュニーはソーヌ河沿いにある街だ。アキテーヌ大公が創立したベネディクト派の古い修道院がある。 フィリップには心当たりがあった。目を細め、徐々に遠ざかっていくドーヴァーの白い崖を眺めながら。 「恐らく、私たちがまさかと思うような相手だろうな」 フィリップは漂白の利いた羊皮紙をアシルに手渡した。 「何だ」 「身代金と共にこれが送られてきたそうだ」 一行しか書かれていない手紙だったが、その筆跡で相手を推し量ることは容易だった。 「成程、……エスターシュか」 「お前を売って手に入れたクリュニー伯位とその財だろう。別段、恩に着る必要はない」 フィリップはアシルに向き直り、船べりにその背を預けた。 「エスターシュとはアデュー(永遠にさようなら)と言って別れた。だが、いつの日かまた会うかもしれないな」 「それが戦場なら会いたくはないが」 アシルは言った側からその言葉を否定した。 「いや、戦場でなくても同じか。どうせ喧嘩だ」 フィリップは笑って。 「エスターシュと会って喧嘩になるのは、お前ではなく私の方だろう」 「何故だ」 真顔で問われて、フィリップは甲板に視線を落とした。 言うべきだろうか。 エスターシュがあの時見せた涙を、漏らした本音を。 アシルはそれを負担に思うのだろうか、或いは嬉しく――? フィリップはひそかに拳を握り締めると。 「別れ際におまえのことで大喧嘩をしたからな」 私は言わぬぞ、エスターシュ。 ――世の中、そんなに甘くない。 「俺が伯になったら、肩代わりしてもらった身代金は百倍にして返してやる」 フィリップは瞳を見開いた。 アシルはブルゴーニュ大公国にいられなくなり、敵方であるフランス王国側に付き、そしてアザンクールでこの世の地獄を見た。 それはすべてエスターシュのせいだ。 だが、アザンクールの大敗により、騎士の少なくなったフランス王国でなら、アシルは思う存分、その本領を発揮することが出来るだろう。大言壮語などではなく、或いは本当に伯に――。 ひょっとしたら、アシルに羽ばたく翼を与えたのは、私ではなくお前なのかもしれない。 だが、私は負けぬ。 アシルの女房はお前などではなく、この私だ。 何も知らないでいるアシルがふいに憎らしくなり、フィリップは腹立ちまぎれにアシルの背中を平手で叩いた。 「この……、色男が!」 「何だ、急に」 そして二人は肩を寄せ合い、すっかり冷え切った身体を暖めようと船の中に入った。 身代金と共に送られてきた手紙にはたった一言。 Cadeau de Noel (ノエルの贈物) 帰国後、フィリップはアシルには内緒でクリュニー伯に手紙を書き送った。或いはアシルもひそかに送ったのかもしれない。だが、互いにそのことについては何も触れなかった。 フィリップがエスターシュに書き送った手紙もまた、一言だった。 Salut l'ami (友よ また) それで友はすべてを察するだろうと、フィリップは思った。 |
( 了 ) |
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