天蠍宮





「飼えないわ、ステファン」
 生まれたての仔猫を抱えたランツベルクの懇願に、しかし母の答えはにべもなかった。
 母はその頃父の希望で仕事を制限していて、そのせいかひどく刺々しい態度を取ることがあったのだ。
「お父さまがお嫌いなの、知っているでしょう」
 捨てていらっしゃい、と言われても、捨てられるはずもなかった。
 ランツベルクは父のお抱えの運転手に頼み込んで、車置きでこっそりその仔猫を飼うことにした。毎朝様子を見に行き、毎日遊び、毎晩お休みを言いに行った。
 雪のように真っ白な可愛い雌猫で、ランツベルクは子供らしくシュネーヒェン(雪ちゃん)と名付けた。
 ある日、ランツベルクがいつものように車置きに行くと、そこに仔猫の姿はなかった。
 父が見つけて、運転手に捨てるように言いつけたのだ。くどくどと詫びる運転手に、ランツベルクは仔猫を捨てた場所を尋ねた。
 それは車でアウトバーンを飛ばして一時間も掛かる場所だった。ランツベルクは徒歩で捨てられた仔猫を探しに行った。
 伯爵の子息の行方不明事件にヘリコプターまでが出動する騒ぎとなり、ランツベルクはそれから三日後に保護された。保護された時には仔猫をその腕に抱えていた。
「執念深いのね、誰に似たのかしら」
 母は呆れたように言い、それでも父に頼み込んで、騒動の元となった仔猫を飼う許可を取ってくれた。
 ランツベルクはその猫を大事にし続けた。長じて城から離れ、スイスにある全寮制の学校に行っても、猫と遊ぶためだけに休暇になると飛んで帰った。
 そしてあの忘れられない秋の日に猫の死を知らせる手紙を受け取った。
 それからランツベルクは猫は飼わなかった。一生飼わないと心に決めた。
 自分の猫はあの仔だけだと心に決めたからだった。





 ランツベルクは大人しく辛抱強い子だと言われて育った。それは人から注目されることの多い生まれで、厳格な父の教育の下、育ったせいなのかもしれなかった。
 けれど仔猫事件で見せたように、ランツベルクは自分の中に恐ろしいほどの執念深さとそれと裏腹な破壊的な衝動があることに気付いていた。
 それを日頃から表に出さないようにしているだけに、それを目の当たりにした時に他人は驚くのだ。
「おはようございます」
「おはよう」
 タイムス紙の向こうから上司の言葉が返る。
 上司はあの日以来、仕事と挨拶以外一切の話をしなくなった。地味に応えたが、長年共に働くうちに培った阿吽の呼吸があり、捜査に支障が出ることはなかった。
 だが、特捜機動課の要である二人の不協和音は、すぐに周囲の人々に知れることとなった。
「珍しいな」
 声を掛けてきたのは、特捜機動課を統括する主任警視であった。
「お前たちが仲違いするなんて――」
 ミルクティのカップを差し出され、黙って受け取った。
「何があったんだ」
「いえ、ちょっとした宗教上の見解の相違です」
 ブラックロック主任警部が狂信的なカトリックだというのは周知の事実だったため、ランツベルクの切り返しを聞いて、主任警視は笑った。
「それで? 私に何か話があるんじゃなかったか」
 怪訝そうに首を傾げたランツベルクに主任警視は意外な言葉を投げかけた。
「ブラックロックから申し入れがあった。お前が異動を考えているようだから希望を聞いてやってくれと」






――追い払うつもりか!

 ランツベルクは靴音も荒々しく庁内の廊下を歩み、武器庫に入った。近々出動があるかもしれないと申し渡されていたためである。
 ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)では三十八口径のウェブレイ・リボルバーが採用されている。
 保管庫から銃を取り出すと、ランツベルクは銃の手入れを始めた。
 洗浄用のオイルを吹きかけ、真鍮製のワイヤーブラシで銃身内を掃除する。剥離した汚れを再びオイルで洗い流す。今日ばかりは無心で出来るこの作業が有り難かった。
 突然武器庫の扉が開く音がして、ランツベルクは驚いて振り返った。
「……」 
 ブラックロックだった。驚いたように鳶色の瞳を見開き、自分を見ていた。
 居たのか。
 言葉には出さない。けれどその表情が彼の心の声を代弁していた。
 踵を返して去ることは、彼のプライドが許さなかったのだろう。ブラックロックはランツベルクの背後をすり抜け、保管庫から銃を取り出す。
 武器庫の中央には木のベンチが置かれている。ランツベルクと背中合わせに腰を下ろすと、ブラックロックもまた無言で銃の手入れを始めた。
「主任警部、なぜ私を無視されるのか、その理由をお聞かせ願えますか」
「――自分の胸に聞いてみろ」
 低く、押し殺したような声だった。
「貴方を騙して誘ったことですか? 私は確かに初めてとは申し上げませんでしたが、経験があるとも口にしなかったはずです」
 ブラックロックはそれには答えず、変わらぬ硬い声で言った。
「異動しろ、ランツベルク」
「どうして私が異動しなければならないのですか」
「それじゃ俺が出よう」
「出られるのですか、特捜を? 貴方が?」
 弱みを握られているという自覚があった。
 この男にとってテロ犯罪を担当する特捜は特別な意味を持つ。テロにより家族を殺された復讐だ。そのためにすべてを犠牲にして仕事に邁進している。
 ランツベルクがそれを知っていることを承知の上で言っているのだ。自分のために譲るだろうと思っている、この男は。
 過去に何百、何千回と思った言葉を胸の内で呟く。

