狼と白ハヤブサ





「誰も私に言い寄ってこないのよ」
 コージモ親方の家で行き逢ったエヴァンゼリンは開口一番、泣きそうな声でそう告げた。
「すまん」
 そのことに責任の一端を感じていたアドリアンは率直に謝った。
 初めて会った時、12歳だったエヴァンゼリンももう18歳。そろそろ行き遅れと指を指されても不思議ではない年齢になっていた。
 金髪碧眼の可憐な容姿。頭の回転も良く、決して臆さない。街の有力者である市参事会委員の娘で、前王妃の信頼厚き侍女。と、どの面から見ても相当な優良物件だ。しかし、そんな彼女に言い寄ろうとする男は皆無だった。

 薔薇の花咲くアキテイン王国の親衛隊長は独身で隻眼の美丈夫、国王の信頼も厚く、広く人気を勝ち得ていた。その親衛隊長と親戚で、まるで実の兄妹のように仲が良かっため、その関係から様々な憶測が乱れ飛んでいたのだ。
 曰く、大きくなるのを待っている。血が近いので父親が結婚を反対している。前王妃がお気に入りの侍女の結婚に反対している。国王がお気に入りの親衛隊長の結婚に反対している、等々。

「18歳の妙齢の女を掴まえて、大きくなるのを待っている、はないと思うわ」
 エヴァンゼリンはふくれっ面でアドリアンに詰め寄った。
「親衛隊の騎士の中でこれは、と思う奴はいないのか。俺が口を利いて」
 やろうと言おうとしたが、冷ややかな目で睨まれて口をつぐむ。
「隊長の恋人をもらってやろうなんて豪気な隊員がはたしてこの世にいるものかしら」
 徐々に形勢が悪くなってきたアドリアンは都合よく今日ここに来た理由を思い出した。
「そうだ、エヴァンゼリン。親方に折り入って頼みがあるんだが」
「お父さまはツンフトの集まりで出かけているんですって。代わりに聞いておくわ」
 アドリアンはかいつまんで事の説明をした。
「甥っ子?」
「一番上の兄貴のところの末っ子だ。よく仕込んで、いずれは俺の跡継ぎにしたいと思っている」
 エヴァンゼリンは瞳をぱちぱちとさせた。普通ならば、どうして自分の子に跡を継がせないのかと尋ねるところだ。むろん聡明なエヴァンゼリンはそんなことは言わない。
「で、ここに下宿をさせたいって訳ね。大丈夫だと思うわ。お父さまも嫌とは言わないでしょうよ」
 アドリアンは国王の戴冠を機に王城に移り住んでいたため、今はコージモ親方の仕立て屋に下宿人は一人もいなくなっていたのだ。
「ええと、どこだったかな。ブロワの伯だかロレーヌの公爵だかに仕えていたらしいが、まあ、なにぶんにも田舎の生まれだ。気にかけてくれると助かる」
「任せておいて。確かあんたの実家って遠いんでしょう」
 アドリアンの故郷は神聖ローマ帝国の外れ、フランスとの国境近くにあった。以前はエヴァンゼリンにも秘匿されていたそれらのことも、すべてが解決した今となってはもはや公然の秘密となっていた。
「そんなに遠くから皆に可愛いがられてた小さな末っ子が……」
 エヴァンゼリンは瞳に明らかな同情の色を浮かべて、テーブルから立ち上がった。
「そうとなったらお部屋を片付けておかなくちゃ」
「エヴァンゼリン、俺の一番上の兄貴はとうに四十を……」
 エヴァンゼリンの脳裏には恐らく幼い男の子の姿が浮かんでいるのだろう。だが、アドリアンは大家族の末子で、長兄とは親子ほども年が離れていたのだ。
 張り切って階段を上がっていくエヴァンゼリンはアドリアンの言葉もまるで耳に入っていない様子だった。
 やれやれと肩を竦めて、けれどもアドリアンは笑った。





「それは由々しきことだな」
 国王の居室にて、カールは重々しく言った。
「侍女殿には深く感謝をしているのだ。ある意味で、我々を引き合わせてくれたのはあの娘なのだから」
 そしてアドリアンは知っていた。エヴァンゼリンが自分との恋人説を否定しないのは、自分と国王の関係を察しているからだ。引く手あまたと言われる親衛隊長に色恋の噂一つもないとしたら、何かしら邪推する者が出てこないとも限らない
「誰かおらぬものか」
 問われて、親衛隊員のうちの幾人かを思い浮かべるが、誰一人としてエヴァンゼリンの好みではなさそうだった。
「何とかしてやりたいと常々思っているのですが」

 だが、誰でも良い訳ではない。
 アドリアン自身、もしも自分が誰かと結婚しなければならないとしたら、その相手はエヴァンゼリンだろうと思っていた。
 それほどにエヴァンゼリンは得難い存在だったのだ。

