冬物語 |
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「大帝の最大の遺産だね」 皇太子はそう言うと、リーンハルトに眩しいような笑顔を向けた。何とはなしに気恥ずかしくなったリーンハルトは僅かに頷きを返しただけで、抜き手を切って泳ぎだした。 水は――温かかった。 さもあろう、ここはカルロステルメ(カールの浴場) かの大帝がローマの遺跡を利用して造った温泉プールだった。 ローマの技術は失われた遺産だ。残された物を利用することは出来ても、復元することも発展させることも叶わない。 石で穹窿(ヴォールド)を造ることは出来ず、プールの天井は木造りで、そこだけが見る者の目にひどくちぐはぐに映った。 ひとしきり泳ぐと、リーンハルトはプールの端に背を預け、精緻な彫刻が施されたローマ時代の柱石を眺めた。 「知っているかい。大帝の趣味は水泳だったと」 天井は高く、皇太子の声はよく響いた。 「嫌がる家臣を引き連れてはここでよく泳いだそうだ」 リーンハルトはそこで初めて顔を上げた。皇太子の言葉に含みを感じたのだ。 嫌がってなど……、そう伝えようとしたところ、皇太子に機先を制される。 「ああ、おかしい。君はすぐに顔に出る。嫌がってなどいないって? ありがとう。もっとも――」 明かり取りの窓から差した陽光が、束の間、皇太子の黄金の髪を後光のように縁取る。 「僕は君をただの家臣とは思っていないけれどね」 朝の身支度をするうち、夢が切れ切れによみがえってきた。 あれはカルロステルメの夢だった。皇太子が傍にいて、リーンハルトにしきりに話しかけていた。 そう、あれは、あの夢は実際にあったことだった。皇太子からの勿体ないような言葉。けれどリーンハルトは何も答えることが出来なかった……。 「どうした?」 常よりも口数の少ないリーンハルトに気付いたか、カッツェンエルンボーゲン伯が尋ねた。リーンハルトの差し向かいに食卓に着くその男は、皇太子とは対照的に、闇よりもなお暗い漆黒の髪を持っていた。 「夢を見たのだ」 冬の最中であれば、領主と言えども食卓は貧しい。リーンハルトは乾燥肉を取りながら。 「宮廷での夢だ。カール大帝の温泉で、隣には皇太子がいた」 「聞いたことがあるな。帝都アーヘンにはかの大帝が造らせたという巨大な温泉浴場があると」 「懐かしく思い出された。窓から差した光が皇子の髪をまるで後光のように縁取っていた……」 遠き日の追憶がリーンハルトの唇に小さな笑みを浮かべさせる。 「波打つ黄金の髪は皇帝家の男子の象徴と聞くな。成る程、皇太子も金髪であったか」 カッツェンエルンボーゲン伯は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「そう言えば、飽きもせず文が届くぞ」 「皇子からか?」 「神聖ローマ帝国の威信にかけて君を取り戻す、とね」 リーンハルトは唇を噛んだ。表向きにはカッツェンエルンボーゲン伯の人質とされているリーンハルトだが、実際は自分の意志でここに留まっている。けれど皇太子はそのことを知らないのだ。 「大帝の世ならいざ知らず、今では神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない国だ。言うに事欠き、そんな国の威信にかけるとは」 「ディートリヒ」 リーンハルトは嗜めるような響きを込めて伯の名を呼んだ。カッツェンエルンボーゲン伯は黙って肩を竦めた。 「こうも寒いと骨身に染みるな。この城の生活に不満はないが、たまさかここにテルメがあれば良いと思う時がある」 カッツェンエルンボーゲンは答えず、葡萄酒の入った杯を脇へと押しやると。 「さて、料理番が新鮮な肉が欲しいと不平を漏らしていた。