ストロベリーフィールズよ、永遠に |
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――何てこの人はキスが上手いんだろう。 一体どこで学んできたのかと思えるほど彼はキスが上手かった。キスだけで完全に勃ちあがってしまう。 スーツ姿の上司にソファの上で強く抱かれ、注がれた唾液を飲む頃には挿れて欲しくて腰が震えるほどだった。 「欲しいのか?」 得意げに尋ねるのが憎らしい。 「慣れて、良くなってきましたからね」 「じゃ今日は天国を見せてやろう、カトリックの」 自信たっぷりに言うと、ランツベルクの脚を強引に割り開いた。 「あんまりお手軽じゃないですか」 揶揄するように言ってみたが、かの上司は脚間に顔を埋めたままで答えない。 「何でも職場で済まそうなんて――」 屹立をねっとりと舐め上げられて喉が反る。 「性と愛は分けてるから良いだろう」 ひょっとして釘を刺されたのか、ひやりと思うが、すぐにベッドに追い立てられたため、幸い表情は読まれずに済んだ。 前進したと思っていた関係だが、実際は後退したのではないかとランツベルク部長刑事はひそかに思っていた。 異動騒動がもたらしたものは、セックスフレンドという微妙な立ち位置だった。そこにランツベルクを置いて、安心している上司が憎らしい。 まあ、こんなに若くて良い身体を頂けるのだから。 資格任用制で雇用される高級公務員は、巡査から出世階段を上がる一般警官よりも格段に出世が早い。中でも一番の出世株と目されるヤードで一番若い主任警部は、巡査から認められて部長刑事となったランツベルクよりも一つ年下だった。 いくら身体が繋がっても、心はバラバラかと思うと悲しいばかりだ。貴族らしからぬ下品な発想転換をしない限り、到底耐えられるものではない。 それでも長い間謎だった上司の家に(ごく稀にだが)入れ、秘密のベールに包まれていた私生活を垣間見れるのは楽しい。ランツベルクは今のところはそれで満足する事としていた。 ランツベルク部長刑事が特捜機動課に入ると、そこには神父が待ち構えていた。 カトリックと聞いて真っ先に思い浮かべるのはかの上司である。さては臨終に際し、終油の秘蹟を受けるつもりで呼んだのかと見回すが、瀕死であろう上司の姿はない。 よくよく見ると相手は神父ではなく修道士であった。三つの結び目のある特徴的な縄帯を見てそれと気付く、……フランチェスコ会。 寄付でも募りに来たのだろうか。驚いてその場に立ち尽くすランツベルクを見、何故かその修道士は顔を輝かせた。 「ヒース!」 反射的に振り返ると、そこには特捜機動課の入り口で仰天している上司の姿があった。やはり知り合いだったのか。しかし上司はくるりと踵を返すと、その場から逃げ出そうとした。 「主任警部!?」 「悪い。ランツベルク、何とか相手をしててくれ」 「ちょ、ちょっと待って下さい。そんな訳には!」 急ぎ袖を掴んで引き止める。二人が揉み合っている間に、修道士はにこにこしながらこちらに歩いて来た。 「元気そうですね」 恨むぞ、ぼそりと耳元で囁かれ、ランツベルクは当惑して天井を仰いだ。 修道士が去ると、ランツベルクは待ちかねたように上司にその関係を尋ねた。 「俺の育った施設が閉鎖されるってんでその話をしにきたんだ。なかなか掴まらないから直接来たらしい」 すぐには返事をする事が出来なかった。 興が乗ると立て板に水の如く捲したてる上司だが、その癖肝心な事は口にしない。彼のグラマー・スクールからの立身出世物語はとみに有名だが、よもや施設育ちであったとは。 「ビートルズのストロベリーフィールドのようなところですか」 気を取り直して尋ねる。 「あそこは救世軍だろう。俺が育ったのはフランチェスコ会付属の児童養護施設だ」 「それはそれは、何と言っていいのか」 「いいや。元は戦災孤児院だったんだが、もう戦災孤児って時代じゃないだろ。施設よりも里親の元で育てられた方が健康的だってご時勢らしい。それに英国じゃカトリックは露骨に差別されるからな。孤児を集めるのも信徒増やすためじゃないかなんて中傷されるし、なかなかやってくのは難しいらしい」 現に貴方がそうですしね、と喉元まで出かかったが、辛うじて堪えた。上司のガチガチのカトリックへの傾倒ぶりを傍で見ている限り、あながち間違った中傷とも思えなかったのだが。 