「以前、話したことがあったな。ある日運命の乙女が私の前に現われ、私は雷に打たれるが如く恋に落ちるだろう。そんな風に私は思っていたと」
 いつものごとく手を大きく広げられて誘われ、アドリアンは椅子に座るカールの膝の上に腰を下ろした。
「けれど私の運命の相手はそうとは気づかぬほどひそやかに忍び寄ってきたのだ」
「陛下」
「言ったであろう。二人だけの時はカールと」
 カールはアドリアンに口付けた。
 アドリアンは唇を開いてカールの舌を受け入れた。口付けは徐々に深いものとなっていき、アドリアンは息を乱した。深い口づけの合間をぬって、カールは。
「人が采配をせずとも運命の相手は自ずと現れるものだ。そう、時が来れば」 
 そうなればあっという間に子が生まれるぞ、と笑って告げられ、アドリアンは思わずかねてからの懸念を口にした。 
「――良いのですか、御自身の御子は」
「そなたはいつもそれを言う。自身はさっさと甥を呼び寄せておきながら」
 カールは迷いのない口調で言った。
「王の子は既にいる」
 それは御年三歳、先王と同じ名を持つヴェンツェル王子のことであった。
 カールはアドリアンを続き部屋にある四柱式寝台へと誘った。
 衣服を取り去り、全裸となって、寝台に上がった。
 膝頭にカールの手が置かれて広げられ、アドリアンは羞恥に唇を噛む。
「不思議だな」
 アドリアンの屹立はすでに熱く、昂っていた。カールの形の良い唇が開かれ、昂りを含まれる。脚間に美しい金髪が埋められ、アドリアンは皺が寄ってしまうほどに強く敷布を掴んだ。
 張った部分を舐められ、裏筋を舌が這わせられていく。歓びに全身が震えた。

「幾度交わっても飽きぬ。飽きるどころか飢(かつ)えるばかり」
 熱い舌はやがて蕾へ移り、肉襞のその一つ一つを伸ばすようにして舐められた。

「もう、三年。だが、そなたはいつまで経っても控えめだ」
 先走りの液で濡れた切っ先が震える肉襞に押し当てられた。
「そう、ここと同じに」
 胸に付くほどに脚を折り曲げられ、最奥まで深く差し貫かれた。
「……っ、……ぁ…カール……!」
「ヴォルフ」
 二人だけの時にしか使わぬ名を互いに呼び合い、やがて緩慢な抜き差しが始まった。その大きさや容(かたち)までをも知れてしまうようで、激しく抜き差しされるよりもむしろ辛かった。
「…あ……っ、……ああッ……」
 首筋にカールの唇が押し当てられる。唇は鎖骨を辿って胸の頂きに移った。軽く歯を立てられ、アドリアンはがくがくとその身を震わせた。
「愛している。私の……狼……」
 深く穿たれて、アドリアンはついに気をやった。
 決して結実することのないカールの種を身体の奥底で受けながら――。





 ※





 エヴァンゼリンは黄昏時の城下街を歩いていた。

 明日にもアドリアンの甥っ子が到着するという話を聞き、エヴァンゼリンは前王妃にお宿下がりを願い出ていた。が、折り悪く、御年三歳の王子殿下が食あたりを起こしため、前王妃の居室はてんやわんやの騒ぎとなり、いとまごいをするのが遅くなってしまったのだ。
 これが他の街であれば、エヴァンゼリンも王城の騎士に護衛を頼んだことだろう。しかしこの街で生まれ育ったエヴァンゼリンはこの街のネズミ穴一つに至るまでよく知り尽くしていた。そして今のアキテインは天下泰平、恐れることは何もない。

 その、はずだった。

「エヴァンゼリン・リーメンシュナイダーだな。寡婦の侍女の」
 暗がりから声がした。

 いやしくも前王妃を寡婦呼ばわりする男たちが自分に好意的なはずもない。
 平和ボケと言われても仕方がなかったが、枢密院に身を置いていた頃から有能と囁かれていた公子が国王として戴冠してからこちら、アキテインは平和そのものだったのだ。一体誰が自分を責められよう。

 路地に逃げ込もうか、それとも。
 エヴァンゼリンは顔は動かさず、眼だけで周囲の様子を伺った。
 男たちは四人。既にして四方を取り囲まれていることに気が付く。
 エヴァンゼリンは内心の動揺を巧みに押し隠し、ゆっくりと言った。

「だったら、どうだというのかしら」
 男たちが飛びかかってくる気配を察し、エヴァンゼリンはその身を固くした。

 その時、蹄の音が響き、一陣の風が走った。
 エヴァンゼリンと男たちの間を一頭の白馬が駆け抜けていったのだ。駆け抜けざまに長剣が一閃し、男の一人が肩を押さえて崩れ落ちた。辛くも急所を外したが、それが首を狙った動きであることは明らかだった。
 騎乗者が馬首を巡らし、白馬は再び元の場所に舞い戻ってきた。
 エヴァンゼリンは馬上を振り仰いだ。

 それは、まるで抜き身の剣を思わせる青年だった。背は高く、細身の筋肉質。そして何より――。
 下瞼の縁に白い筋の入る三白眼、凶相だ。
「……」
 青年はその凄みのある三白眼で男たちを睥睨した。

 気迫に呑まれたのだろう。男たちは動きを止めた。
 その隙を見逃さず、青年は白馬を棹立ちにすると、男たちを馬蹄に掛けて蹴散らした。
 エヴァンゼリンがそれに巻き込まれて尻餅をつく。するとエヴァンゼリンの喉に腕が絡み、首筋に短剣が突きつけられた。
「この娘がどうなっても……」
 青年は一瞬たりともひるまなかった。両の鐙を外して馬から飛び降りるや、短剣を握る男の手もろともにエヴァンゼリンを蹴った。
 短剣はエヴァンゼリンの首を掠めて宙を飛び、エヴァンゼリンはもんどりをうって石畳を転がった。
「ちょっと! ひどいじゃない」
 毒づきながら振り向くと、男と青年が対峙していた。青年が鞘から長剣を引き抜く。
 青年のその構えを見て、男たちは騒然とした。
 そうだろう、それはエヴァンゼリンも生まれて初めて目にする構えだった。
 手にした長剣は二つ。  