――何て、傲慢な男だろう。

「貴方はいつもそうやって人と距離を置くのですね」
 シリンダーに弾丸を込めながらランツベルクは言った。
「思われるのも迷惑だと? 私が毎日貴方を思って慰めているかと思うと怖いですか?」
 心臓の鼓動は早鐘を打ち、ランツベルクは自分の内にふつふつと、あの破壊的衝動が沸き起こってくるのを感じていた。自分の口が汚物にまみれるような感覚がむしろ快感だった。
「俺は言葉を信じない。人は一時の熱に浮かされてすぐに誓う。好きだ、愛してる、一生一緒に。そうして誓った言葉を人はすぐに裏切る。俺はそんなあやふやな物に心をかき乱されたくないんだ!」
「お聞きします。この世にあやふやでない物などあるのでしょうか」
「少なくとも信仰は俺を裏切らない」
 ランツベルクはだしぬけに立ち上がり、革靴で保管庫の扉を蹴った。
 まさか、キリストが自分の恋敵になろうとは――。
 ブラックロックは手入れを終えた自分の銃を保管庫に戻すと、ベンチに置き去りにされていたランツベルクの銃を取った。油布を取り上げ、包底を拭き始める。その横顔は他人を寄せ付けないほど厳しいものだった。
 たまらず視線を逸らした。
「貴方が本当は何を恐れているのか私は知っていますよ。捨てられること、置いていかれること、愛されなくなること! だからこそ手当たり次第に他人の愛をかき集めて、自分の愛は後生大事に仕舞っておく」
「それがどうした。swear(誓い)は呪いの意味も持つ。俺は蠍の星の生まれだ。誓いを違えることは許さない! どうせ裏切られるんだ。なら、最初から愛さない方が良い!」 
 上司が口にしたある言葉がついにランツベルクの逆鱗に触れた。
「貴方をたった一人この世に置いていった貴方の家族は裏切り者ですか。違うでしょう?」
「ランツベルク……」
 ランツベルクの言葉はどうやら上司の急所を正確に射抜いたようだった。大きく見開かれた鳶色の瞳は怒りの炎で燃えていた。
 ランツベルクは上司に躍りかかるなり、その手から銃を奪い取った。
 警察官だけに銃の重みはよく知っていた。
 知っていて、それを手にした。銃口を向ける。
「それでも警察官か、ランツベルク。おかしいとは思わないのか」 
「――私は本気です。追い払われなどしません。貴方が警視になったら警部に、主任警視になったら主任警部となりましょう。貴方が警視総監になったなら、私は副総監です」
 武者震いつきながら、ランツベルクは叫んだ。
「ご存知なかったんですね、主任警部。私もスコーピオ(蠍)ですよ! ハデスの守護の生まれです!」
 上司が自分の星座さえも知らなかったことに気付いたランツベルクは我を失っていた。 
 部下の星座さえも知らない貴方。知ろうとしない貴方。
 何て臆病な人だろう。
 何て可哀想な人だろう。
「よく考えろと言っている」
「蠍の男に愛されたその身の不運を貴方は身を持って知るべきだ。付いて来い、と言わなければ撃ちます」
「愛する男が手に入らなければ殺すのか。お前はサロメか!」
「その後で私も死にましょう」
 生まれて初めて心の底から欲しいと思った男だった。
 そして絶対に諦めない、妥協しない、欲しい物はどんな努力を払っても手に入れる。
 それが生まれ持ったランツベルクの性格だった。

――要らない。

 貴方が手に入らないのなら、何も要らない。
 この人生、この命さえも。
「ノーだ!」
 ブラックロックは怒声を上げ、ランツベルクはついに引き金を引いた。





「どうして……」
 空砲だった。
「だから言った。それでも警察官かと。一発目を抜いておいたのになぜ気付かない」
 初歩的、かつ致命的なミスだった。常ならば確めたろう。撃つ前に。だが、それを確める心の余裕がなかった。
「お前の様子がおかしかったから抜いておいた。だが、もしその銃の一発目に弾丸が入っていれば、俺は言っていただろう、イエスと。何故なら俺は死にたくないからだ」
 ブラックロックは革靴を鳴らして歩み寄ると、ランツベルクの手から拳銃を取り上げた。
「俺はお前を試した」
「殺人未遂の現行犯ですね。逮捕されますか」
「お前が引き金を引かなければ、俺はお前の言葉を信じなかったかもしれない」
 ブラックロックはランツベルクの手を取った。
「副総監になりたけりゃ、死に物狂いで俺に付いて来い。俺が絶対にお前をそこまで引き上げてやる」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 許されたのか、付いて行くことを。
「その代わり」
 ランツベルクの手を摩る上司の手は温かく、その言葉はランツベルクの胸の深い場所へ落ちた。
「俺もお前以外は誰も抱かないと約束しよう」 
 ランツベルクは腕を伸ばすとブラックロックに抱きついた。



 何が、変わったのだろう。
 それとも何も変わらないままなのか。



 わからない。
 けれど、ランツベルクの手をさするブラックロックの手の温かみ、それだけが今の真実だった――。





( 了 )
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