ラインの乙女 11





「何者だ! 名を名乗れ」
 城門の上に立っていた歩哨はジークだった。
「久しいな、ジーク。私を逃した罪で罰を受けたのではないかと心配していた」
「まさか――、ヴェルフ伯爵閣下でございますか!?」
「そう、ワインスベルクの城主にしてリリエンベルクの領主、ヴェルフ伯リーンハルトだ」
 カッツェンエルンボーゲン伯は狩りに出掛けていた。
 すぐに触れが飛んだが、結局伯が城に戻ってきたのは夕刻近くになってからだった。
 慌しい気配がしたかと思うと、広間の扉が開かれ、そこに息せき切った様子の伯が現れた。
 リーンハルトはゆっくりと口を開いた。
「ご機嫌よう。少し痩せたか?」
 伯は大股で歩いてくると単刀直入に言った。
「何用だ」
「ご覧の通り、投降だ。身代金を払わずに逃げたとあれば、騎士道にもとる」
 伯は立膝でクッションに腰を下ろすと。
「まさか私に虐められるのが病みつきになった、という訳ではあるまいな。戻るくらいならなぜ逃げた」
「一度(ひとたび)、領主が不在になると、領地ではさまざまな問題が起きるものだ。幸い我が一族は多産の家系で、優秀な領主代行の存在には事欠かない。領主代行を直接指名し、新酒の時期にはこちらに葡萄酒を送るよう命じてきた。虜囚生活はどうやら長引きそうであるからな。ついでに皇帝城に行き、挨拶も済ませてきた。ずいぶんと引き止められたが、騎士道にもとる行為はできぬ」
「貴殿はまさしく犬だな。馬鹿正直にもほどかある」
「それにあのユダヤの老人のことも気になった。貴様に酷い目に遭わされているのではないかと」
 伯は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「酷い目になど遭わせるはずがないだろう。あれは――、私の祖父だ」
 リーンハルトは驚いて沈黙した。
 伯は身を委ねていたクッションから立ち上がると。
「逃げはせぬのであろう? ならば、外で話そう」





「貴殿がここから逃げる際に用いた服、あれは私の母の物だった。イザークは……、私の祖父はそれ故にすぐに気付いたのだ。イザークは言った、貴殿は私の母に似ていると。だからこそ決して払えぬ身代金を設定し、貴殿を留め置こうとしたのではないかと。それは正しいことではないと私を諭し、追っ手を差し向けるのを断念させた」
 ラインの岸辺を二人、並んで歩いていた。
 あの夏至祭りの晩から既に二ヶ月、日没はやや早くなった。
 それでも夕陽は未だ落ちず、ライン河を紅く染めていた。まるで初めて伯に会った、あの日のように。
「ラインの乙女……」
「どうして知っている?」
「シュタインベルクの女伯から聞いたのだ」
「元気であったか、エレオノーレは。手紙を何度も貰っていたのだが、私はそれに一度たりとも返事を書かなかった。何と書けば良いのか判らなかった……」
「私はシュタインベルクの女伯からすべてを聞いた。ラインの乙女、貴様の過去、兄を弑した真の理由」
 岸辺には大きな平たい岩があった。伯はその岩によじ登ると、岩から手を差し述べて、リーンハルトを引き上げた。
「ラインの乙女は子供の姿を見るとひどく怯えた。子供は乙女を虐めるからだろう。乙女は私が誰であるのかも判っていなかった。だから私とエレオノーレはいつもこの岩陰に隠れて、ラインの乙女の歌声を聴いていた」
 岩は二人の人間を乗せるに充分なだけの広さがあった。伯は岩の上に足を投げ出して座り、ライン河の流れを眺めながら、淡々と語り続けた。
「ときに私は夢想した。私が伯爵となりラインの乙女を迎えれば、乙女は正気を取り戻すのではないか。けれど現実は残酷だ。私が伯となるその前に、乙女はひっそりと誰にも看取られず、息を引き取った」
「私はそんなに似ているのか、乙女に」
「初めて貴殿を見た時、驚いた。まさか、違う、そんな筈はないと幾度も否定した。だが、イザークもそう思ったと言うのだから、やはりそうなのだろう」
 伯は小さくかぶりを振り。
「いや、違うな。貴殿はラインの乙女とはまったく違う。乙女に貴殿のような強さがあれば、狂いなどしなかったろう。乙女は貴殿のようには笑わなかった。その笑顔を見たいといつもいつも願っていたが、それは叶わぬ夢だった」
「カッツェンエルンボーゲン、貴様は可哀想な男だ」
「ふふ、憐れむつもりか。人質に憐れまれるほど落ちぶれてはおらぬ」
「いや」
 リーンハルトはあらん限りの勇気を振り絞ると、手を伸ばし、伯の頬に触れた。
「誰かが言っていた、人を可哀想だと思う気持ちはその者が気になるからこそ生まれると。だから私は戻ってきた」
 リーンハルトはカッツェンエルンボーゲンに口付けた。
 伯の琥珀の瞳が驚いたように大きく見開かれる。魔物じみたその色、けれど今のリーンハルトの目にそれはひどく美しく見えた。
「或いは貴様の言うように、貴様に虐められるのが病みつきになったのかもしれないな」
 伯は震える手でリーンハルトの背中に手を回した。だしぬけに引き寄せると、情熱的に唇を寄せてきた。
 火傷しそうなほど熱い伯の舌がリーンハルトの舌に触れた途端、身体の芯がまるで火の点いた蝋燭のようにとろとろに溶けた。初めて自ら進んで舌を絡ませ、リーンハルトは甘い口付けに酔った。
 注がれる伯の唾液がたまらなく、甘かった。
「身代金は……っ、…もっと、もっと吊り上げろ」
「誰も払えぬほどに?」
 リーンハルトは身体を小刻みに震わせながら頷いた。