 二刀流だ。

 むろん二つの得物を同時に扱う騎士は少なくない。が、その場合も左手には盾、もしくは短剣を扱う場合がほとんどだ。親衛隊長であるアドリアンでさえも、左手では三叉短剣を扱うのがせいぜいだ。
 それが長剣。
 そして急所を容赦なく狙ってくるその動き、的確に状況を読むその冷静さ。
 青年がひどく優秀な騎士であることは傍目にも明らかだった。

「殺さないで!」
 エヴァンゼリンが叫んだのは、決して慈悲の心によるものではなかった。
「生かして首謀者を吐かせ……」

 青年が二本の剣を振りかざして踏み込んだその瞬間、鮮血が迸り、二人の男がほぼ同時にぱったりと倒れた。
 漆黒の髪、黒目の小さな三白眼、蒼白な肌に返り血を浴びて立つその姿。

 窮地を救われたというにも関わらず、エヴァンゼリンはこう思ってしまった。
 まるで死神のよう、と。

 けれどもエヴァンゼリンの願いを土壇場で聞き入れたのだろう。男たちはことごとく致命傷を免れていた。

 最後に残された一人が青年に向かって突っ込んできた。青年の左手が目にも止まらぬ早業で動く。反応できるはずもないだろう。左手での長剣捌きに慣れている者などいない。
 青年は剣を絡めて、男の長剣を二十歩ほども向こうに弾き飛ばした。
 もはやこれまでと悟ったのだろう。男は傷の重い仲間を選んで抱き上げると、馬に乗せた。
 残された者たちも最後の力を振り絞って逃げ出した。

 そこに馬の嘶きが聞こえた。
 すわ仲間を呼んだかと頬を強張らせたエヴァンゼリンが辻の向こうに認めたのは、意外な人物だった。
 青年はおよそ感情のこもらぬ声で言った。

「カール王の治世では、盗人(ぬすっと)一人たりとも絞首台から逃れることは出来ぬと聞いておりましたが」
 青年の視線の先には隻眼の親衛隊長の姿があった。
「即位から三年。平和を厭って動き出す者もいるだろう。――手負いだ。そう遠くまで逃げられまい。追え」
 アドリアンの指示に従い、男たちを追って、数名の騎士たちがアキテインの街中へと消えていった。
「一目でわかった、アドルフだろう? 兄貴に似てる。生き写しだ」
 アドルフと呼ばれた青年は血まみれの長剣をそれぞれ鞘に納めると、恭しく一礼した。
「叔父上」






 その後は捕り物に追われたらしく、二人がコージモ親方の仕立て屋へとやって来たのは、その夜遅くのことだった。
 残念なことに男たちは取り逃がしたという。だが、アドリアンは心当たりはなくもない、と重々しく言って、それ以上の追及を拒んだ。
 ささやかながらアドルフの歓迎会が行われた。参加者はアドリアンとアドルフ、コージモ親方ことエヴァンゼリンの父とエヴァンゼリン、その四人である。
 男たちはさかんに杯を交わしていたが、エヴァンゼリンは内心面白くなかった。礼を述べたエヴァンゼリンにアドルフは冷たく、ああ、と返すばかりだったからだ。
「父は言っておりました」
 しかし無口な青年の口さえも酒精がなめらかにしたものらしい。
 アドルフは言った。
「叔父上は我がヒューゲル家の誉れだと」
 アドリアンはエヴァンゼリンの遠縁だった。父の姉の嫁ぎ先の母の甥っ子なのだと父から聞かされ、その時に家名も聞いた覚えがあるのだが、それがヒューゲルでないことだけは確かだった。
 咎める目つきで父を見たが、父は素知らぬふりで杯を呷るばかりである。

 元よりアドリアンは謎多き存在だった。
 親族でありながらも郷里の話をすることはほとんどなく、時折実家について口を滑らせては、しまったという顔をすることがよくあった。実のところエヴァンゼリンはアドリアンという名も偽名ではないかと疑っていた。それについて追及する気はさらさらないものの。

 アドルフが二階に上がるや、声を潜めてエヴァンゼリンは尋ねた。
「あれ、本当にあんたの甥? 何、何なの、あの三白眼」 
「ありゃヒューゲルの遺伝だ。兄貴も親父も祖父さんも揃いも揃ってあの目だよ。俺は母親似なんだ」
 言って、隻眼をつむって見せる。
 溜息と共にエヴァンゼリンは言った。
「お母さまはさぞかし美人なんでしょうね」
 とはいえ、すべてを台無しにするあの三白眼さえ除けば、アドルフはアドリアンにそっくりだった。
「だが、ありゃ男殺しの眼とかで、兄貴のところの娘たちはみんな15かそこらで、まるで日曜の朝のクグロフみたいに焼ける端からぽんぽんと売れていくそうだ」
「日曜の朝?」
「あー、知らないか。俺の生まれた村じゃクグロフは日曜の朝に食べるもんだと相場が決まっててな。村に一軒しかないパン屋はそれで朝から大忙し……」
 と話はなぜかクグロフへと移り変わっていき、そこでお湯を使わせてくれとアドルフが階下に降りてきたがために、アドルフについての話はそのまま立ち消えとなってしまった。





「エヴァンゼリン、隊長の甥御というのはどんな方なの?」
 前王妃に尋ねられ、エヴァンゼリンは口ごもった。
「一言で表現するのは難しゅうございますわ」
 三白眼、異様な二刀流、黙っていても滲み出てくるあの威圧感。
 そのどれを口にしても悪口になってしまいそうだった。
「剣の腕前は素晴らしいかと」
「それだけ?」
「すでに隊では一目も二目も置かれているそうですわ」
 広く人気のある親衛隊長の甥とはいうものの、血縁を盾に後からのこのこと……と思う者もなくはなかっただろう。けれどアドルフはあの三白眼と、異様な二刀流の実力をもって皆を黙らせた。
 思うことはみな同じだろう。

