主任警部の休暇





「フランクフルト?」
「ええ、例のシリアルキラーの後始末ですよ。ハードカースル主任警部の都合が付かないため、私が。ついでに父のところに顔出しをして来ようかと」
 上司の野性的な顔にちらりと興味の色が掠めたことに、ランツベルクは目敏く気付いた。深追いは禁物、だが――。
 ランツベルクはゆっくりと言った。
「そう言えば、貴方はご休暇は?」





 機内でドーバー海峡を渡ったことがないと告白されても、驚きを顔に出すことはしなかった。上司の特異な生い立ちを考えれば、無理からぬことと言えた。
 仕事は直ぐに終わり、予想よりも多くの時間を観光に費やすことが出来た。
 フランクフルト・アム・マイン。
 マイン河沿いのフランクフルトと呼ばれるその街は、ドイツの他の大都市と同様、第二次世界大戦の爆撃で完膚なきまでに叩きのめされた。けれど愚かしい戦争が終わった後、フランクフルトの市民は異常なまでの執念で、瓦礫の一つ一つを丹念に集めて積み重ね、旧市街を元のように復元させたのだ。
 旧市庁舎を、ユスティツィアの女神の噴水を見、騎士通りで食事を摂り、マイン河の岸辺を歩いた。よく知る街を、よく知っている相手に紹介するのは実に奇妙な感覚だった。
「これまで聞いたことなかったな。お前の両親は一体どこで知り合ったんだ」
「よくある話ですよ。ロンドンに来た父が母の舞台を見て感動し、楽屋まで押しかけて来た」
「ドラマティックじゃないか」
「さあ、どうでしょう。一時の熱に浮かされて結婚したは良いものの、言葉の通じぬ外国で好きな舞台に出ることも出来ず、結局母は英国に帰ってしまった。離婚こそしていませんが、あれはもう夫婦とは言えませんね」
 ランツベルクは足を止めると上司を見た。
「そう仰る貴方のご両親は?」
「こっちの方がよくある話だ。親父はシティに勤める銀行員だった。同じ職場のタイピストだった母と知り合い――、陳腐過ぎるな」
「馴れ初めなど誰しもそのようなものでしょう。貴方と私も、職場の上司と部下」
「一体何の馴れ初めだ?」
「貴方は相変わらず意地悪ですね」
 ランツベルクは微笑んで、そう切り返した。
 その後はレンタカーを借り受け、ドイツ語で休暇街道(ロマンティック街道)と呼ばれるドイツの観光名所を結ぶ街道をひた走った。
 ランツベルクの名を冠するその街はフランクフルト・アム・マインと同じく、正式名称をランツベルク・アム・レヒと言った。レヒ河沿いのランツベルクという意味である。
「それほど有名な街ではありませんよ、マニアックなガイドブックには載っている程度で。中世のその昔には塩の輸送路として栄えたそうです。ああ、街の広場が三角形なのが特徴と言えば特徴でしょうか」
 車は市門を抜けて市街に入った。石畳の路を走り、その特徴的な三角形の広場を通り過ぎ、丘の上にある城館へと向かう。
 参ったな、本当に城に住んでるのか」
 上司の冷やかすようなウルフホイッスルを聞いて、ランツベルクは思わず肩を竦めた。
「城なんてだだっ広くて、隙間風が凄いばかりですよ」
「俺がお前の立場ならたぶん同じ事を言うだろうな。あまりに立派なところに住んでるとかえって決まりが悪くなるもんだ」
 図星なだけに、ランツベルクは沈黙せざるを得なかった。
「一般公開もしてるんだろう」
「ええ、恐らく。私が子供の頃は月に一度でしたが、今はもう少し多いと思います。何せ税金が」
「高い?」
 ランツベルクは軽く頷くに留めた。
「売ってホテルにしようという話が何度も出ては立ち消えています。貴族と言えども実情はそんなものですよ」
 広い石階段の側に自動車を乗りつけると、車の気配に気付いたらしい執事が城館から飛び出して来た。
 執事が扉を開いて城館の中に招き入れると、そこには懐かしい父が居た。
 二年振りに会った父はさほど変わってはいなかった。三人で夕食を取り、会話を交わした。常は仕事の話しかしないブラックロックだが、ケンブリッジ卒のインテリだけあり、打てば響くような軽妙な受け答えをし、ランツベルクの父に気に入られたようだった。
 その夜、ランツベルクは客室のブラックロックを訪ねた。
「居心地はいかがですか」
「御陰さまで満喫させて貰ってるよ」
 足乗せ台に脚を載せ、上司は安楽椅子で寛いでいた。向かいのソファに腰を下ろし、ランツベルクはブラックロックにビールを勧めた。
「よくよく考えてみれば、こいつはヤードに入って初めての休暇かもしれない」
「私も珍しいと思いましたよ、仕事の虫の貴方が」
「ひょっとしたら俺は見てみたかったのかもしれないな、お前の育った所を」 
 ランツベルクは重ねて同じ言葉を口にした。
「お珍しい」
