キャビネ・ノワール 2





 謝肉祭の最終日、パリの歌劇場で仮装舞踏会が催された。
 ヴィザヴィ(ベルリン馬車)やキャロッス(二人乗り四輪馬車)がひっきりなしに停まり、金時計とレースでめかし込んだ従僕が馬車の扉を開くと、装いを凝らした貴族たちが歌劇場に吸い込まれていく。平土間の座席はすべて片付けられ、舞踏会場が作られていた。
「へルメスとはいかにも君らしい」
 歌劇場に入るなり、声を掛けられて驚く。ルードビィヒだった。
 ディートルフはギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話におけるマーキューリーに扮していた。一対の翼の付いた浅い帽子にやはり翼の付いた黄金サンダル。手にするは、二匹の蛇が絡まるカドゥケウスの杖だ。
「アポロンの牛を盗んだヘルメス」
「そう、盗人と詐欺師の守護者だ」 
 二人の時はドイツ語で話すのが慣習となっていた。共にフランス語は母国語同然に話せたが、盗み聞きされぬ用心のためだ。
 ルードビィヒはルイ十三世治世下の銃士に扮していた。羽飾りの付いた帽子と青羅紗のカサック外套がよく似合っていた。ディートルフは目元を隠す仮面(ドミノ)をずらし。
「誰にも見破られまいと思っていたのだが」
「いつも君のことを考えているからかな」
 歯の浮くような台詞を平気で口にする。それがルードビィヒという男だった。
「ふふ、いかにも君が選びそうな仮装だったからね」
 ルードビィヒは階段桟敷の天鵞絨張りの座席を指差し。
「今宵の王は蝙蝠のようだ」
 蝙蝠の仮装をした国王の傍らに羊飼いに扮した貴婦人がはべっていた。身体つきでわかった。ポーリーヌ・フェリシテ、マイイ伯爵夫人の妹だ。
「昨年公式寵姫として認められたばかりだというのに、結局妹に奪われたか」
「誰かが夫探しに奔走することとなるな」
 ポーリーヌ・フェリシテは未婚者だった。ヴェルサイユにおいて未婚の女が公式寵姫になることは許されない。すぐに適当な男が探し出され、形ばかりの夫にされる。
「マイイ伯爵夫人は野心家ではなかった。だが、その妹はどうだろう。さっそく宮殿から姉を追い出すよう王に願い出ているらしいぞ」
 一夜限りの愛人とは違い、公式寵姫は権力を持つ。狩りと性愛にしか興味のない王をけしかけ、政に口を出してくる可能性もある。そのため、王の秘め事はフランス貴族のみならず大使たちの最大の関心事でもあった。
「ところで、新任の帝国大使がヴェルサイユを訪れたそうだな」
「――庭園で見掛けた。気付かなかったのか?」
「君は目敏いな、ディー」
「王が謁見を放棄し狩りに出たことは知っていたからな。宮殿内のどこかにいるだろうと思っていた」
「どんな男だ」
「まだ若いな。経験も乏しいのだろう」
「やはり場繋ぎか」
「恐らく」
 ディートルフは片眉を上げ。
「驚いたな。未だ会っていなかったとは」
 独立を果たしたラインラントとは違い、ヴィッテルスバッハ家が治めるバイエルンは神聖ローマ帝国に属する。皇帝の大使が新しく赴任して来たのなら、挨拶に参じるのが筋だろう。
「皇帝はもはや我らの盟主ではない」
 ルードビィヒは硬い声で言った。彼の最大の目的はバイエルンとフランスとの同盟だった。むろん同盟を結びたがるには理由がある。
「次の皇帝は女などではなく、バイエルンのカール=アルブレヒト閣下こそがふさわしい」
「女帝には前例もある」
「認めるかどうかはまた別の話だ」
 ディートルフは不毛な会話を切り上げると、帝国大使の話に戻った。
「その後、王は謁見室で形ばかりの謁見を執り行ったそうだ」
 ルードビィヒは鼻で笑い。
「トルコ大使より冷遇されるとは」
「仕方あるまい。フランスと帝国は二百年の敵。――噂をすれば、だ」
 ディートルフは視線で注意を促した。人でごった返す歌劇場のロビー。馬蹄型をした階段の下に仮面を着けた帝国の大使が立っていた。
 ルードビィヒは驚いた様子で顔を上げ。
「どうしてわかった?」
 ディートルフは曖昧に首を傾けた。
 何故だろう。
 それはディートルフ自身も不思議に思っていることだった。
 庭園で視線を感じて顔を上げると、そこに帝国の大使がいた。誰に教えられた訳でもなく、すぐにわかった。
 あのドイツ風のジュストコール(長上着)のせいだろうか。
 裾が大きく張り出したジュストコールがヴェルサイユ流。何事もドイツ風はヴェルサイユでは冷笑される。赴任前に前任者に教えを乞わなかったのだろうか。新任の大使はヴェルサイユに乗り込む前にパリで山ほどの当世風の衣装を注文するものだ。