「まるでディケンズの小説のようなお話ですが、阻止は出来ないのですか?」 「寂しいっちゃ寂しいが、教会はそのまま残るし、建物は修道院にするそうだから良いんじゃないか。俺は里親制度には大いに賛成だね。集団生活なんてするもんじゃない。毎日が『蝿の王』だ、生きるか死ぬかだ。勉強してるとテクニカルやらモダーンやらに行ってる馬鹿な年長の奴らがやっかんで邪魔しにきやがる。教科書隠されるなんて日常茶飯事。大事に世話してたアロイシアスは遊び半分で殺される。最悪だったね」 「アロイシアス?」 ぎょっとして尋ねると、猫の名だ、と返ってくる。子供や若者の守護聖人である聖アロイシアスから取ったのだろう。それにしてもカトリック的である。 スイスの上品な全寮制学校を卒業しているランツベルクであったが、それでもその雰囲気は想像に容易かった。男ばかり一つ所に集めていると碌な事にはならない。大なり小なり『蝿の王』的世界になる。ましてやそれが孤児院ならば。 「そんな状況下でよくもグラマー・スクールに合格出来ましたね」 「イレブン・プラスの試験前で気が狂いそうになってた俺を見かねて、あの、今日来てたブラザーが特別扱いで同室にしてくれたんだ。試験に落ちでもしたら俺が首でも括るんじゃないかって危惧したんだろう。それからは俺が大学に行くまでの七年間ずっと同室だった。見返りとしてその間ずっと侍者やらされたが、天国だったね。いくらでも勉強が出来るんだ」 ははは、と声を上げて笑う上司を見て妙に納得する。 「俺はあの性質(たち)の悪い年長連中がいつか捜査線上に浮かび上がるんじゃないかと思ってひやひやしてるよ。まあ、あいつらは一度位は刑務所にぶち込まれるべきかもしれない」 グラマー・スクール、それは選抜制の公立進学校だ。残酷なまでに階級社会の英国で、裕福でなく優秀な子供が成功するための唯一無比の手段と言っても過言ではない。 その合否はイレブン・プラスと呼ばれる11歳での入学試験において決定される。グラマー・スクールに進学できるのは僅か上位二割。不合格となれば、庶民的性格の強いモダーン・スクールや、工芸学校であるテクニカル・スクールに行くこととなる。 上司が試験前に気が狂いそうになったというのもあながち大袈裟な表現ではないだろう。 ――成程、首席にもなる訳か。 「修道院になるんなら少しは寄付しないとな。あそこじゃ俺が一番の出世株なんだ」 ならば、あの修道士は恩人なのだろう。その恩人をどうして避けるのか。 肝心な事こそ聞けないのは、ランツベルクも同様だった。 ランツベルクが遅い昼食を取りに大衆食堂に入ると、そこに再び修道士がいた。 大衆食堂と修道士というのはそぐわぬ取り合わせだが、聖職者といえども霞を食って生きている訳ではないのだから、仕方がないのだろう。 「貴方は――」 驚くべきことに修道士はランツベルクの顔を覚えていた。 「先程は失礼致しました。私はブラックロック主任警部の部下、ランツベルク部長刑事です」 「それはそれは、ヒースがお世話になって」 修道士は保護者然として言った。 修道士、修道女と聞くと、どうしてもうさんくさく思ってしまうのは、信仰心の薄い英国人故か。志は素晴らしいと思うものの。修道士の服は手縫いというのは本当だろうか、と埒もない事を考えながら、いえ、と短く答える。 「主任警部と待ち合わせですか、ブラザー?」 痩身の修道士はにこやかに頷いた。 向かいの席に何となく座ってしまったのは、やはり上司の過去に興味があったためかもしれない。ポーカーフェイスを気取るため、失礼と断って、煙草を手にする。 「どちらにあるのですか、その施設は」 「ホワイトチャペルです」 さらりと言われて驚く。 かつてのイースト・エンドの最貧地区。切り裂きジャックが娼婦を切り刻んでいた界隈である。 ニューヨークならハーレム、インドならカルカッタ。再開発により治安はやや改善したものの、家賃の安さから住み着く移民の多い雑多な界隈だ。 そう言えば、かの上司は妙にイーストエンドに詳しかった。美形でインテリ、なのに時折出るコックニー(べらんめえ調)が常々たまらないと思っていたが、ホワイトチャペル界隈で育ったと聞けば納得である。 「ご苦労が多そうですね」 実感を込めてランツベルクが言うと、修道士は事もなげに。 