朝食を終えたら狩りに出掛けようではないか」 「確かに」 リーンハルトは食卓を顧(かえり)みると頷いた。 「こう毎日毎日、燻製肉と塩漬け魚ばかりではな」 狩りは上首尾に終わった。 丘で仕留めた鹿は大きく、城内にいるすべての人間にまで行き渡った。皮を剥ぎ、内臓を抜いた鹿を大きな火の上で炙るのは、まるで祭りのような楽しさがあった。 饗宴はいつまでも続き、カッツェンエルンボーゲンとリーンハルトが居館にあるそれぞれの私室に引き上げたのは、終課の鐘が鳴る頃合だった。 互いの私室は隠し通路によって繋がっている。ほどなくして環のノッカーが叩かれ、リーンハルトはカッツェンエルンボーゲンを迎えた。 幾度肌を合わせようとも、挿れられる瞬間のその感触だけはどうしても慣れることが出来なかった。秘所にカッツェンエルンボーゲンのそれが宛がわれると、どうしても身体が逃げを打ってしまう。強引に挿れられると鳥肌立った。 けれど、それはほんの一瞬のこと。すぐにめくるめくような快楽に飲まれてしまう。 私室は居館にあり、扉には固く閂が下ろされている。城の住人に嬌声を聞かれる恐れがないことは承知していたが、リーンハルトはやはり声を殺さずにはいられない。するとカッツェンエルンボーゲンはその美しい唇に揶揄するような笑みを浮かべ、あろうことか律動を激しくするのだった。 「ば、っ、馬、……鹿」 リーンハルトの詰りもカッツェンエルンボーゲンにとっては睦言に等しいのか、涼しい顔で腰を動かし続ける。互いの粘膜をかき混ぜるようなその動きがリーンハルトを乱した。 「ん……、あ…ぁっ……」 身体を抱え起こされ、再び深く突かれる。 「は、あああっ!」 どうしても伯の腰に回した脚が絡みつくような動きをしてしまう。 「ディートリヒ」 「何だ」 言いたかった。 欲しい。もっと奥に。 その固いものを。 羞恥に白い肌を赤く染め、小刻みに身体を震わせるリーンハルトを見るや、伯はすぐにリーンハルトの望み通りのものをくれた。 「あ、あああっ…ああ…っ」 身体の芯まで凍て付かせるような寒さの中、しかし二人は汗をしたたらせながら交わった。 圧倒的な質量を持つそれが押し込まれ、狭い内壁を擦られると堪らなかった。思わずカッツェンエルンボーゲンの背に回した手に力が篭る。口の端からは唾液が溢れ、目尻から涙が零れた。 「ディー…! ディー! ああ、っ……ああ…ッ」 その時しか口にしない愛称を連呼しながら、リーンハルトは達した。 冬至は過ぎたが、北方の冬はまだ始まったばかり。夜は長く、春は遠い先のこと。 けれど寄り添って眠る寝台の上はこの上なく暖かった。 リーンハルトの意向を汲んだ訳ではないだろうが、以前は塔にあふれんばかりだった人質は整理され、怨嗟の声が城に木霊することはなくなった。 「大物だけを残したのだと思われているのだろうな」 そう言ってカッツェンエルンボーゲンは笑ったが、高額に過ぎる通行税は変わらず、伯の懐は豊かで、騎士たちの結束は固かった。 周辺諸邦や商人たちの非難の声は絶えることがなかったが、難攻不落のラインフェルス城の名に守られ、カッツェンエルンボーゲンとリーンハルトは概ね平穏な日々を送っていた。 翌朝大広間に行くと、いつもいる筈のカッツェンエルンボーゲンの姿がなかった。不思議に思いながら一人で朝食を済ませると中庭へ降りた。 「ジーク」 中庭にはリーンハルトが懇意にしている騎士の姿があった。 「伯を知らぬか。朝から姿が見えないのだが」 予想に反し、ジークは怪訝そうな表情を浮かべた。 「ご存知ないのですか。今朝早くにお出かけになられましたが」 「単騎で?」 「さようで」 昔の悪癖が出たのだろうか。 ――カッツェンエルンボーゲンのご領主は御自ら獲物を物色する。 そう噂されていたことをリーンハルトは知っていた。そしてその噂が真実であった事を我が身を持って知ることとなった。 