「そうか? お前だって見に来ただろう」
 ビールのグラスを傾けながら上司が言う。
 そう、確かに自分は見に行った。この人が生まれ育った施設を。けれど相手の生い立ちに興味があるのは自分だけだと思っていた。彼もまた自分に興味を持っていたと知り、ランツベルクは意外の念を禁じえなかった。
 ソファから立ち上がると、身を屈めて口付けを落とす。ブラックロックは片眉を跳ね上げて。
「いいのか?」
 自ら積極的に服を脱ぎながらランツベルクは答えた。
「むしろ燃えますよ。同じ屋根の下に父がいるかと思うと」
「悪い息子だ」
「母の子ですから」
 安楽椅子の上の相手に馬乗りになり、ネクタイを解いた。結び目を解いたところで引き、再び口付けた。上司の形の良い唇が柔らかく開かれ、熱い舌が口内に滑り込んで来る。きつく吸い上げられ、ランツベルクはうっとりと瞳を閉ざした。
 シャツのボタンが外され、剥き出しとなった素肌に直接触れられた。
「ん……っ……」
 外気に晒され尖った頂きを弄られる。もっと弄って欲しくて、無意識に胸を突き出すような姿勢を取ってしまう。親指と人差し指とで挟まれ擦られると、堪らず脚間に熱が集まる。上司は喉奥で笑ったようだった。
「もう勃ってるな」
 情欲に掠れたようなその声がランツベルクを煽る。
 二人、もつれるようにしてベッドに転がり込んだ。まるで盛りのついた獣のように互いの衣服を剥ぎ取り、生まれたままの姿となった。
 脚を大きく開かされ、脚間に顔を埋められた。先程揶揄されたようにすっかり勃ち上がり先走りの液を滲ませる屹立を含まれ、唇の間に挟まれて舐め回される。
「……っぁ……」
 必死でシーツを握り締め、嬌声を押し殺した。けれどもはしたなく腰を浮かせ、屹立を押しつけてしまうのを止めることが出来ない。
 欲しかった。全身で彼を欲していた。
「熱は一時かな」
 ようやくのことで唇が離れた。ランツベルクは肩で大きく息を付いた。
「仰いましたね、好きだ、愛してる、一生一緒に。そうして誓った言葉を人はすぐに裏切ると」
 ランツベルクは上司の引き締まった腹筋に手を置くと、脚を開いて跨った。そのままゆっくりと腰を落としていく。
「ん……っ」
 先走りの液の力を借り、張った部分だけを浅く含ませた。もっと深い場所に欲しくて腰を入れると、過ぎる快楽に鳥肌が立つ。
 話さなければ良かったのだろうか。失敗に終わった自分の両親の結婚のことを。人に裏切られることを何よりも恐れるこの男に。
「ふ……、熱い、ですね」
 下方から伸ばされた手が再び頂きに触れてくる。摘み上げられて引かれると、唇の端から唾液が伝って流れ落ちた。
「敏感だな」
「っ! 誰、の…せい…だと…」
 言葉にするのも面映いが、自分の初めてはこの男に捧げた。異性の経験はある。だが、同性はこの男だけ。過去にここに触れたのは、これから触れてくるのも、恐らくはこの男だけだろう。
 爪先で弾かれ、全身が悦びに震えた。今度は人差し指と中指との間で頂きを縊り出され、尖りきったそれを指の腹で撫でられる。
 手慣れた愛撫、それを欲していたのにも関わらず、胸に嫉妬の炎が点る。一体どこでこの行為を覚えたのだろう。少年時代を過ごした施設、それとも大学、或いは自分と出会う前の警察か。相手は男か女か。決まった相手はいたのか、いなかったのか。
「どうした?」
 低い声で囁かれて我に返った。
「心、ここに在らずだな」
 こらしめるように頂きを摘まれ、痺れるような刺激が腰に響いた。
「気になりますか」
「多少はな」
 先端を含まされたまま、身体を返された。
「良くないんじゃないかと心配になる」
「貴方が?」
 尋ねたその瞬間、腰骨が軋むほどに強く掴まれ、熱いそれが最奥まで捻じ込まれた。
「ああッ!」
 もはや声を殺すことは不可能だった。リズミカルな動きで力強く、激しく突かれ、突かれるその度に到底自分の物とは思えない、鼻にかかった甘ったるい嬌声が喉から迸る。
「っ……あ、いい、ぁ……」
 突かれれば頭が快楽に真っ白になり、引かれれば内壁が名残惜しげにきゅっと締まる。抱かれている時しか自分の物でない男。自分の物と思えるこの時間を少しでも長引かせたかった。だが――。
 がむしゃらに貫かれ、最奥を抉られ、ランツベルクは達した。
「あッ、は……っ……」
 ランツベルクの上に覆い被さるようにしてブラックロックもまた射精した。射精は長く続き、白濁の量もまた多かった。飲みきれなかった精液が内腿を伝ってどろりと流れ落ちる。
「まだだ、まだ終わらない」
 まるで瘧にかかったように全身を震わせるランツベルクの腕を引いて起こし、ブラックロックは言った。
「今夜はお前が嫌と言うほど抱いてやる」