「苦労も、立派に成人した子供達の姿を見れば報われるというものです」 けっ、という上司の声が聞こえたような気がしたが、幻聴と流した。 「その、寄付などは、受付けて――」 ランツベルクが控えめに切り出すと修道士は身を乗り出した。 「私達を助けて下さるのですか!」 寄付を餌にいよいよ狙いを定めた話をしようとした時、戸を開けて入ってくる上司の姿が見えた。 ランツベルクはミルクティのカップを手に退散する事とした。 目指す教会はすぐに見付かった。 切り裂きジャックの時代からある、エレファントマンが通院していた事でも知られる王立ロンドン病院を過ぎ、サリーや香辛料を扱う雑多な店がひしめく通りを行き過ぎたところにその教会はあった。 プロテスタントに席巻される英国のカトリックさながらに、肩身の狭そうな様子で建っている。 重い樫の扉を押して中に入った。中には誰もいない。 最前列の信徒席に腰を掛ける。見上げると、そこにはプロテスタントにはないキリストの磔刑像があった。 同じ物を幼い頃の彼は見たのだろうか。 一体何を見て、何を思い、どう育ったのだろう。 こんなに近くにいても、彼はいつも遠いのだ。 「改宗するのか? 母上が泣くよ」 聞き覚えのある声に振り向くと、遠い筈のその人が教会の扉の前に立っていた。 「言ってくれれば届けたのに。それともひそかなカトリック趣味は俺に隠しておきたかったのかい? 改宗を強要されるとでも思ったんだろう」 ブラックロックは脚を組んで、ランツベルクの隣に腰掛けた。ここでお前に会うのは何だか妙な感じだな、と照れくさそうに笑い。 「俺ァ昔大真面目に殺人計画立てた事があるんだ」 「貴方が?」 「本気も本気、若干11歳にして、Yの悲劇のプロットなみの緻密な計画だ。今でも思うよ。ありゃ実際実行に移してもバレなかったかもしれないと」 凄腕と評判の主任警部が幼き日に立てた殺人計画。満更自惚れとも思えず、ランツベルクは固唾を呑んで上司の次の言葉を待った。 「で、その入念な計画を記したノートをこの教会の床下に隠してた。あそこ、羽目板が緩んでるんだ。絨毯の下だから見た目には判らない」 信徒席から振り向いて、赤い絨毯の敷かれた身廊の真ん中辺りを指差す。 「決行すると決めたその日、ノートを読み返して羽目板の下に戻した。そしたら大きな音がしてそこの」 次に上司が指差したのは、さっきまでランツベルクが見ていたキリストの磔刑像だった。 「キリストの磔刑像が落ちたんだ。目から涙を流してた」 ヴィース教会の鞭打たれるキリストでもあるまいに。きっと自分はそんな胡乱げな目つきで上司を見ていたに違いない。けれどそれを気にする様子もなく。 「そん時は本気でびびった。やるなって神の啓示だと思ったね。で、結局止めにしたんだ」 上司の手がスーツのポケットの辺りをまさぐる。何を探しているか気付いたランツベルクは、教会で煙草は拙いのでは? と嗜めた。 ああ、そうだった、と膝の上に手持ち無沙汰の手を置いて。 「だが、後になってよくよく考えたんだ。ひょっとしたら俺の殺人ノートを見つけて中身見た奴がいたんじゃねえかってな」 上司は結局煙草を取り出してしまった。しかしながらランツベルクが非難がましい目でこちらを見ているため、火が点けられない様子である。 「一人しかいないよなァ、そしたら」 火の点いていない煙草を唇の端に咥えたまま。 「何で俺を同室にしたんだ。ふふ、監視したいからに決まってるよ。呼び出されて説教されたって反抗的になるだけだよなァ。逆切れしててめェを殺して俺も死ぬとか言い出しそうだ。磔刑像に細工して落っことすって方が余程効果がある」 ブラックロックはベンチの背もたれに背を預けると穹窿を仰いだ。 「ただ……なあ。何で俺の殺人ノートが見付かっちまったのか。そいつが主任警部になった今でも判らないんだ」 かつん、上司は革靴の音を鳴らして立ち上がった。 「俺の育った施設を案内しようか。興味、あるだろう?」 そう言うと、ランツベルクの返事も聞かず入り口に向かって歩き出した。 慌てて後に続こうとしたランツベルクだったが、立ち上がった拍子に膝の上に置いていた小切手の入った封筒が落ちてしまった。信徒席の下にまで入り込んでしまったため、ベンチの下に潜り込まなければならなくなった。 