――何だか薄気味悪い。
 敵に回したら末代まで祟られそう。

「ところで、王妃さま。殿下は」
「宮廷医は大事ないと。今後は牡蠣の皿を出す時は必ずや火を通すように司厨長に申し渡しておきました」
 後ろ髪を引かれるような思いで宿下がりをしたエヴァンゼリンはそれを聞いて安堵した。

 良人であった先王を亡くした前王妃だったが、望めど長い間手に入らなかった子を得た前王妃は満たされていた。国王となったカールが前王妃を徹底的に立てたこともあるだろう。
 前王妃は王城にそのままとどめ置かれ、独身主義を公言するカール王の元、王子は王城の奥深く、推定王位継承者として大事に育てられていたのだった。

 部屋に戻ろうと中庭に出ると、ばったりアドルフに遭った。
 しかし未だ数少ないであろう知り合いに会ったというのに、アドルフは挨拶一つしなかった。
 どういうつもりだろう。
 腰帯から吊るす長剣はやはり二本。
「そうやって黙って立ってると、何か陰謀とか企んでそうな感じよね」
 黙ったままでいられると、どうにも居心地が悪く、エヴァンゼリンはアドルフを前にするとついつい憎まれ口を叩いてしまう傾向があった。
「……」
 アドルフはやはり黙ったままでエヴァンゼリンをじろりと見た。
「――いくつだ」
「何、何、何がよ」

「年齢(とし)だ」
「じゅ、じゅ、18よ」
「意外にいってるんだな」
「それが何か」
「俺は19だ」
 それを聞いて、なぜかエヴァンゼリンはホッとした。しかし言葉にしては。
「ああ、そうなの。悪いけど、年上には見えないわね」 
 ぬっと腕が伸び、エヴァンゼリンは突如手を掴まれた。
「行こう」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 勝手に……」
 エヴァンゼリンの抗議の声もどこ吹く風で、アドルフはすたすたと歩きだした。



 アドルフがエヴァンゼリンを白馬に乗せて連れ出したのは、ローゼンブルクの街を見下ろす小高い丘の上だった。
「俺は左利きだ」
 エヴァンゼリンを馬を降ろすなり、アドルフは唐突に言った。
「親父は直せとは言わなかった」
 左利きは不吉と言われて忌み嫌われるため、小さいうちに右利きに矯正されるのが世の常識だ。
 そのため、エヴァンゼリンもこれまでにただの一人たりとも左利きの人間を見たことがなかったのだ。
「家の中じゃいいが、一歩外に出れば、悪魔悪魔と囃したてられる。教会に行くと、神父はまるで異端者を見るような目つきで俺を見る。それに嫌気がさして、右も使えるようにした」
 淡々と語るが、そこに至るまでには血の滲むような努力があったのだろう。
「本当は今も左の方が」
 左手で石を拾うと、頭上の林檎の樹に向かって放つ。狙いは誤らず、林檎は見事にアドルフの掌の中に落ちてきた。
 無言でそれを差し出され、エヴァンゼリンは礼を言ってそれを受け取った。
「誰にも話したことはない」
 アドルフはそれ以上のことは言わなかったが、賢いエヴァンゼリンは理解した。
 人に話せば、世間の容赦のない差別や偏見に晒されるからだろう。
 なぜそれを自分に告げるのかと尋ねようとしたが、結局やめてしまった。
「――叔父上の恋人だって?」
「違うわ」
 エヴァンゼリンは即答した。
 他の人間なら言葉を濁しただろう。だが、アドルフは身内だ。
「あちこちで聞かれた。この国に来たばかりだから知らないと答えたが」
 何かしら言うべきだったが、やはり止めてしまった。
 言葉少ななアドルフのそばにいると、不思議なことに小手先の言葉は要らないように思えてくるのだ。
「そうか」
 奇妙な沈黙が流れた。 
 二人は黙ったまま、青空をゆっくりと横切っていく白い雲を眺めていた。





 ※





「遠からず、再び動くであろうことはわかっていた。こらえ性がないのだ」
 カールは苦々しく言った。
 あの日、エヴァンゼリンを襲った者たちの後を追った。血の痕はほとんど拭い去られていたが、ごくわずかだが残されたものもあった。それらはある屋敷の周りに集中していた。
 アドリアンはその屋敷に監視を付け、動向を伺っていた。そこに再び動きがあったのは、つい昨日のことだ。 
「いかがなさいますか」
「罠を張る」
 カールの胸中を慮り、アドリアンは念押しした。
「本当に良いのですね」 
 密談を終えて国王の居室を出ると、扉近くに控えていたアドルフがぴたりとその背に付いた。

 甥や姪を手元に呼びよせるのは、子孫を残せぬ高位聖職者の常套手段だ。そして出世した親族を頼ることも、ごく当たり前の処世術とされている。だが、アドリアンは直前まで甥を呼び寄せることをためらっていた。
 アドリアンが後継者を欲したのは、自分の財産を託すためでも親族を出世させるためでもない、ひとえにこの国の未来のことを考えたからだ。だから他人であっても優秀な者がいれば、その者を後継者としただろう。しかし、そんな者はいなかった。

 そんな折も折、長兄からアドルフの話を聞いたのだ。父親ほども歳の離れた長兄は公正な男だった。その長兄が請け負ったのだ。決して無駄口は叩かず、冷静で有能。仕える城では無敵の剣士と称されている、と。

