泪雨





 それに何か書いてくれないか」
 行成(ゆきなり)の年上の友、源俊賢(みなもとのとしかた)はそう言って、白の薄様(薄手の和紙)を差しだした。
「何か、と言われても」
 行成は友の唐突な願い事に当惑した。
「和歌でも白楽天でも、何でも構わないのだ。知っているかい。そなたからの文は皆の争いの種だそうだよ。書の練習に使うそうだ」
「書跡(て)を褒められるのは嬉しいが。要は私の字がそこにありさえすれば、内容は何でも良いという訳か」
 自嘲を混じえて言うが、内心は満更でもなく、行成は雲鳥模様の硯箱の蓋を開けた。そこから愛用の硯を取り出し、ゆっくりと墨を擦り始める。
 行成は宮中の出世競争から外れた男だった。
 宮中は藤原氏内部の権力闘争。
 藤原の姓と帝の外戚を祖父に持つ行成だったが、祖父と父が相次いで他界し、行成は何の後ろ盾も持たず、世知辛い世間に放り出された。そして権力闘争に明け暮れる親族は決して彼を顧みることはなかった。
 ある日、宮中で蹴鞠の儀が行われた。鞠が塀の外に転がり出たそのとき、ある公達が戯れにこう言った。親が大臣や大将でない者が取りに行け。果たして鞠を取りに行ったのは、行成ただ一人だった。
 行成はいつの頃から日々の日記を付けるようになっていた。日々の鬱屈を書き連ねるそのためではなく、書を書く機会を作るために。
 書は良い、日頃から行成は思っていた。何も考えず、無我の境地で筆を滑らせると心が落ち着く。日々の鬱屈も、どんな悩みも、霧散し昇華されていく。
 行成が宮中の出世争いに興味を失うのと時を同じくして、行成の書は評判となっていった。
「しかし本当に困ったな。何を書いたものか」
「では、評判の藤中将(とうちゅうじょう)殿の歌はどうであろうか。桜狩 雨は降りきぬ同じくは 濡るとも花の蔭に宿らむ」
 藤中将とは、右近中将と左近中将を兼任する藤原実方のことであった。藤原氏出身の中将のため、藤中将と呼ばれていた。
そして目の前の友は頭弁(とうのべん) 万人垂涎の官職である蔵人頭と弁官を兼ねるため、そう呼ばれていた。
「そう詠まれたそうだよ。先日の花見の折りにね」
 花見の最中に雨が降ってきた。どうせ濡れるのなら、花の蔭に留まろう。
――なんと、あの男らしい歌か。
 情景を脳裏に思い描き、行成は唇に小さな笑みを浮かべた。
 藤中将は舞の名手であり、今業平と称されるほどの絶世の美男であった。きらきらしい魅力を振りまきつつ、花の陰に佇んだのか。恐らくは人の目を意識して。
 墨が良い状態になったのを確認して、行成は墨汁に筆を付けた。
「結局、藤中将殿は装束も絞りきれぬほどにしどとに濡れたそうだ」
 薄様に筆を置こうとして止める。思わず眉を潜めた行成を見て、年上の友は言った。
「これはしたり。知っているとばかり思っていたが」
「なにゆえそう思われた」
「先日二人で居るところに行き逢ってね。小白河のお屋敷の結縁八講(僧を招いて行う仏教儀式)の折りだ。何故かな、邪魔をしたように思えた」
「それは貴殿の思い違いだろう」
 あっさり否定しながら裏腹に行成は思った。この年上の友は何と鋭いのだろう、と。
 行成は筆を硯の上に置いた。
「止めておこう。馬鹿馬鹿しくて筆を取る気にもなれぬ」
「絵になる情景とは思わぬか」 
「いいや」
 少し間を置いてから行成は言った。
「実方は痴れ者だな」
(そう、まさにあの男のようではないか)
 続く言葉を行成は無理にも飲み込んだ。