リーンハルトは眉をひそめた。 カッツェンエルンボーゲンが城に戻ってきたのは、その夜遅くのことであった。一体どこを彷徨っていたのか。リーンハルトはさっそく夕食の席で詰問した。 「また昔の悪癖が出たのではないか」 「悪癖? 何のことだ」 答えながらも、カッツェンエルンボーゲンはどこか上の空の様子だった。 「しらばっくれるな。また塔を人質で埋める気か」 「馬鹿な」 「では、何をしていた」 カッツェンエルンボーゲンは軽く首を振っただけ、何も答えなかった。 面白くなくなったリーンハルトは黙って昨日仕留めた鹿の肝臓を口に運んだ。 カッツェンエルンボーゲンの奇妙な行動はその後も続いた。伯は夜明けから日没まで外に出たきり、城には滅多にいなくなった。 すぐに城の住人たちの知るところとなり、家令からガチョウ番の少女に至るまで寄ると触るとその話でもちきりとなった。 「一体何をされておられるのか」 ジークは嘆息した。 「こっそり殿の後を尾けたのですが、すぐに気付かれ、きつく窘められました」 「騎士たちにも内緒にしているのか」 リーンハルトはジークを私室に招くと、自城から取り寄せた極上の葡萄酒を振舞った。上等な酒はジークの口を滑らかにしたに違いなかった。ジークは身を乗り出すと。 「聞いた話なのですが」 ジークには城下に懇意にしている娘がいるのだという。その娘から聞いた話なのだと前置きしながら。 「殿は密かに街の外から大工を召集しているのだそうです」 「大工?」 「妙だとは思いませんか。城造り、城壁造りならば石工職人の筈」 「屋敷か」 「そしてなぜ街の外から大工を借り集めるのか」 ジークは声を潜めて言った。 「女、ではないかと」 リーンハルトは瞳を大きく見開いた。 ジークの言う通り、城下に囲いたくなる娘が出来たのだと考えるのが妥当だろう。城に迎え入れる訳にはいかぬ。ならば――、そんなところか。 しかしジークはむしろ喜んでいるようだった。 「喜ばしいことです。これまで殿は女嫌いなのだとばかり思っておりました。これを潮に妃も娶って下さる気になられるとよいのですが」 「そうだな」 リーンハルトはそう答えるのがやっとだった。 その晩、リーンハルトは互いの私室を繋ぐ秘密の扉に閂を下ろした。 焼き餅ではないと自分に言い聞かせる。 リーンハルトには心当たりがあった。先日の朝食の席での会話。皇子の話が伯の気に障ったのだろう。あの会話を交わしてから、まだ幾らも経っていない。それ以前から気になる娘がいたのだろう。するとあの会話が決定打となったのか。 義理で抱かれても嬉しくない。抱く立場なら尚更だろう。 夜半過ぎ、ノッカーに手が掛かる音がした。一、二度強く引かれる音がし、やがて閂が下ろされていることに気付いたか、ノッカーが控えめに叩かれる。 リーンハルトは寝台の上で身構えたが、それきりノッカーの音がすることはなく、立ち去る足音だけが聞こえた。リーンハルトは安堵からか失望からか、自分でもわからぬままに息を付いた。 翌朝、いつものように二人差し向かいで朝食を取った。伯は昨夜のことについて何も言及しなかった。いつも通りの美しい、けれど澄ました顔で、朝食を食べ続けた。 ――逃げるか。 騎士道などくそくらえとばかり、リーンハルトは真剣に策を練り始めた。逃げる、と言っても、今では鎖で繋がれている訳でも、塔に幽閉されているわけでもない。その気になれば明日でも、今でも逃げられるのだ。 囲いたいほど夢中な女が出来たのなら、もはや自分は邪魔者だろう。自分がいなくなれば、伯はその娘を城に迎え入れることが出来る。 互いに想いあっているのだとばかり思っていた。それは錯覚だったのかもしれない。想っていたのは自分だけ。自分は伯の境遇に同情し、可哀想だと、側にいてあげようと思ってしまった。 