「どうだ」
 歩きだしながら尋ねる。
「今のところ何も」
 アドリアンは、本人にはそうと察されぬようにさりげなくエヴァンゼリンの護衛をするようにアドルフに命令を下していたのだ。
「近いうちに動きがあるだろう」
 細かいことを告げずとも理解に及ぶアドルフはもはやアドリアンにとって無くてはならない存在となっていた。
 これも同じ血のなせる業だろうか。
「その時はおまえの力を借りるかもしれない」

 長兄の言葉は正しかった。今ではアドリアンは心底から思っていた。甥(アドルフ)を呼びよせて良かったと。

 アドルフは何を答えるわけでも、何を言うわけでもなく、アドリアンの後ろを歩いていた。
 ふとした好奇心にかられてアドリアンは尋ねた。
「おまえはあの娘をどう思う」
「あの娘は」
 アドルフは素っ気のない口調で。
「自由な考えを持っているようです」
「そうだろう。あの娘は凡百の鵞鳥の群れの中の一羽の白ハヤブサだ」
 アドリアンがある種の確信をもって言うと、アドルフは世にも珍しいことに口元を僅かに緩めた。
「何だ?」
「白鳥ではないのかと」
 女を鳥に喩えるなら、白鳥か小夜啼鳥、そのどちらかと相場が決まっている。それを踏まえての言葉だろう。
「おまえは白鳥と白ハヤブサのどっちが好きだ」 

 大空を自在に翔(かけ)る白ハヤブサ。それは狩りする騎士の良き友だ。
「もちろん」
 そう言うと、なぜだろうか、アドルフは自身の左手をじっと見た。





 ※




 エヴァンゼリンは窓腰掛けに座り、祭壇布の縁かがりに取り組んでいた。
 針を動かす手を止めて、本日何度目かのため息を付く。

 エヴァンゼリンはアドリアンのことが好きだった。時折その隻眼にちらりと翳りが落ちることはあったものの、元来が陽気でおしゃべりなアドリアンはエヴァンゼリンの良き相棒だった。
 初めて会った時から心惹かれていたのだが、悲しいかな、エヴァンゼリンは人より敏く、普通の娘なら決して気付けないことにまで気が付く性質(たち)だった。

 だからこそ気が付いてしまったのだ。アドリアンの心を大きく占めるその存在に。 
 そして口に出すのさえも憚られる高貴な存在であるその御方もまた、アドリアンのことを大切に思っているらしい。アドリアンに見せるそのためだけに、戴冠式を伸ばしに伸ばしたほど。
 恋心は胸に仕舞って錠前をかけた。そして微力ながらもアドリアンを守ろうと決意した。愚劣な中傷に彼らを晒してはならない。だから周囲の人間からアドリアンの恋人扱いをされても否定はしなかった。 

 幼く愛らしいのだろうと勝手に思いこんでいたアドリアンの甥は、自分より一つ年上の、三白眼の無口な青年だった。陽気でおしゃべりなアドリアンとはまるで違う。でも――。

 エヴァンゼリンは祭壇布を脇に置くと、ドレスの衣嚢(かくし)から林檎を取り出した。食べてしまうのが何だかもったいなくて、あの日以来ずっと持っていたのだ。
 林檎はすでに萎び、しわしわになってしまっていた。

 その時、窓の外から声がした。
「新しく入られた騎士のことでしょう」
「隊長の甥御なのですって」
 新参の侍女たちの一団だろう。皆15になるかならずの若い娘たちだ。
「素敵よね」
「なんといっても」
 侍女たちはそこで声を揃えて叫んだ。
「あの眼!」
 きゃあきゃあという黄色い声が徐々に遠ざかっていく。
 顔を上げると、当のアドルフが目の前にいた。
「聞いてた?」
 アドルフは常の如く何も言わなかった。
「あの眼! ですって。ご感想は?」
 エヴァンゼリンに詰め寄られて、アドルフはようやく重い口を開いた。
「好きな奴は好きだろう。俺の姉たちは」
「みーんな15になるかそこらでぽんぽんと売れていく、でしょう」
 アドルフは物問いた気な目でエヴァンゼリンを見た。
「それは」
 しわしわになった林檎を指差され、エヴァンゼリンは慌てて立ち上がった。
「悪かったわね、18の売れ残りで。――付いてこないでね」
 こういった状況下ではアドルフに付いて来られることが多いため、エヴァンゼリンはぴしゃりと言った。

 何も考えずに王城を後にしたエヴァンゼリンだったが、早くも後悔をし始めていた。
 どうしていつもこんな風になってしまうのだろう。
 本当はもっと良いところを見せたいのに、アドルフがそれを許してくれないのだ。

 アドルフ、その名には高貴なる狼という意味がある。人々に畏怖される狼にさらに素敵な意味が加わり、昔のゲルマンの王の名にもあるほどに人気の高い名前だ。

「……名前負けね」
 エヴァンゼリンは憤懣やるかたなく呟いた。

――あの蛇みたいな三白眼は何だか薄気味悪いし、冷たそうだ。でも、そうね、色気だけはあるかも。確かに剣の腕前はピカ一だけど、それを差し引いても余りあるほどの無口……。

