キャビネ・ノワール 3





 密かな期待を抱いていたことは否定できない事実だった。
 あのマダムにもう一度会えぬものか。
 フランス王の公式寵姫はマイイ夫人だ。皇帝がフランスにあまた持つ間者からの情報によれば、容貌はいたって平凡。その心栄えこそが王の心を捉えたのだという。では、あの世にも美しかったマダムはマイイ夫人ではあるまい。
 肉断ちの四旬節に備える謝肉祭の最終日、パリの歌劇場で仮装舞踏会が催されるという。
 仮装舞踏会は貴族が身分を隠して遊ぶために始まった遊びである。そこには宮廷序列は存在せず、国王その人とさえ気安く口を利くことが出来るのだ。
 リーンハルトはドミノ(仮面)を手に、歌劇場へキャロッス(豪華四輪馬車)を飛ばした。
 赴任したばかり、さらに仮面を着けていれば、知り人はいないも同然。リーンハルトは壁の花となり、華やかな舞踏会場をぼんやり眺めていた。
 そこにその女(ひと)がいた。
 仮面を着け、男装をしていてもなお、その美貌は際立っていた。
「あの」
 仮装舞踏会で相手の正体を問うのは無粋の極み。だが、リーンハルトは問わずにいられなかった。
「あの世にも美しいマダムはどなたでいらっしゃる」
 傍らに偶然にも立っていた貴族はリーンハルトの呟きにも似た問いかけを聞き。
「宮廷に出入りされている方ではいらっしゃらない? あの方を存知ないとは、――珍しい」
 言葉のはしばしに嘲弄の響きを感じたリーンハルトはムッとして言い返した。
「私は新任の帝国の大使だ。宮廷の事情には通じていない」
「これは失礼を」
 根は悪い男ではないのだろう。リーンハルトの身分を知るや、貴族は素直に詫びを入れた。
「あれはロシュシュアール公爵夫人。麗人でございましょう。陛下はかつて彼女と一夜の情事を楽しまれたことがあるとか」
 その言葉を耳にした途端、鉛を飲んだかのように胸が重く、熱くなった。やはり国王と縁のある女(ひと)であったか。
「この舞踏会場で一番の美男子を相手に選ぶとは、何と抜け目ない」
 相手が何を言っているのかわからず、リーンハルトは瞳を瞬かせた。そのロシュシュアール公爵夫人の手を取り、優美なメヌエットを踊っているのは、アルテミスに扮した美しい貴婦人だったからだ。
「御覧なさい、陛下の目を釘付けだ」
 と貴族が指差す階段桟敷には天下のフランス王の姿があった。
「陛下に妬かせようという腹なのでしょう。女というものはどうにも度し難い生き物だ」
 まさか、だ。だが、ひよっとして。
 リーンハルトはさりげなく問いかけてみた。
「あの美男子は」
「ラインラントの駐仏大使、カッツェンエルンボーゲン伯。ドミノ(仮面)を着けていても、すぐにわかりますな。辺りを払う美貌とは、まさにあのことを言うのでしょう」
 ムッシューなのか、マダムではなく。
 リーンハルトが性別を見誤ったのは無理からぬことだった。襟の詰まった狩猟服の上衣に男女の区別はなく、あの時カッツェンエルンボーゲン伯は座っていた。何よりも女めいたあの美貌。
「だが、なかなかに冷たく。私共とは容易に遊んでは下さらない。つれない方だ」
 その言葉に奇妙な熱っぽさを感じたリーンハルトはまじまじと傍らの貴族を見た。
「大使殿はあちらの趣味は皆無でいらっしゃる? フランス宮廷ではその種の性癖を持った王族が一代ごとにおられるのです。先王の弟、ムッシューことフィリップ・ドルレアンのことはご存知か。それ故、我が宮廷は伝統的に男色には寛容なのですよ」
 喋りすぎたか、とばかり相手は肩を竦めて笑った。