兄たちから受けた虐待、無残な形で母親を失ったことによる過去の傷、それが伯を女嫌いにさせたというのなら、もしもその傷が癒えたなら――。 リーンハルトは自分の胸に手を当てた。 女のように美しい顔。そう言われ続け、皇太子との仲を勘繰られたこともあった。だが、やはり自分は男。胸は平らで、身体にも女のような丸みはない。 伯が女の柔らかな胸を求めたくなるのも仕方のないことかもしれないのだ。 リーンハルトは伯への未練は無理にも断ち切り、秘密裏に荷物を纏めはじめた。そうなると現金なことに、懇意になった騎士たちとの友情だけが惜しまれた。 夕刻、大広間を通りかかると、暖炉の前にカッツェンエルンボーゲンがいた。 「リーンハルト」 素通りしようとしたが、呼び止められた。 「何だ」 素っ気無く答える。 「つれないな」 周囲に人がいないかとぎょっとする。誰もいないことを確かめたものの、肯定するわけにも行かず、空惚ける。 「何のことだ」 カッツェンエルンボーゲンは大広間の入り口まで歩いてくると、リーンハルトを石造りの壁に追い詰めた。時に魔物じみた、と形容されることもある琥珀色の瞳がリーンハルトを真っ直ぐに射抜く。 「夫を寝室から締め出すとは」 リーンハルトは臆することなくカッツェンエルンボーゲンを睨め付けた。 「心当たりがあるだろう」 「貴公を放っておいているからか」 わかりきった答えを聞き、リーンハルトは憤然と胸を逸らした。あまり表情を変えることのない伯の顔に微かに焦燥の色に似たものが滲む。 「――謝肉祭まで待て」 「待って。どうなるというのだ」 「それまでに蹴りをつける」 清算をするとでも言うつもりか。 伯の態度はこれまでと変わらず、こうして一日中街に入り浸っているというのに。 リーンハルトは答えず、カッツェンエルンボーゲンの腕から抜けだした。 リーンハルトには城を去る前にやらなければいけないことがあった。恩人に礼を言いに行きたかったのである。 騎士道などくそくらえ、と嘯きながらも、恩人に一言もなく去るわけにはいかない。やはり自分はどうしようもないほど騎士なのだろう。 リーンハルトの恩人であるその老人はイザークと言い、カッツェンエルンボーゲンの祖父であった。自分が城に居る限り、再会する機会はあるだろうと思っていたのだが、リーンハルトが人質という名の客人となって早半年、老人と顔を合わせることはついぞなかった。 固く口止めをした上でジークに老人の居場所を聞き出すと、リーンハルトは単身馬を駆って、街へ向かった。 川港に面した商館は巨大で壮麗、イザークの財力の程が伺えた。 「わざわざご足労を頂くとは」 イザークは寝台から半身を起こし、リーンハルトを迎えた。 「このままで失礼を致します。夏以来、伏せっておりました。――もう年なのでございましょうな」 だから城で見かけなかったのかと得心がいった。 「すまぬ。もっと早く礼に来るべきであった」 「礼など。すべてはご領主の強欲故に起こったこと」 近頃はだいぶ体調が良いのだと断りながら、イザークは過去を振り返った。 「貴方様が身に纏っていたあのドレスはレベッカ、娘が気に入ってよく着ていたものでございます。城門で貴方様と行き会った時、娘が墓から蘇って来たのかと驚きました。咄嗟に手首を掴み、顔を確かめると貴方様で」 よくぞ化けられたものですな、と軽口を叩くイザークの言葉にはどこかしんみりしたものがあった。 「ここに来られたということは、ご存知なのでございましょう。私とディートリヒの関係を」 領主の名を呼び捨てにする不敬。その理由を知っているだろうとジークは言った。リーンハルトは頷いた。 「ディートリヒの母はあなたの娘御だと」 「いかにも」 幸薄かったというカッツェンエルンボーゲンの母。好奇心からではなく、伯のことをもっと知りたいという思いが、リーンハルトの口を開かせた。 「私はシュタインベルクの女伯爵からディートリヒの生い立ちを聞いた。