エピローグ





 テレビはひっきりなしに同じニュースを流していた。
 一度動き出した歯車を止めることなど出来はしない。 
 ピクニック事件から端を発した東ドイツ国民の西側への流失。それを止めることは出来ず、ついに悪しき冷戦の象徴、ベルリンの壁が崩壊したのだ。
 まさに奇跡。
 そして起こった奇跡はその一つだけではなかった。



「信じられない、まさに奇跡だ」
 過去に何度も告げた言葉を、ディーターは再び繰り返した。
「可能性はゼロではないのでしょう、と貴方に何度も確認したわ」
 受精自体が神の領域であろうと思っていた。
 そればかりでなく、その奇跡の受精卵は彼女の体内で癌化することなく、無事この世に産まれてきたのだ。
 果たして相手は普通の人間なのか。
 疑念が胸を掠める。
 捻じれ、醜く絡まった、自分たちの遺伝子(ゲノム) 。それと結合する相手がおいそれと現れるはずがない。自分たち同様に人為的に生み出された存在か。
 或いは――。
 だが、それを彼女に正すのは無粋というものだろう。
「あの娘は他の人間よりほんの少しだけ寿命が長くなるかもしれない。だが、それだけだ。強大な力も、若さを保つ術も、恐らくは持ち合わせてはいないだろう」
 娘を診ての所見を声を潜めて語ったのは、その娘が隣室で寝かされていたからだ。
 麻酔が切れるまでにはまだ少し間があったが、万が一を考えた。
「あの娘は普通の子だわ。けれどわたくしの、わたくしたち一族の血を後世に引き繋いでくれる奇跡の子となるでしょう」
 言って、彼女は暫しテレビの画面に見入った。
 ベルリンの壁に殺到する市民たち。1961年に突然建設が始まった壁はその後28年の長きに渡り、西ベルリンを囲んだ。
 どんなに強固な存在も、決して抗えぬと思える脅威も、崩壊するときはいつも一瞬。
 そう、ナチスドイツが崩壊した時と同様に。
「ねえ、ディーター」
 彼女は振り返ると、唐突に笑い、そして言った。
「貴方には返そうとしても返しきれない恩がある。今こそれをお返しする時だと思っているわ」 










「昇進おめでとう、主任警部」
「ここで貴方の主任警部昇進をお祝いしたのが、つい昨日のことのように思えますが」
  ランツベルク主任警部の言葉に、アルは同意を示すように頷いた。
「早いものだな、十年か」
「正直、ノンキャリアの限界を感じていますよ。後悔しています。こんなことなら大学を出ておけば良かったと」
「入り直すかい。君はまだ若いよ」
「現場を離れるのは不安です」
 ランツベルクは本音を吐露した。
「それ以前に君の上司が君を手放さないだろう」
 二人の間で特別な出来事があった時の定番となっているシンプソンズ・イン・ザ・ストランドで食事を摂った後、まだ仕事が残っているというランツベルクと別れた。
 そのまま自宅に帰らなかったのは、恐らくは感傷から。
 長いようで短かった十年だった。仕事に打ち込むうち、あっという間に歳月は流れた。アルは独身であり、そしてランツベルクもまた独身だった。
 当て所なく歩を進め、アルはコヴェント・ガーデンに入った。
 コヴェント・ガーデンは賑わっていた。ここにはかつてロンドンの青果市場があった。市場が移転し、先日ショッピング街として生まれ変わったばかり。
 ふいに人の視線のようなものを感じ、アルはふと顔を上げた。
 そこにひとりの少女が立っていた。
 年の頃は七、八歳。ひょっとしたら東方(オリエント)の血が入っているのかもしれない。不思議と魅力のある少女だった。
「あのね」
 小首を傾げてその少女は言った。
「これを渡してくれと言われたの」
 差し出す手紙を受け取る。胸騒ぎがし、アルは少女の目の前で封を切った。
「君!」
 そして次に顔を上げたその時には、もはや少女の姿はなかった……。





 ご機嫌よう、警部さん。
 いいえ、わたくしたちを取り逃がした責を問われていない限り、もっと出世なさっていることでしょうね。
 あなた方の包囲網を逃れてロンドンを出、貨物船に乗って辿り着いた東の果ての島国の港町で、わたくしは運命の人に出会ったわ。
 いいえ、運命などというと笑われてしまいそう。

 幸運にもわたくしの捻じれた遺伝子(ゲノム)と上手く組み合う遺伝子を持つ相手と巡り合った。
 わたくしは今とても幸せだわ。
 だから貴方にもその幸せのお裾分けをするつもり。





 手を挙げ、タクシーを掴まえた。
 そして告げる。
「ロンドン塔まで」
 後部座席に腰を下ろすと、あまりに強く握りしめた為にしゃくしゃになってしまった手紙を再び開いた。





 あの人との再会の場所に、危険なロンドンをあえて選んだのは、この街に貴方がいたから。
 貴方に特別にわたくしたちの秘密を教えてさしあげる。一周期で伸ばせる寿命はせいぜい二十年。
 だからわたくしたちに残された時間は後十年。

 わたくしはその十年を、わたくしの奇跡の娘が一人になっても生きていけるよう、その養育に心血を注ぐつもりでいるわ。
 そしてその目的を果たしたら、わたくしはわたくしの運命を受け入れる。
 次周期は望まない。
 
 天国に行けると思うほど厚顔無恥ではないつもり。けれど焦熱地獄(ゲヘナ)に堕とされるほどの罪を犯したとは今でも思っていない。
 いずれせよ、わたくしの一族を生きながらに焼き殺した連合軍の方々と同じところに行くつもり。
 あの方々が罪に問われぬと言うのなら、わたくしもまた裁かれることはないでしょう。


 これはわたくしの勝手なお願い。
 けれども伏してお願いするわ。
 貴方の十年をどうかあの人に。

 わたくしはあの人をよく知っている。
 ひょっとしたらあの人自身よりも良く――。





 アルは転がり出るようにしてタクシーを出た。

 向かうのは、逆賊門の前。





――ブラックロック。

 アルは走りながら、自らの写し鏡ともいえるその存在に心の中で話しかけていた。



――ヤードの未来は君に託すよ。
 君ならきっと僕らの望むその未来にきっと辿り着けるはず。
 戦線離脱と、君は怒るかな?






 十年間。
 正義とは何か、アルはずっとそれを問い続けていた。
 その答えをアルはまだ見つけてはいない。だが――。




 タワーブリッジの橋を背にその男は立っていた。
 アルは足を止めた。
 橋に注ぐ夕陽が逆光となり、その顔を見定めることは出来ない。
 だが、言ってくれるだろう。


 まるで昨日の続きのように。




 男は言った。
「やあ、警部」






( 了 )
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