 朝食の後、姿の見えなくなった上司を探していたランツベルクは、物見の塔で目指すその相手を見つけ出した。
「凄いな、下界が一望だ」
 物見の塔からは三角形の広場を持つランツベルクの街が見下ろせた。
「まるで中世の騎士にでもなった気分だ」
「ハインリヒ獅子公の時代からある城ですからね」
「帰る前に聖十字教会に寄って行きましょうか。バロック後期の素敵な教会です」
 ブラックロックは首を振った。寄らないという意味なのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
「まるで王様だな」
「前にもお話ししたと思いますが、島国の英国とは違い――」
 ドイツに貴族は多い、と続けようとしたところ、上司が手を挙げてそれを制した。
「俺は人は生まれながらに平等だ、なんて言わない。どう御託を並べようともお前は貴族の子息で、俺は銀行員の孤児だ。住む世界が違う」
 これ以上異を唱えるのも大人気ない気がして、ランツベルクはあっさりと認めた。
「そうですね、まったく違いますね。それを否定はいたしません」
「地主の娘キャシーと孤児のヒースクリフ、いやそれ以上の格差だな」
「それでも――。いえ、それだからこそ惹かれるのかもしれません」
 ランツベルクは昂然と顔を上げ、真っ直ぐに上司を見た。
「私は恐らく貴方が何であろうとも好きになった。貴族であろうとも貧民であろうとも、年上でも年下でも、たとえ敵であったとしても。私はきっと貴方と運命的な恋に落ちたことでしょう」
 誰も手に入れることの出来なかったこの人の心を、その愛を手に入れかけていると思っていた。そしてその理由もまた判っていた。
 全てを預けること。たった一つしかない命綱をこの人に預けること。
 決して裏切らず、脇目も振らず、この人だけを見、この人だけを愛し続けること。
「……」
 ブラックロックは絶句し、そして言った。
「俺は」
 そんなご大層な存在ではないと言いたかったのだろうか。けれどランツベルクは皆まで言わせなかった。
「貴方にはそれだけの価値がある」
 愛してばかり、そう思った一時もあった。だが、今のランツベルクは知っていた。愛することより愛されることの方がずっと怖い。そしてランツベルクは自分と同じ資質を相手の内にも見出していた。
「私が死んだら貴方は私の墓を暴くのでしょうね」
「凄い自信だな」
「なぜなら私がそうだからです。私は貴方が死んだら貴方の墓を暴いて貴方の身体を持ち去ります。貴方の大好きな教会には渡さない。糸杉の下で安らかになんか眠らせない」
 近付いていき、首に腕を回して抱き寄せた。
「見られるぞ」
「何をしているかまでは判りませんよ」
 乾いた唇に唇を触れさせ、啄ばむようなキスをした。
「いかがでしたか、ご休暇は」
「……楽しかった。子供の頃、家族でバースに旅行に行ったことがあった。それと同じ位」
「それは良かった」
「こうなりたくないからこそ距離を置いていたのに、お前はやすやすと俺の中に入ってくるな」
「やすやす、とは到底思えませんが。貴方はガードが固い」
 ブラックロックはランツベルクの肩を押して、身体を引き離した。
「固いのは怖さの裏返しだろう。俺は自分の心を他人に預けるのが怖くて仕方がなかった」
 なかった。
 過去形なのだと直ぐに気付いた。
「愛した分だけ愛されないのが怖かった。一人、取り残されるのが怖かった。お前に指摘された通り、狡い、弱い男だな」
 ひらりと手を振って、ブラックロックはランツベルクに背を向けた。
「そう、俺は恋人が死んだらその墓を暴くような男だ。せいぜい気を付けろ。俺は死体盗掘の罪状で、警察を辞めさせられたくはないからな」 
 そう言い残し、ブラックロックは石造りの階段を下りていった。
 徐々に遠ざかる靴音に耳を傾けながら、ランツベルクは笑った。
 そして思った。



――なんて不器用な、あの人らしい告白だろう、と。



( 了 )
Novel