そして知ったのだ、ディートリヒの強欲には理由があることを」 「あれは孤独な男です」 喉の奥から絞り出すようにしてイザークは言った。 「そしてあれの母には可哀想なことをしました。前の領主に見初められ、城に召し上げられ、異教徒の子を産まされ。せめて飽きたのなら返してくだされば良かったのに。飽きられた犬のように打ち捨てられ、見殺しにされた……」 イザークは寝室の窓を振り仰ぎ。 「こうして城を見上げられるほど近くにいても、私は何もすることが出来なかった。巨万の富も財も何になりましょう。私はこの世にたった一人の娘さえも助けられなかった。悔やんでも悔やみきれません。もしも娘があの城で死に掛けていることを知っていれば、私は前の領主と刺し違えても、娘を助けにいったに違いないのに」 老人は一日に何度も、城を見上げる度に娘を思い、また願ったのだろう。この世にただ一人の娘を、その娘の境遇を。娘はあの城で幸せに暮らしている。否、そうであって欲しいと願い続けた。しかしその思いは無残にも打ち砕かれたのだ。 「私は貴方様を見た時思ったのです。ディートリヒは前の領主の血を引く、同じ獣性を持つ男なのではないかと。だから」 「だから」 リーンハルトはイザークの言葉の続きを口にした。 「刺し違えても私を助けようとしたのだな」 リーンハルトにはイザークの危惧が手に取るようにわかった。亡き娘の忘れ形見、その存在に娘を殺したも同然の前領主の面影を見ることは耐え難いに違いない。リーンハルトは慎重に言葉を選んだ。 「イザーク殿、私は自分の意志で戻った。人質となった当初はいざ知らず、今ではディートリヒに友愛にも似た気持ちを抱いている」 不思議でならなかった。伯の元から逃げ出す算段をしながら、どうして自分は伯の肩を持つような発言をしているのだろう。 どうしても自覚せざるを得なかった。今尚、断ちがたい伯への未練を、その想いを。 「もしも憂いておられるのならば、私が断言しよう。ディートリヒは前のご領主とは違う、と」 イザークは心の底から安堵した様子だった。 「私はあれを引き取るべきだったのかもしれません。だが、あれはキリスト教徒として生まれ育っていた。金曜の夜に蝋燭を点し、トーラーを読むことを強要することが出来ましょうか。我が民族は国がない故に信仰によって固く結び付いております。私もまた、異教徒を我が家の一員として迎え入れることはどうしても出来なかった」 イザークの言葉はもっともだった。イザークにとってリーンハルトは異教徒かも知れぬが、リーンハルトにとってはイザークこそが異教徒。 リーンハルトとて、まったきキリスト教徒である以上、心の奥底に潜むユダヤ教徒への偏見を完全に払拭することは出来なかった。それは恐らくカッツェンエルンボーゲンも同じだろう。信仰という名の壁は、唯一の血縁さえも、カッツェンエルンボーゲンから隔てるのだ。 ――貴様は可哀想な男だ。 昔、カッツェンエルンボーゲンに向けてリーンハルトが言ったその言葉が耳に蘇った。 「ディートリヒに貴方様のような友が出来て、本当に良かった」 「いや」 リーンハルトはイザークの言葉を否定するように首を振り。 「伯はもう私の友愛など必要とはしていないだろう。どうやら意中の娘が城下にいるようだ」 「城下に」 イザークは目を丸くした。すると噂は城下にはまだ広がっていないのだろうか。 「今、その娘のための屋敷を普請していると聞いている」 「ああ」 イザークはようやく合点がいった様子で相槌を打った。 「それはハンナのことでございましょう」 やはり――。 リーンハルトは内心の動揺を悟られまいと瞳を伏せた。 愛馬の轡を取り、残雪を踏みしめながら、リーンハルトは丘に上がった。丘からは蛇行するラインの流れが一望の元に望める。河原近く、丁度森の切れる辺りで丸太を運ぶ大工の姿があった。