 幾度目かの共寝の後だった。寝返りを打つことさえ億劫で、行成はぼんやりと実方が衣を身に着ける姿を見ていた。しゅるしゅると衣ずれの音。衣に焚き染められた白檀が香る。
「君がため惜しからざりし命さえ」
 実方はそう吟じ、下の句を求めて行成を見た。行成は答えず、実方がその続きを口にするのを待った。
「長くもがなと思いけるかな」
 あなたのためなら惜しいとは思わなかった命ですが、共寝をしたその後は出来るだけ長くありたいと思うようになりました。
 意味はこう。勿論、行成はこの歌を知っていた。だが、下の句を口にする気にはなれなかった。それは一昔前、当代一の歌人と言われた男の歌であった。
「私の父が母に送った歌だ」
 実方は満足げに微笑んだ。燈台の朧な光が白く美しい貌を浮かび上がらせている。円座に座し、しどけなげに脇息に寄りかかるそのさまは、まさに絵巻物に描かれる美男そのものだ。
 この場面で、この歌を口にされ、心を動かされぬ者はないだろう。それが自分の両親に縁のある歌であれば、なおのことだ。
 けれどそこに実方の作為を感じた行成はそっと視線を逸らした。
 行成が身支度を始めたのを見て、実方は当てが外れたような表情をした。
「行成、次はいつ会えようか」
「いや、遠慮しておく。貴殿は人気が高い。そこに私までもが割り込めば、あぶれる者も出て来よう」
「何を言う」
「そう、ほらあの、――小納言」
 行成が実方と噂のある宮中の女房の名を出すと、実方は苦虫を噛み潰したような顔つきをした。
「あれは古い馴染みよ」
「小兵衛はどうだ。五節の舞の折り、解けた赤紐を貴殿が結び直したと聞く」
「耳聡いな」
「聞き回らずとも、貴殿の噂はしぜん耳に入ってくる」
 ややあってから行成は尋ねた。
「しとどに濡れたそうだな」
「何を? ああ、聞いたか」
 実方は歌うように言った。
「美しい花の陰ならば、濡れるのもまた一興だろう」
「烏滸(おこ)の沙汰だな」
 実方は一瞬、何を言われたのかわからない様子だった。
「何?」
「烏滸の沙汰だと、そう言っているのだ」
 行成はゆっくりと繰り返した。烏滸の沙汰。ばかげている。実方は眉宇を潜めた。
「貴様は美を解さぬ男だな」
「貴殿がそう思うのならそれで良い。もう夜も更けたな」
 行成は立ち上がると、袴の裾を蹴捌き、端近に向かった。怒りか、それとも別の理由からか、実方は声を震わせながら。
「二度と誘わぬ」
「構わぬ」
 行成は後ろも振り向かずに言った。
「空いたその枠を喜ぶ者も居よう」





 美しい男というものは、激しく怒っていてもやはり美しいものなのだと行成は思った。
「行成!」
 久方振りに宮中で行き逢った実方は激しく怒っていた。
「なぜ我の文に返事を書かぬ」
「言ったであろう。空いたその枠を喜ぶ者も居ようと」
 だしぬけに襟首を掴まれたが、行成は動じず、静かに言った。
「装束も絞りきれぬほど濡れるなど烏滸の沙汰だ。そしてその馬鹿さ加減にいまだ気付かぬ者に返事を書く気にはなれぬ」
「我はそうは思わぬ」
 実方のただならぬ剣幕に、周囲には既に人だかりが出来始めていた。
「人目に付くぞ、藤中将殿」
「人目なぞ!」
 あくまでも冷静さを失わぬ行成に腹を立てたのだろう。実方は笏を振り上げると、行成の冠を払った。小結が解け、冠が庭に落ちる。
 冠を落とされる。それは人前で裸にされることより恥とされていた。たとえ死の床にあったとしても烏帽子は脱がぬ。ましてやここは殿中である。
「……!」
 実方は自分の犯した行為の恐れ多さに気付いたか、身体をわなわなと震わせていた。
 事を大きくしてはならぬ。咄嗟にそう判断した行成は宮中の主殿女官を呼ぶと、庭に落ちた冠を拾うよう命じた。
 髻(もとどり)に小結を結ばせ、渡された冠を被り直す。
 その時、行成は背後に強烈な視線を感じた。振り返れば、濡れ縁の奥、上半分を跳ね上げた小半蔀(こはじとめ)に人影があった。
「――殿中でなんの騒ぎか」
 小半蔀の内より発されたその声。出世競争から外れた行成と言えども、その声を知らぬはずもなかった。
 主上(帝)の声であった。