 突如口を塞がれ、袋のようなものが頭に被せられる。
 暴れるエヴァンゼリンの足元で萎びた林檎がひとつ、転がった……。





 ※






 アドリアンは尋ねた。
「怒っているのか」
 アドルフは黙って首を振った。
 エヴァンゼリンを囮にし、敵を探って来いと命じていた。アドルフはその難しい役割を見事に務め、男たちの拠点を確認するや、王城に戻ってきた。
 アドルフは常と変わらぬ無表情だ。しかし血縁であるがゆえに、アドリアンはアドルフから発されている感情が怒りであることに気付いた。
「敵の正体はわかっている。万が一にもエヴァンゼリンに危害が加えられることはない」 
「前も」
 アドルフは珍しいことに口答えをした。
「そして今も顔を隠しておりませんでした。金で雇われた流れ者やお尋ね者のたぐいでしょう。追い詰められれば」
 口の重いアドルフは皆まで口にしなかったが、こう続けたかったのだろう。何をするかわからない、と。
 わかっていると頷き、アドリアンはアドルフの肩を叩いて離れた。
 すぐに国王の居室にて、今度はアドルフも交えての密談が持たれた。
「目的はやはり王子の命か」
 やはり、というからには既に前例があった。

 王子は牡蠣に中(あた)って中毒を起こした。宮廷医は貝毒ではなく、何らかの毒物に拠るものであろうと断言した。すぐさま緘口令が引かれたため、王妃を始めとした宮廷人たちでこの事実を知る者はいなかった。

「彼女は前王妃が全幅の信頼を置いている侍女です。金銭か脅迫か、何らかの手段で意のままに操り、王子を無きものにしようと考えたのでしょう」
「どのような手段を用いようとも、全幅の信頼を置かれている者が裏切るものか。そしてまた牡蠣か。あの方は本当に――」
 二人だけであれば、恐らく悪口めいた言葉を口にしていたことだろう。アドルフがその場にいることを思い出したのか、カールはひたすらに首を振るばかりだった。

 カールは摂政ではなく国王として戴冠した。カールに子が生まれれば、その子供が筆頭王位継承者となるだろう。だが、子無き今、三歳のヴェンツェル王子が推定王位継承者となっていた。

「では、私に子が出来ぬ限り、この企ては繰り返されるのだろうな」
「ならば」
 機先を制してカールは声を荒げた。
「一体幾度言わせるつもりだ。私に結婚の意思はない!」
 臣下にとって君主の怒りは何より忌避されるものだが、傍らにいるアドルフは微動すらしなかった。
 大したものだと感服する。
 そしてアドリアンもまた怯まなかった。
「しかしながら、それがすべてを解決に導く方法であることは……」
「くどいぞ、ヴォルフ!」  
「陛下は」
 二人はぎょっとして振り返った。

 それまで|吐水口の石像《ガーゴイル》のように黙りこくっていたアドルフが突如として口を開いたからである。
「成人の後、病を得たことはございますか」
「十八の時に流行り病に罹患した」
 それを聞いたアドルフはアドリアンの方を向いて言った、
「叔父上はミュラーの後添いの話をご存知かと」
 アドルフの言葉の真の意味を悟ったアドリアンは大きく頷いた。

 ミュラーの後添いの話はアドリアンが生まれた村の語り草となっていた。粉屋(ミュラー)の苗字でわかる通り、風車を持つ裕福な粉屋が古女房を亡くした後に貰った若い後添いだ。
 だが、口数の少ないアドルフにその全容を説明させるのは難しいだろう。アドリアンはアドルフになりかわって事の説明をした。

「これまで我らは正攻法で物を考えすぎていたのかもしれない」
 アドリアンの話を聞き終えるや、カールは言った。
「貴公の甥が提言する通りだ。俗物は俗な理由を聞いてこそ納得をするのやもしれぬ」
 アドルフは恭しく首(こうべ)を垂れた。 
「お恐れながら」

 居室を出るや否や、アドルフは言った。
「御存知なのですね」
 何のことかと片眉を上げたアドリアンに。
「叔父上の名を」
 この国では偽名を使っていることを伝えてあった。アドルフの名はヴォルフにちなんでつけられたものだ。それだけにヴォルフの名には思い入れがあったのだろう。
 そう、激高した国王が思わず漏らしたその名を決して聞き逃さぬほどには。

 アドルフはその三白眼でアドリアンをじっと見つめていた。
 大家族にあっては、末子といえども充分に両親に目をかけてもらえるものとは限らない。そんな中で、歳の離れた長兄はアドリアンにとって父親以上に父親的な存在だった。隠れてどんないたずらをしようとも、すぐに看破されて怒られた。幼いアドリアンの目には長兄の三白眼はまるで千里眼のように映ったものだった。
 長兄によく似た年若い甥は、或いはその三白眼ですべてを見透かしているのかもしれない、とアドリアンは思った。

 三人は示し合わせて秘密裏に王城を出た。  
「今に始まったことではないのだ」
 ローゼンブルクの街を騎馬が駆ける。轡を並べて駆けるのはカールの白馬とアドリアンの黒馬。それに遅れてアドルフの白馬が行く。 
「貴公がこの国に来るはるか以前から際限なく陰謀を企み、数少ない王族であるがゆえに許されてきた」
 三騎が停まったのは、城下にあるリンブルク公爵の邸宅の前だった。
 生まれ育った館を馬上より振り仰ぎ、カールは言った。

「蟄居は常のこと、離宮への幽閉も数知れず。私と弟(ルードヴィヒ)は幼いころからいつも怯えていた。いつ何時、父上が斬首に処されるものかと」
 鐙を踏んで馬から降りると、カールは二人の騎士を従えて正門に立った。
 戸口に現れた公爵家の家令は国王の顔を見ると、さっと顔色を変えた。
「父上に伝えよ。国王御自ら王宮の侍女を迎えに来た、と」
 家令は国王とその二人の騎士を公爵の居室へと案内した。
「父上」
「――カール」
 時間、そしてただならぬ雰囲気から来訪の理由を察したのだろう。公爵は気まずそうな表情を浮かべていた。
 カールは唐突に話しだした。
「父上は覚えておいででございましょうか。私が十八の時」