 だが、何故だろう。目が行ってしまう。どうしても視線を逸らすことが出来ない。
「身体つきは良いな」
 ディートルフは容姿も悪くないぞ、と言い掛けて、その言葉を呑み込んだ。
 室内楽団が二拍子の軽快なガヴォットを奏でだした。ルードビィヒはディートルフを促し。
「さあ、今宵は踊り明かそう。明日からは肉断ちだ」
 私は断たぬ、新教徒だからな。という言葉も又、ディートルフは呑み込む。
 まあ、良い。肉断ちの四旬節に備えて、思う存分羽目を外すのが謝肉祭の意義だ。
 ガヴォットの輪の中に入ると、すぐに貴婦人の白い手が差し伸べられた。
「ヘルメス様」
 ディートルフは素早く相手を値踏みした。白いデコルテを露わにアルテミスに扮するのは、美貌を謳われるロシュシュアール公爵夫人だろう。
 だが、相手の正体がわかっても知らぬ振りが約束の仮装舞踏会。
「これは姉上」
 ヘルメスはゼウスの末子。同じくゼウスの子、アポロンと双子のアルテミスはヘルメスの異母姉に当たった。
「今宵は何用で主神に遣わされましたの?」
「パリスを迎えに。だが、もうその必要はないでしょう」
 ギリシャ神話の中でも最も有名な挿話の一つ、パリスの審判。騒乱の女神エリスが投げ入れた黄金の林檎は最も美しい女神に与えられるとされた。争ったのは、ゼウスの正妻たるヘラ、美の女神アフロディーテ、勇ましき戦女神アテナ。ゼウスは羊飼いのパリスにその裁定を任せることにした。パリスの元に遣わされたのは、神々の伝令役たるヘルメス。
「なぜ?」
「最も美しい女神は、ヘラでもアフロディーテでもアテナでもなく」
――こうしていたずらに日々を費やすばかり。
「アルテミスなのだと思い知りましたから」 
 ロシュシュアール公爵夫人は声を立てて笑った。
 ガヴォットの次は四分の三拍子の優美なメヌエットだった。二人は手に手を取り合い、深々と礼をした。
 ディートルフの巧みなリードに合わせて回転する度、ロシュシュアール公爵夫人は階段桟敷の国王に妖艶な流し目を送る。
 国王と一夜を共にしたとの噂があるロシュシュアール公爵夫人。美男と評判のディートルフと踊ることで、王の注目を得ようと考えたのだろう。望むところだ。
 私も又、王の注目を得たいのだから。
 ロシュシュアール公爵夫人はその美しさ、踊りの優美さにおいて、またとない好敵手であった。
――どうすれば王女は手に入る。
 新教はラインラントの国教だ。国王が改宗することは許されぬ。
 花嫁が望むのなら、結婚式を二度行っても良い。二度目は旧教の形式に則って執り行おう。
 だが、フランス王はその見返りに何を望むだろう。
 同盟を結んでも構わない。皇帝は皇女の継承を認めさせるその代わり、領邦にさまざまな餌をばら撒いている。だが、皇帝の死と共に領邦が掌を返すことは火を見るより明らかだ。フランスと手を結んだ方が益があるというもの。
 フランス王の初めての子供は双子だった。ルイーズ・エリザベート姫とアンリエット姫。姉のルイーズ・エリザベートはスペインのフェリペ王子と婚約しており、今年にもヴェルサイユを去る予定だ。残されるアンリエットは十一歳。
 それから夭折した三女、王太子(グラン・ドーファン)と続き、四女のアデライード姫がいる。七歳。修道院に押し込めようとする枢機卿に抗い、王妃が泣いて留めたが故にヴェルサイユにいることを許されている。
 そして枢機卿が修道院に押し込めた年若の王女たち、ヴィクトワール、ソフィー、テレーズ、ルイーズ・マリー。
 国王が熱愛していた王妃を厭い始めたのは、王妃が女ばかり続けて産み落としたためだと宮廷ではまことしやかに囁かれていた。
 しかし両親を早く失い、この世の孤児同然に育った王は、初めて持った双子の王女たちを溺愛していた。ましてルイーズ・エリザベートを手放すと決まった今、アンリエットを容易には手放すまい。
 やはりアデライード姫かヴィクトワール姫が妥当か。だが、子を産める年齢になるまで、後何年かかるだろう。
 メヌエットが終わると、ロシュシュアール公爵夫人はディートルフの耳元に口を寄せて囁いた。
「楽しゅうございましたわ、大使」
 相手を代え、足が疲れるまで踊り、喉が渇くほど囀った。
 既に夜半過ぎ、ディートルフは壁際に退くと、給仕からシャンパングラスを受け取った。
 強い視線を感じた。
――彼か。
 それは予感と言うよりも、むしろ確信に近かった。振り向くと、思った通り、そこに帝国の大使がいた。
 蝋燭を三重に立てた水晶のシャンデリアを背後にして立つその姿。
 まるで後光が差しているようだと、ディートルフは思った。





つづく
Novel