「主上は歌枕を見て参れ、と仰り、藤中将殿を陸奥守に任命された」
 後日、俊賢から聞かされた事の顛末に行成は息を飲んだ。和歌に堪能な実方を慮っての栄転のようであるが、中将職を取り上げられての事実上の左遷である。
「そして殿中で冠を打ち払われても怒りを露にしない行成は優れた者だと仰られた。それ故、私もそなたを推しやすくなったのだ」
 俊賢はゆっくりと言った。
「主上はそなたを私の後任の蔵人頭にと」
 蔵人頭。それは家柄の良い若い公達垂涎の官職であった。出世に無縁であった行成にとって、まさに夢のような官職。
 後任に推薦してくれたという友の前、けれど手放しに喜ぶことは出来ず、行成は唇を噛み締めるばかりだった。
「俊賢殿、私の父の死因をご存じか」
 唐突に問われ、俊賢は戸惑いを隠せない様子で。
「疱瘡(ほうそう)と聞いていたが」
「表向きはそうだ。だが本当は」
 行成の父、藤原義孝は美貌の男であった。歌人としても優れ、月光の下、和歌を吟じながらそぞろ歩く姿はたとえようもないほど美しかったと言う。
「疱瘡により容貌が醜くなったことを苦にしての自死であったのだ」
 実方はあの男に似ていると思っていた。若くして自死を選んだあの男に、行成を、何の後ろ盾も持たせずに世間に放り出したあの男に。そう、自分の父に。
「美貌はそれほどまで大切か。他人の目がそれほどまでに気になるのか。私は」
 自分の手が小刻みに震えていることに気付いた行成は、縋る何かを求め、硯箱の蓋を開けた。
「醜くなってもよい。あれがあの、美貌で知られた藤原義孝のなれの果てよと他人に後ろ指を指されてもよい。私は父に生きていて欲しかった。私はただ」
 墨を取ろうと手を伸ばしたが、いまだ震えを帯びる手ではそれを手にすることが出来ない。俊賢は行成の手を取ると、その甲に触れた。
「雨に濡れては身体を害すと思ったのだ」
 口にすれば、何と陳腐な言葉となろう。だがそれこそがまさに行成の真実であった。
「なればこそ引けなかった」
 友はどこまで知っていたのだろう。どこまで察していたのだろう。何も尋ねず何も語らず、友はただ、行成の手の甲を優しく撫でさするばかりだった。
 どれだけそうしていたのだろうか。
 白の薄様に青の薄様を重ねれば、襲色目(かさねいろめ)の花桜となる。行成は心を落ち着かせると、改めて墨を摺った。筆を取ると、行成は口振りも荒く。
「――雨など降らなければ良かったのだ」
「そなたも怒ることがあるのだな」
 俊賢は意外そうに言った。
「だが怒る相手が雨というのが、いかにもそなたらしい」
 そう、雨さえ降らなければ。
 だが雨が降らなければ、あの男の本気を自分は知らぬままだったろう。
 そして自分もまた惹かれずにはいられなかった。
 華やかなりし藤中将。
 深入りすることが怖くて背を向けた。
 真の痴れ者はむしろ自分だろう。



 桜狩 雨は降りきぬ同じくは 濡るとも花の蔭に宿らむ



 一気呵成に書き上げれば、その歌の美しさが改めて胸に迫る。
 なんと美しい歌だろう。
 なんとあの男に似つかわしい歌だろう。
 行成の目から泪があふれ、頬を伝い、薄様に書いた文字が滲んだ。
 濡れ縁の外はおりしも雨。
 まるで泪雨のようだと行成は思った。



   

 A novel inspired by "十訓抄 "


( 了 )
Novel