 ミュラーと、死別した女房の間には子がいなかった。それもあり若い後添いを娶ったのだろう。けれど結婚から二年たってもミュラーとミュラーの後添いの間に子供は出来なかった。
 ミュラーの両親は既に亡く、ミュラーの後添いは村の方々の家を訪れて回った。ミュラーの病歴を確認するためにである。
 経験則から、男は高熱を出すと子種が無くなると言われている。ミュラーの後添いは、ミュラーが成人後に流行り病を患い、高熱で睾丸を腫れ上がらせたことを突き止めた。

 ミュラーの後添いはどうやら故郷の村に恋人がいたものらしい。その恋人と晴れて結婚するためにミュラーの後添いは都市(まち)に赴き、婚姻関係無効の裁判を起こした。
 男の沽券も何もあったものではない。ミュラーは後添いとの間に肉体関係は無かったという白々しい宣言をさせられて、後添いと別れた。尾羽打ち枯らしたミュラーはその後、親戚筋に粉屋を譲った。
 平和なリクヴィールの村ではそれはまさしく驚天動地の大事件であった。ミュラーの後添いの話は後々までの炉端の語り草となったのだった……。



「そうか」
 リンブルク公爵の企みはいつも浅はかで結実しないと言われていた。それはその反面で、公爵が単純で素直な男であることをも意味していた。
 国王――最愛の息子――の偽りの告白を聞いて公爵は言った。
「そなたは神の御業によりマグダレーナがあれほどまでに渇望していた国王となった。だからこそ儂は、そなたの血を、ひいてはマグダレーナの血を絶やさぬことが儂の使命だと……」
「亡き母上は国母となられた。それで良いではありませんか」
 患った病による高熱のために子を持つことは出来ない。独身主義を標榜するのはそのためだと息子から聞かされた公爵は男泣きに泣いた。
「儂はそなたの苦しみも知らず」
 カールはおいおいと泣く公爵を優しく抱擁した。
「すまなかった……」
 アドリアンはそんな二人の姿をいたましい思いで見ていた。
 それは偽りの告白だった。
 だが、カールが公爵に孫を与えることができないのはまさしく真実なのだ。
 いたたまれずに視線を逸らすと、アドルフと目が合った。その三白眼には明らかに理解の色があった。

「そして父上、あの者は」
 長い愁嘆場の後、カールに促された公爵はようやく我に返り、バツが悪そうな様子で家令を呼んだ。 家令はしばらく言い淀んだ挙句――。
「実は……」





 公子時代とは立場が異なる。いやしくもこの国の要となる国王を危険に晒す訳にはいかなかった。
 我もといきり立つカールを拝み伏すようにして公邸に止め置き、アドリアンとアドルフは再度、城下を駆けた。

 エヴァンゼリンはまさしく傑物だ。だが、今夜ばかりはその胆力が恨めしかった。
 甥の無口さも普段は美点。それも今夜ばかりはそれが欠点とも映る。背後で馬を走らせるアドルフからは無言の、されども激しい抗議を感じた。こう言いたいのだろう。詰めが甘い、と。
 エヴァンゼリンは屋敷を抜け出し、逃走したのだという。すぐにその逃走は発覚し、追手がかけられた。
 折り悪く、そこに三人が訪れたのだ。
「なぜもっと早く言わぬ!」
 アドリアンが叫ぶが、それに答える声はない。
 リンブルク公爵の愚鈍さが恨めしかった。
 城下であれば、エヴァンゼリンの逃げこむ先は決まっている。実家、コージモ親方の仕立て屋だ。常であれば、そこにはアドルフがいただろう。エヴァンゼリンもそれを期待して実家に向かったに違いなかった。
 それを承知しているがゆえにアドルフは立腹しているのだ。

 目立たぬ場所に馬を繋ぎ、辻からコージモ親方の家の様子を伺う。
 五人の徒弟と一人の騎士を寄宿させるコージモ親方の家は三階建ての切妻造り。ローゼンブルクの街にあっては比較的大きい部類に入る。
 ちょうど教会の鐘楼が朝課(午前二時)の鐘を鳴らしていた。日の出と共に働き出す職人であれば、とうの昔に夢の中にいるはずの時刻。
 しかし徒弟の寝台が並べられる屋根裏部屋の窓の鎧戸から小さな灯りが漏れていた。 