大工が向かう先には半分ほど出来上がった切妻造りの丸太小屋がある。 あそこか。 リーンハルトは白い息を吐くと、元来た道を降り始めた。 建物の前には見慣れた長身が、そしてそれに寄り添う女の姿があった。 「いつ出来上がるのだ」 声を掛けると、カッツェンエルンボーゲンがゆっくりと振り返った。リーンハルトを認めるや、傍らの女が急ぎ膝を折る。 「言ったであろう」 二人の間には暗黙の了解があるのか。カッツェンエルンボーゲンは女を一瞥すると、再びリーンハルトに視線を戻した。 「謝肉祭まで待てと」 カッツェンエルンボーゲンは冷然と。 「丁度良い。ハンナ、ヴェルフの伯爵殿に直接お伺いするが良い」 カッツェンエルンボーゲンから引導を渡されたハンナは再び恭しく膝を折ると、リーンハルトに尋ねた。 「蒸気浴は必要でございますか」 ハンナは隣街から嫁いできた、浴場主(バーデマイスター)の娘だった。その出自と持つ人脈に目を付けたカッツェンエルンボーゲンが依頼し、公衆浴場造りの経験のある大工を集めさせたのだという。 城下に初めて造られた公衆浴場には温浴だけでなく蒸気浴も取り入れられた。扉近くに山積みされた石を熱し、それに水を掛け、蒸気を作る。白樺の枝で身体を叩いて血行を良くし、蒸気で発汗を促すのだという。 公衆浴場の初めての客は領主とその客人、すなわちカッツェンエルンボーゲンとリーンハルトだった。 出来上がったばかりの浴場はそこかしこから木の良い香りがした。大きな桶にはなみなみと熱い湯を満たされている。ゆっくりと爪先から湯に入り、まずは腰まで浸かった。身体の芯まで凍て付かせるような北方の冬。熱い湯は何より身体を暖めてくれるものだった。 「どうだ」 「なかなかだな」 肩まで浸かると、あまりの心地良さに期せずして声が漏れる。 カッツェンエルンボーゲンはそんなリーンハルトを見て喉奥で笑うと、続いて湯に浸かった。 「お預けの礼はしてくれるのであろうな」 リーンハルトを背後から包みこむようにして抱きながら、カッツェンエルンボーゲンは耳元で囁いた。 互いを求める気持ちはリーンハルトも同じだった。臀部に熱い物が当たっている。 「ディートリヒ」 「何だ」 呟いたものの、何も言えず、リーンハルトは羞恥から顔を背けた。リーンハルトの本音は言わずとも知れていたのだろう。カッツェンエルンボーゲンはリーンハルトを浴槽の縁に座らせると、脚を大きく開かせた。 脚間のそれは伯の温かな口内に含まれると直ぐに大きく勃ち上がっていく。 「あッ…ああ…ゃ…ッ……」 カッツェンエルンボーゲンの髪を掴み、口淫を止めさせようと試みるが、それは徒労に終わった。 「ん……っ、ああ…ああッ…」 顎が上がり、高い天井に嬌声が響く。 リーンハルトがカッツェンエルンボーゲンの虜囚だった時はいざ知らず、二人が昼間から交わるのは久しぶりのことだった。交わるのは常に夜の闇の中、暖炉の明かりだけが頼りの寝台の上。リーンハルトがどんなに乱れようとも、その痴態をカッツェンエルンボーゲンに見られることはなかった。なのに――。 リーンハルトは冬の淡い陽光が天窓から差し込む浴場で、生まれたままの姿を晒していた。 身体が熱く火照るのは、湯の熱さだけが理由ではなかっただろう。 リーンハルトが達する寸前で、カッツェンエルンボーゲンは口を離した。中途半端な形で放り出され、息を荒げるリーンハルトを抱き抱え、カッツェンエルンボーゲンは湯から上がった。 床に手を付かされ、獣の形で繋がる。 「う……っ…」 久方ぶりに味わう伯のそれは固く、心臓の鼓動に合わせて熱く脈打っていた。 「貴公を抱けず辛かったぞ」 「誤解、ッ…、させる、……から…だ」 「噂となっているとは夢にも思わなかった。あろうことか、私が女を囲うとは」 伯が腰を打ち付ける度に卑猥な肉音が浴場に響く。