「申し遅れましたな。私はオーギュスト=フランソワ・デュヴァリエ。伯爵です。どうぞよろしくお見知りおきを」
 仮面をずらして素顔を晒し、男色家の貴族はその場から去った。
 仮装舞踏会はいよいよ盛り上がりを見せていったが、リーンハルトはどうしてもその場から離れることが出来なかった。精力的に踊り、その魅力を惜しげもなく辺りに振りまくカッツェンエルンボーゲン伯から目が離せなかった。
 世にも美しいマダムだと思っていたその女は、男性で、しかもかつては同じ帝国に属していた邦の大使だった。さらにカッツェンエルンボーゲン伯爵家と言えば、ヴェルフ伯爵家とは浅からぬ因縁のある家系だ。
 夜は更けていき、やがてひとしきり踊り終えたカッツェンエルンボーゲン伯が壁際に退いた。話しかけるなら今が好機だろう。だが、どうしてもその最初の一歩が踏み出せなかった。
 世にも魅力的なその相手。今動かなければ、すぐに他人にその好機を奪われてしまうだろう。
 それを誰よりも知りつつも、しかしリーンハルトは動けずにいた。ああ、どうか。どうか、動け、この足よ。
 祈りにも似たリーンハルトの思い願いが届いたのか。
 カッツェンエルンボーゲン伯が振り返った。
 リーンハルトの姿を認めると微笑し、そしてまっすぐにこちらに向かってきた。
 薔薇の花弁を思わせる朱唇が紡いだのは、紛れもないドイツ語だった。
「仮装は間に合いませんでしたか、大使」
 大使、と看破されて驚く。やがて仮面を着けただけの自分の姿を差しての発言と気付き。
「あいにくと赴任したばかりのため。――カッツェンエルンボーゲン伯」
 カッツェンエルンボーゲン伯はその黄金の瞳を面白そうに煌かせた。
「さきほどまでこちらにいらっしゃったフランスの伯爵に伺いました。デュヴァリエ伯とか」
 カッツェンエルンボーゲン伯は再び瞳を煌かせたものの、口にしては何も言わなかった。
「以前、あなたを庭園でお見かけした」
「私も気付いておりました。あなたのドイツ風のジュストコール(長上着)を見て、すぐに帝国の大使と知れたもので」
 その言葉に嘲りの響きはなかったが、リーンハルトは僅かに赤くなった。赴任前に帝都で誂えた衣装はヴェルサイユにおいてはすべてが流行遅れに見えたからだ。病床の前任者に遠慮するあまり、教授を乞わなかったことをどんなに後悔したことか。
 リーンハルトの内心の思いを知ってか知らずか、カッツェンエルンボーゲン伯は世にも涼しい顔で。
「貴方は実に間の悪い時にヴェルサイユにいらっしゃったものだ。今のヴェルサイユでは帝国の立場は甚だ不安定なものだ」
 リーンハルトは顔色を変えた。
「味方をしては下さらないのか。プロイセンは、ザクセンは、バイエルンは。……ラインラントは」
 リーンハルトは帝国内の有力小邦の名を次々に挙げた後で、最後に相手の国を付け加えた。
「プロイセンはシュレジェンを、ザクセンはモラヴィアを、バイエルンは皇帝の座を狙っている」
 カッツェンエルンボーゲン伯の言葉は皇女という名の小鹿に群がる狼の群れを想像させた。
「我がラインラントは適齢期となった王子の結婚相手を求めております。だが、皇女を所望することは出来ますまい。ご存知の通り、我が国は新教国で、旧教の帝国とは相容れぬ。そして未来の女帝たる皇女が婿君を迎えた今、皇帝はたった一人の皇女しか持ちあわせがない」
 カッツェンエルンボーゲン伯は通りかかった従僕を呼び止め、リーンハルトのためにシャンパンを取った。
「ヴェルサイユが長年の宿敵である帝国の大使を諸手を挙げて歓迎してくれると思うほど愚鈍ではないつもり」
