キャビネ・ノワール 1





 1739年、冬、ヴェルサイユ。

 窓際に立って庭園を眺めていたルードビィヒが言った。
「駒鳥が凍えているよ、ディー」
「めっきり寒くなったからな」
 クラヴァットを結び直しながら、ディートルフが答えた。
 ルードビィヒは窓辺から戻ってくるなり、身を屈め、猫脚の寝椅子の上のディートルフに再びキスをした。
「残念だ。ご婦人なら、スカートをたくし上げれば、もう一戦挑めるというのに」
 ディートルフは一向に意に介さず、さっさと黒絹のリボンで髪を結ってしまうと、ルードビィヒを見上げ。
「あまり長い間一室に篭っていると、枢機卿の密偵に嗅ぎつけられるぞ」
「とうの昔に知られているだろう」
「我らの関係を?」
 ルードビィヒはディートルフの耳元に口を付けると秘密めかして囁いた。
「そう思われていた方がやりやすかろう」
「成程、恋愛遊戯にうつつを抜かしていると」
「遊戯とはつれないな。僕はこんなにも君に夢中だというのに」
 そう戯れる男が自分と同じように職務に忠実なことをディートルフは誰よりもよく知っていた。
「ルッツ、君は一体何人の貴婦人に同じ台詞を言っている?」
 身支度を整えたディートルフが寝椅子から立ち上がる。ルードビィヒは答えず、曖昧な微笑を唇に刷くばかりだった。
「まあ、仲良くやろうじゃないか。君は花嫁、私は同盟。目的が違うのだから敵対する理由もない。だが、ディー。君は本気なのかい」
「この国の王には掃いて捨てるほど王女がいる。王室の財政を圧迫することを恐れた枢機卿が年少の王女たちを修道院に押し込めたほどだ。一人くらい頂いても問題はなかろう」
「いくら持て余し気味の王女たちとて、新教徒の王の元には嫁がせまい」
 旧教を堅持する領邦の出身であるルードビィヒは揶揄するように言った。
「小国とて王妃の称号に勝るものはあるまい。私は我が王子のために最高の花嫁を連れて帰るつもりだ」
「ディー、君はラインラントの王位継承者の従兄弟なのだろう」
「そう、王子の母君は私の父の妹だ」
「王子は君に似ているかい」
 ディートルフは自身の黄金の髪に手をやり、考え込む素振りを見せた。
「殿下は漆黒の髪をしておられる。だが、顔立ちは……。そう、少しは似ているのだろうな」
「少しは、か。微妙なところだね」
 ディートルフは片眉を跳ね上げ、その言葉の真意を問いた。ルードビィヒはひらりと手を振って。
「ふふ、僕はこう思ったのさ。王子に君ほどの美貌があれば、王女を棄教させるのも容易いだろうとね」
 ディートルフとルードビィヒは揃って部屋を出た。
「カッツェンエルンボーゲン大使とヴィッツレーヴェン大使よ」
「いつもご一緒ね」
「ご存知? カッツェンエルンボーゲン大使のリエゾンは完璧」
「ヴィッツレーヴェン大使も完璧よ。どんな時でも乱れない」
 貴婦人の扇の下、意味ありげなくすくす笑いが漏らされる。
 共に美男と評判の高い駐仏ラインラント大使と駐仏バイエルン大使が揃って回廊を歩む姿はまさに美麗の一言に尽きた。
 庭園を見渡す大きな窓から差し込んだ冬の陽光が鏡に反射する回廊はまさに眩いばかり。頭上には巨大な水晶のシャンデリアが煌いていた。
 懇意の貴婦人を見つけたのだろう。ルードビィヒ・フォン・ヴィッツレーヴェンは軽く合図を送り、ディートルフから離れた。
 戯れ、囁き、忍び笑い。そして庭園へ消える二人の後姿を見送りながら、ディートルフは思った。
――成程、二戦目か。
「カッツェンエルンボーゲン大使」
 ディートルフが一人になるのを待ち構えていたのだろう。宮廷貴族の一人が話し掛けてきた。ディートルフはそれに応じながら、周囲を注意深く観察していた。
 あれはマイイ伯爵夫人だ。王妃一筋だった国王が持った初めての寵姫。だが、呼び寄せたばかりの実の妹に王の関心が移ったともっぱらの噂。王の愛が移ろえば、すぐに取り巻きの数が減る。何とも判りやすい図式だ。
 あちらにいるのはトルコ大使だ。帝都への攻撃に対する中立を懇願しに来たのだろうか。同じ旧教徒と言えども、帝国はフランスにとって先祖代々の天敵だ。帝国を排除するためなら、憎き異教徒とも手を組むというのか。敵の敵は味方。考えることは皆同じ。
 ここはフランス人にとっても伏魔殿。それが異邦人ともなれば、どれほどの敵地となろうか。
 だが、祖国ラインラントでぬるま湯に浸かっているよりも、よほど刺激的な人生を送れるだろう。
 そう、ここはありとあらゆる悪徳と退廃を受け入れる、常軌を逸した享楽の地。
 世界の中心、ヴェルサイユ。