「良いのか、皇太子のことは」
「貴様は鋭い男だな。確かに好きだった、それは認めよう。だが、皇帝城にて皇太子に再会した時、私は気付いてしまったのだ。皇太子よりももっと気になる者の存在に」
「それは私のことか」
 リーンハルトは答えず、まったく別のことを口にした。
「私は決して逃げない。だから小さくても良い、私に部屋を一つ与えてくれ。外出も文も自由に。そして好きな時にワインスベルクに戻ることを許せ」
「何と言う贅沢な条件だ、まるでギリシャ神話のペルセフォネーのようではないか」
「冬しか冥府の神の側に居ない妃よりは遥かにマシだろう」
 既に夜はとっぷりと更けていた。
 ふと肌寒さを覚え、リーンハルトは身体を震わせた。伯は身に纏っていた豪奢な黒貂のマントを脱ぐと、それをリーンハルトの肩に掛けた。
 岩から降りると、リーンハルトの手を取ろうと腕を伸ばし。
「隠し通路にて私の私室と繋がっている部屋がある、それを貴殿に与えよう。私は世にも寛容な男だ。外出も文も許そうではないか。その代わり私にも条件がひとつある。世にも過酷な条件だ。果たして貴殿が呑むかどうか」
 リーンハルトはごくりと息を呑むと、おそるおそる尋ねた。
「それは一体?」
「いつも笑っていてくれ」
 リーンハルトは笑って頷くと、伯の手を取り、岩の下へと降り立った。





 ヴェルフ伯リーンハルトの幽囚には諸説ある。一説には七年、ある書物に拠ると死ぬまで滞在したとも言われている。 
 今日であれば、愚行と言われるかもしれない。
 けれど騎士道華やかなりしこの時代、ヴェルフ伯の行為は騎士道の鑑(かがみ)として称えられ、名高き童歌と共に、後世にまで長く伝えられた。
 今日に至るも、ラインフェルス城を訪れると、ヴェルフ伯が幽閉されていたという城壁塔を見ることができるという。





 りんりん りんりん 金ぴかりん
 ラインの城には どなたがおわす
 城におわすは 猫伯爵

 何としてでも 通しません
 金貨積まねば 通しません

 りんりん りんりん 金ぴかりん
 業突く張りの 猫伯爵
 塔を金貨で埋めたとさ



 りんりん りんりん 金ぴかりん
 ラインの塔には どなたがおわす
 塔におわすは 子犬伯

 何としてでも 出られません
 塔からどしても 出られません

 りんりん りんりん 金ぴかりん
 向こう見ずの 子犬伯
 塔を涙で埋めたとさ 





――この童歌はヴェルフ伯の幽囚(1277 - ?)を元にしている。






( 了 )
Novel