 差し出されたグラスを受け取り、リーンハルトは言葉を連ねた。
「私は覚悟を決めてここに来た。ヴェルサイユは毒蛇の巣窟。――そうでございましょう」
「申し訳ない。私はあなたを少々みくびっていたのかもしれない」
 グラスを目の高さにまで掲げ、カッツェンエルンボーゲン伯は言った。
「ヴェルサイユが歓迎せずとも私があなたを歓迎いたしましょう。帝国はかつての盟主であり、私とあなたの先祖には浅からぬ因縁がある」
「ああ」
 リーンハルトはそこで初めて相好を崩し。
「ラインの塔にはどなたがおわす」
 りんりん りんりん 金ぴかりん ラインの搭には どなたがおわす
 それは中世から伝わる古い童謡の一節だった。遠い昔、ヴェルフ伯はカッツェンエルンボーゲン伯の虜囚となったのだという。ヴェルフ伯は一度は牢から脱出を果たしたものの、麗しき騎士道精神に基づき、自らカッツェンエルンボーゲン伯の元に戻った。
 そんな逸話と共に残るこの童謡は、今なお子供たちの間で歌い継がれていた。
「大使の先祖が滞在した城壁塔は太陽王の砲撃にすら耐え抜き、未だ現存いたします」
「楽しそうだな」
 突如二人の間に割って入った声。
「僕にも帝国の大使を紹介してくれないか、ディー」
 青羅紗のカサック外套を纏うその男が発した言葉も、やはりドイツ語であった。カッツェンエルンボーゲン伯とは傾向は異なるものの、上背のある美しい男だ。
「彼はルードビィヒ・フォン・ヴィッツレーヴェン、駐仏バイエルン大使です」
 バイエルン、と聞いて納得する。ルードビィヒのドイツ語には明らかに南の響きがあったからだ。リーンハルトは差し出された手を無感動に握り返した。
「リーンハルト・フォン・ヴェルフェン。――よろしく、大使殿」
 虎視眈々と皇帝の座を狙うバイエルン。帝国にとっては獅子身中の虫だ。
「もう帝国の大使殿からヴェルサイユの感想は聞いたかい、ディー」
 カッツェンエルンボーゲン伯の愛称なのだろうが、バイエルン大使がことさらにディーと響かせるのが気に障る。まるで親しさを見せ付けているようにさえ思えた。
「一度ヴェルサイユを見てしまえば、ホーフブルクも色褪せて見えましょう」
 皇帝の居城であるホーフブルク宮殿とて、太陽王が莫大な費用と半世紀の歳月を費やして造ったヴェルサイユに比較すれば、一段と劣ることは否めなかった。だが、形だけとはいえバイエルンの盟主たる帝国の大使という矜持が頷かせることを拒ませた。
「ホーフブルクが色褪せて見えるなら、我がラインラントのニンフェンベルク宮殿など田舎のあばら家同然」
 リーンハルトに助け舟を出したのは、カッツェンエルンボーゲン伯だった。
「領邦君主の小宮廷はすべからく矮小なヴェルサイユ」
「そしてその手前勝手な領邦国家の寄せ集めが、我らが帝国という訳か」
 ルードヴィヒはそう締めくくると、懐中時計を取り出し、時間を確かめた。
「十二時を回った。日付が変わったな」
 浮かれ騒ぐ謝肉祭は終わった。日付が変われば、もはや灰の水曜日。仮装姿の者の頭上に振り掛けられる灰がカーニヴァルの熱狂を鎮めるだろう。
「そろそろ行こう、ディー」
 気のせいだろうか。カッツェンエルンボーゲン伯はその場から立ち去りがたいように、リーンハルトの目に映った。
「ディー」
 再び呼びかけられ、ようやくカッツェンエルンボーゲン伯は踵を返した。
「では、またいずれ。大使殿」
 リーンハルトはまるで砂糖漬けの菓子を溶かすように、その言葉を口の中で何度も転がした。





つづく
Novel