 国王との謁見のために控室に通され、もうどれ位経っただろうか。
 帝国の大使、リーンハルト・フォン・ヴェルフェンは何もない控えの間で立ち尽くしていた。
 思えば、当初から異例尽くしだった。大使との謁見はヴェルサイユ宮殿の白眉たる鏡の回廊で行われるのが恒例だと聞いていた。鏡の回廊ではなく謁見室、腰かける椅子一つ置かれていない。そしてこの異常なまでの待ち時間は何だろう。
 リーンハルトは気付いていた。これが自分、ひいては帝国に対する嫌がらせであることを。
 宙返りのアンリから興ったブルボン家如きが、形骸に過ぎぬと言えど帝国を統べる皇帝の代理人である大使に対し、何という侮辱か。
 経験豊かだった前任の大使は病を得、急遽帰国した。次の大使に選ばれたのは年若く、経験も浅いリーンハルトだった。
 皇帝は病いがちであり、現在の皇位継承者は皇女だった。万が一にも皇帝が没すれば、諸邦との間で戦が起こる可能性があった。大使はすぐに送らねばならぬ。だが、経験豊かな者は少ない。
 フランス大使は確かに重責だが、短期間ならば勤まるだろうと思われたのだろう。皇帝はリーンハルトに言った。何もせずとも良い、ヴェルサイユを見て参れ、と。
 ならば、とリーンハルトは表情を引き締めた。失態を犯す訳には行かぬ。怒るな。耐えろ。
 永遠とも思えるほどの長い時間が経過した後で、ようやく扉が開かれ、リーンハルトは謁見室に招かれた。
「……!」
 謁見室に入るなり、リーンハルトは言葉を失った。
 誰もいない。
 耐えろと強く誓ったにも関わらず、馬鹿にされたのだと思い知らされれば、腸が煮えくり返った。
「失礼する!」
 そう言い置くと、リーンハルトは踵を返し、謁見室を後にした。
 怒りのままに広い宮殿内を歩き回り、大理石の階段を駆け上る。気付くとリーンハルトは衛兵の間にいた。
 階下から大勢の人々の足音がする。視線を転じると、階段を上がってくる貴族たちの姿が目に入った。
――あれが国王か。
 王は狩猟服姿だった。
 謁見を放棄して狩猟をしていたのかと思うと滾るものがあったが、衆人環視の中、さらなる恥辱を受ける訳には行かぬ。リーンハルトは目立たぬよう衛兵の間の端に退き、跪き、頭を垂れた。
 あまたの廷臣たちを従えて悠然と歩むその姿は威厳に満ちあふれていた。
 フランス王は二十八歳。十三年におよぶ結婚生活で、王妃に十一人もの子を産ませた王はまさに男盛りだった。政治に興味はなく、幼少時からの家庭教師である枢機卿に丸投げしていると聞いていた。好むものは、狩猟と寝台の上での運動。
 国王が通り過ぎるのを待ってから、リーンハルトは庭に出た。
 ヴェルサイユ自慢の大庭園には背の低い潅木が幾何学模様に配置されている。冬枯れの庭園には眺めるべき花もなかったが、潅木の向こう、一人の貴婦人がベンチに腰を掛け、物思いに耽っていた。
 王の狩猟に同行していたのだろうか。貴婦人も又、狩猟服姿だった。豪奢な黄金の髪は編まずに垂らしたまま、両脇と後ろを折り返してある三角帽子を斜めに被っている。裾が大きく張り出したジュストコール(長上着)にはふんだんに刺繍を施され、煌く宝石の釦で飾られていた。
 麗人の狩猟服姿には倒錯的な魅力があるな、とリーンハルトが思った、その瞬間。
 見られていることに気付いたのだろう。貴婦人が目を上げた。
 まるで身体中の血液が逆流するかのような感覚に囚われた。
 白い、卵形の顔に秀麗な眉目が配されている。眦は高く、高貴な猫を思わせる。瞳の色は混じり気のない黄金(ジョーヌドール)。
 麗人はリーンハルトの姿を認めると黄金の瞳を瞬かせた。そして朱唇に仄かな微笑を刻んだ。
 心臓の鼓動が早鐘を打ち始め、リーンハルトの頬は朱に染まった。気取られまいと視線を地面に落とす。
 国王の寵姫の一人だろうか。帝都のどこを探してもあれほどまでに美しい貴婦人はいないだろう。
 心を落ち着かせてから顔を上げると、既に貴婦人の姿はなかった。
 リーンハルトは広大な庭園にいつまでも佇んでいた。





つづく
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