リーンハルトは唇を噛み締め、押し寄せては引いていく快楽の波に必死で耐えていた。 「なぜ我に聞かぬ」 「聞ける、……ものか!」 ずんと奥まで一息に突かれて、リーンハルトは背を弓なりに反らせた。 「ゃ、あッ…ああっ……ディー! もう、…ッ…もう……っ」 達きたいと訴えるリーンハルトを無視し、カッツェンエルンボーゲンは無常にも屹立を引き抜いた。求めていたそれを与えられず、内壁が引き止めるように蠕動する。 「早く」 カッツェンエルンボーゲンはリーンハルトの身体を表に返すと、脚を肩の上に乗せた。それがより深く挿る体位だと知っていたリーンハルトは怯えてずり下がった。しかしカッツェンエルンボーゲンは逃げを許さず、これ以上はないほど膨れ上がった自身で容赦なくリーンハルトを穿った。 「ひッ、あ、ああっ」 頭の中が真っ白になり、それと同時に視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥った。それは、それほどまでに圧倒的な快楽だった。 「早くと急くあまり、貴公の気持ちを推し量ることが出来なかった」 「な……、く…ぅ……っ…」 何故そんなに急いたのだ、と聞きたかった。しかし問う言葉はすぐに嬌声にすり替わってしまう。 「わからぬか」 抽挿を緩めることなくカッツェンエルンボーゲンは言った。 「私とて――」 カッツェンエルンボーゲンは やにわに腰を突き上げた。 「っ…ディー! ディー! …ディー! あ、ああ、ッ…あああッ」 際限なく名を呼びながら、腰を上げ、足先を突っ張らせ、ついにリーンハルトは逐情した。泣きながら吐精するリーンハルト。その表情に煽られたか、カッツェンエルンボーゲンもまた最奥に精を放った。熱い白濁が染み入るように内壁に広がっていった。 「妬くこともあるのだ」 「ディートリヒステルメだと」 リーンハルトは呟き、上目遣いにカッツェンエルンボーゲンを見た。 存分に湯に浸かり、蒸気浴まで堪能した後、二人は差し向かいで葡萄酒の入った角杯を傾けていた。入浴しながら飲食を楽しむのは、領主にだけ許された特権だった。 「良い名であろう。むろん領民にも開放するつもりでいるのだ。だが、風紀を乱すと教会に小煩く言われたくないのでな。混浴は禁止とし、男女は曜日で分けよう」 大帝の名を冠したテルメに対抗し、自分の名を冠したテルメを建ててしまうとは、何たる傲慢か。 「並みの王冠が威張っていると揶揄されるゆえんだな」 並みの王冠とは諸侯を意味する。カッツェンエルンボーゲンは片眉を上げ。 「私はこの国の王なのだから、王妃の願いは叶えたいと思った。ただ、それだけのことだ」 「な……」 「王を寝台から追い出すような苛烈な妃だがな」 「あ、あれは」 思わず声が上擦る。カッツェンエルンボーゲンは唇を歪めて笑った。 「わかっている。出来上がるまで黙っていて驚かせるつもりでいたのだが」 カッツェンエルンボーゲンはリーハルトの頤に手を掛けて上向かせると、おもむろに口付けた。久しぶりに触れる伯の唇だった。 「ん……っ…ッ…」 顔を背けようとするが、伯がそれを許さない。まるで罰を受けるかのように、リーンハルトは舌を吸われ、注がれる唾液を飲まされる。縋るものを求めて伸ばされたリーンハルトの手にカッツェンエルンボーゲンの手が掛かる。互いの指を絡めて繋げた。 カッツェンエルンボーゲンは名残りの銀糸を引いて唇を離すと。 「まさか空閨をかこつことになろうとは」 リーンハルトは頬を赤らめ、呟いた。 「――馬鹿」 何もかも凍て付かせるような北方の冬。 けれどこうして傍らにカッツェンエルンボーゲンがいれば、長い冬も決して寒くはないだろうと、リーンハルトは思った。 |
( 了 ) |
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