ようやくのことで拾い上げ顔を上げると、そこにはくだんの修道士がいた。 「種明かしをするつもりだったのですが――」 残念そうな様子で扉の閉まった入り口を見ている。 「代わりに私が聞いてもよろしいですか?」 「昔、私はその羽目板の下にある物を隠していた事がありました。だから誰かがいつか同じ事を思いつくだろうと思っていたのです。手品の種明かしなどそんな物ですよ」 「ブラザー、貴方は一体何を隠されていたのですか」 修道士は穏やかに笑って言った。 「それは聞かぬが花でしょう」 ――本気だと思いましたよ。だから心を砕きました。 ――善と同様悪にも英雄がいます。あの子は頭が良い。今のような立場に就く代わり、天才的な殺人犯にもなれたかもしれなかった。だから考えて考えて考え抜きました、止めさせる良い方法を。 ――大人になった今でも忙しい合間を縫って会いに来てくれますよ。あの子は本当に真面目で優しい良い子なんです。 上司のように、けっ、と切って捨てたくなる自分がいた。 知ってますよ、そんな事は、貴方に言われなくても。 だからあの子あの子と……、得意げに連発するな! 「孤児院から大学なんて行けっこない。寝惚けるなって嘲った年長の連中に言ってやりてえよ。ざまァ見やがれ、今の俺は大学出の高級公務員だ。いずれ初のカトリックの警視総監になってやる」 どうやら興奮すると、コックニー(べらんめえ調)が顕著に出るらしいと気付いた。新しい小さな発見が心密かに嬉しい。 「そうしたら、きっとあのブラザーはお喜びになる事でしょうね。――よく会われていると聞きましたよ」 「ああ、会ってるよ。三ヶ月に一回位かな」 ブラックロックはけろりとして言った。 「それなのになぜ避けられたのですか?」 「不意打ちだと表情が作れない。あの人は甘えられるから苦手なんだ」 施設を見上げる猫の額ほどの中庭に二人並んで座っていた。気持ちの良い五月の風が芝生を揺らして行き過ぎていく。 「ランツベルク、皆の物を好きになるってのは辛いよ。修道士なんてその典型だろう。なのについ探しちまうんだ、まなざしやその言葉の端々から『特別』を。会う度に思い出す、子供の頃のあの苦い感情を――」 嫉妬とはあらゆる不幸の中で最も辛く、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。 フランスの才人、ラ・ロシュフコーの言葉が浮かんだ。 もっと早く会いたかった。出来るのならば、子供の頃に会いたかった。 そうしたら、そうしたらこんな言葉を黙って聞かされずに済んだのに……! 「Strawberry fields forever」 ブラックロックは頭の下で手を組んで芝生の上に横たわると、ビートルズの歌の一節を口ずさんだ。 『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』はジョン・レノンが子供の頃よく遊びに行った、救世軍の孤児院の思い出を元にしたと言われる歌であった。歌詞は難解で、メロディには哀愁がある。 「ジョン・レノンは良い歌を作るね。ここはリバプールでもなければ救世軍の施設でもない。俺にとっちゃここは地獄だと思えた一時もあった。だが何となくこの歌に込められた雰囲気は判るような気がするんだ」 ランツベルクはつられて小さく歌を口ずさんだ。 「――すべてが夢、囚われるものは何もない。ストロベリー・フィールズよ、永遠に……」 気付くと、ブラックロックは静かに寝息を立てていた。無防備なその寝顔をそっと覗き込む。 「寝ていらっしゃるのですか」 ランツベルクはあらん限りの勇気を振り絞ると、手を伸ばして、柔らかな褐色の髪に触れた。限りない愛しさを込めて。 ――私もそうですよ、主任警部。皆の物が好きなんです。 まなざしやその言葉の端々からいつも『特別』を探し続けている。 私と会う前の、貴方の過去の相手にさえも嫉妬する。 耳元に唇を近付けて囁いた。 「主任警部、私はいつも貴方を思って自分を慰めているんですよ」 「怖い、とは思いませんか?」 風が、芝生を揺らして行き過ぎる。 ストロベリーフィールドに吹く風と同じかもしれない、ランツベルクは思った。 |
( 了 ) |
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