「待てません」
 アドルフはきっぱりと言った。
「元より無くすものとてない無法者。我らの言葉を信じぬばかりか、皆殺しにして金品を奪おうと企むやも」
 今度ばかりはアドリアンはそれを一笑に付することは出来なかった。
 アドリアンは頷いた。
「生かして倒すことは、殺してしまうよりも難しい。だが、俺とおまえならそれが出来るだろう」
 無法者とはいえ、男たちは公爵の野心の犠牲者に過ぎない。  
 知らぬままなら殺せただろう。けれど背景を知ってしまった今となれば、無下に命を奪うことは躊躇われた。
 かつて為政者の道具となった経験があるアドリアンだけに余計にそう思えたのだ。
「俺には死角がある」
 アドリアンは言わずもがなのことをあえて口にした。死角の左を覆うのは眼帯だ。
「おまえのその左に期待している」
 アドルフは承知したというように頷き、そして尋ねた。
「良いのですね」
 それは、聞こえるか聞こえなきかのごく小さな囁きだった。
「私があの白ハヤブサを手に入れても」
 その言葉ですべてを察したアドリアンは一瞬息をつめ、そして言った。
「飼い慣らせるものならな」
 二人は屋敷の外に付けられた厠の屋根をよじ登った。一階に人気はない。二階と三階の屋根裏部屋、二手に別れた。
「行くぞ!」
 アドリアンの合図と同時、鎧戸を蹴破り、家の中に入った。
 床に直接置かれたランプの前で、男たちが車座になって何事か話しこんでいた。
 予期せぬ闖入者に色めきたって剣を取る。
 斬りかかってくるのをかわし、手首をねじった。鈍い音がして骨が折れたと知る。
 アドリアンは鞘から長剣を引き抜くと、続いて抜いた短剣の釦を押した。たちまち短剣の刃は三叉に展開する。
 斜め下から伸びてきた剣を三叉短剣で受け、身をひるがえして、剣を叩きつける。が、すんでのところでかわされた。
 そこに背後から剣が迫る。身体を回転させて剣をよけると、床を蹴り、部屋の隅に退いた。
 二人がほぼ同時に突っこんでくる。
 頃合いを見計らって、徒弟の使う箱寝台を蹴り上げた。
 男たちは足元を掬われて転んだ。そこに至近距離から三叉短剣を投げる。
「ぐうっ」
 剣持つ右は三叉短剣によって床に縫い留められた。
 残るは一人。 

 その時、アドルフが二階から駆け上がってきた。段梯子の上に立ち、昇ってくる男たちを迎え打つ。
 見慣れぬ左手での剣技に翻弄され、男たちは次々に倒されていく。
 残る一人はくるりと踵を返し、アドルフに迫った。階下の男と激しくやり合うアドルフの背後はがら空きだった。
 背後に迫る気配を察し、アドルフは急ぎ階下の男を仕留めた。
 振り向き、そして長剣を振り下ろす。
 迫る男のそっ首をめがけて――。

 騎士であれば、剣でその人となりを知ることが出来る。
 ためらうことなく殺しにいくアドルフの剣は鬼気迫るものがあった。
 恐らくはかつての自分のように主君の道具に使われていたことがあるに違いない。それこが騎士の悲哀だ。騎士として優れていればいるほど殺しの道具として使役される。
 だが、この国に。
 この国王の元にいれば、きっと。
 
 一瞬だけ、アドリアンの剣の方が早かった。平打ちで男の首を叩き、アドルフの剣先から男の命を救った。
 男は昏倒し、段梯子を転げ落ちた。
「流石は……」
 アドルフは感に堪えかねたように呟いた。
「叔父上」
 長剣を鞘に収めつつ、アドリアンは本心から言った。
「だが、十年後にはおまえに抜かれる」



 エヴァンゼリンはコージモ親方や徒弟その他と共に縛られて、物置の片隅に転がされていた。
「助けに来るのが遅いわよ」
 いつものエヴァンゼリンだった。つられて軽口をたたき返そうとしたアドリアンだっだが、視界の隅で素早く動く影を見て口をつぐむ。
「……よかった」
 そう言うと、アドルフはエヴァンゼリンを強く抱きしめた。
 目を剥くコージモ親方とアドリアンの前で、当のエヴァンゼリンはというと、アドルフの胸の中で目を白黒させていた――。





「下手な仲人口を叩いて意識させても、と思い、控えていたのですが」
「言ったであろう」
 カールは言った。 
「人が采配をせずとも運命の相手は自ずと現れるものだと」

 アドルフとエヴァンゼリン、それは願ってもない組み合わせだった。
 可憐な容姿、賢さ、その身分と立場。そのどれを取ってもエヴァンゼリンは相当な優良物件だったが、エヴァンゼリンの真価はもっと別なところにあるとアドリアンは思っていた。何とも不思議なことにアドルフはそのことをよく理解しているようだった。
 はたして一体どこでそれを知り得たのだろう。
 それをアドルフに問うと、アドルフは黙ったまま、左手に視線を落とした。

「どちらの結婚が早いだろうな、私の弟とそなたの甥」
 カールの弟のルードヴィヒは皇帝の妹であるエルスベト姫と目下婚約中であった。カールの弟のたっての願いで実現したその婚約はしかし持参金その他の折り合いが付かず、結婚式は幾度も日延べされていた。
「大人しい男ほど手が早いとは聞きますが」
「二人の結婚が決まった暁には、今度こそ貴公の村に」
 貴公の兄上に挨拶をせねば、な。
 とカールは言い、二人は笑いながら甘い口づけを交わした。



 満たされた思いで国王の居室を出たアドリアンは、次の瞬間、ぎょっとして足を止めた。
 腕組みをしたアドルフが扉の横に立っていたのだ。
 国王と共に過ごす時には内側から鍵を掛け、さらには居室に続く階段前の扉を厳重に衛士に守らせるようにしていた。それが――。
 狼狽するアドリアンにアドルフは淡々と。
「叔父上は詰めが甘い」
 衛士たちの実力を試したのだろう。階段の扉の前では二人の衛士が昏倒していた。
 さながら宣言するようにアドルフは言った。
「今後は私が」

 アドリアンはその時、秘密を守る番人が一人から二人に増えたことを知ったのだった。





 その日を境に国王と親衛隊長が共に過ごす時は必ずや無敵の剣士が扉の前に立つようになった。
 無敵の剣士は後に女官長となる前王妃付きの侍女と結婚し、親衛隊長の後継となった。

 以来その血筋は王家を守る盾となったという――。












( 了 )
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