キャビネ・ノワール 10 |
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――また来ていらっしゃるわ。 バルコニー席を覗き見て、ローザリンデは思った。 輝く黄金の髪は舞台袖からでもわかった。 どんな大舞台を前にしても動揺したことのないローザリンデだった。しかし今、ローザリンデの胸の鼓動は早鐘を打っていた。 奥様がいるだと聞いていた。 だが、もしあの方に妻がいなかったとしても、それが一体何の意味を持つのだろう。あの方と自分では身分が違い過ぎる。 舞台が跳ねた後で、再び誘われたらどうすれば良いのだろう。 断らなければ……、劇場主にどんなに渋い顔をされようとも。 だって、ローザリンデは舞台衣装の裾を強く握り締めた。 今宵求められれば、きっと抗えない。あの男(ひと)へ向かうこの思いはきっと抑えられない。 自分に注がれる視線に気付いたのか、バルコニー席のその男がふと顔を上げた。 男はそこにローザリンデの姿を認めると、心底から嬉しそうに微笑んだ。 壁面に張り出したバルコニー席からは舞台袖のローザリンデが見えるのだ。 いいえ。 その瞬間、ローザリンデは決意した。 遊びでも、一夜の戯れでも構わない、 あの方と身体を繋げることが出来たらどんなにか幸せだろう。 たとえ一生を日陰の身で終わるとしても。 あの世にも美しい男(ひと)と。 どれほどの時間が経ったのだろうか。 既に日は落ち、部屋は闇に落ちていた。カッツェンエルンボーゲン伯は大儀そうに立ち上がると、絹のガウンを身に纏い、燭台に火を点した。 「どうする? この国の王に訴えるか」 燭台の炎は寝室の壁に二人の影を長く落とす。 リーンハルトの手首の戒めを解きながら、カッツェンエルンボーゲン伯は言った。 元より荒れ放題だった部屋はさらなる惨状を呈していた。くしゃくしゃになった敷布は血と、誰のものとも知れぬ体液で穢れていた。 「残念ながら、私はフランス王の臣下ではない。だが訴えれば、きっと本国に早馬が飛ぶだろう。そして私は貴公の大叔父たるラインラント王から苦言を呈されるという訳だ」 カッツェンエルンボーゲン伯は嗤い。 「私は本国に強制送還されるかもしれぬな」 「まさか」 リーンハルトはのろのろと身体を起こした。身体が軋むように痛む。 「訴えなどしない」 「――」 カッツェンエルンボーゲン伯はふと真顔になり、額に垂れかかる前髪をかき上げた。 争っている間に鎖が切れたのだろう。寝台の脇にリーンハルトのペンダントが落ちていた。カッツェンエルンボーゲン伯は身を屈め、それを拾い上げた。開閉式の蓋が開いていた。 旧教徒は通常そこにイコン(聖像)を収める。しかしリーンハルトはそこに聖像でなく、女の絵姿を忍ばせていた。 「誰だ」 「ローザリンデ、女優だ」 カッツェンエルンボーゲン伯は弓なりの眉を上げ。 「ドイツ人の名だが」 「我らが帝都にも劇場はある」 「黒髪だな。私好みだ」 言葉の内容とは裏腹にさして興味はなさそうな口振りだった。カッツェンエルンボーゲン伯はリーンハルトにペンダントを戻した。 「貴公の愛人か?」 リーンハルトは曖昧に首を振った。 カッツェンエルンボーゲン伯はワゴンから水差しを取り上げると、グラスに水を注いだ。そのグラスをリーンハルトに手渡す。 「カッツェンエルンボーゲン大使」 グラスを受け取りながら、リーンハルトは言った。 「訴えぬその代わり、――交換条件だ」 「何だ」 グラスの縁に口に付け、一息に飲み干す。乾いた喉に流れ込む水はまさしく甘露だった。 「私の初めてを奪ったのだから、貴公は立ち直らなければならぬ」 カッツェンエルンボーゲン伯は声を上げて笑った。 「貴公は面白い男だな」 寝台の脇に椅子を持ってくると、カッツェンエルンボーゲン伯はそこに腰を下ろした。 「では、貴公の馬鹿正直さに免じて忠告しよう。今後一切、私に近付くなと」 心持ち首を傾け、カッツェンエルンボーゲン伯は言った。 「何故なら、私はフェーデを執行するつもりでいるからだ」 フェーデ、それは自力救済のことである。いわゆる私闘、決闘も自力救済の一種であり、復讐行為そのものを指すこともあった。 法権力が磐石でない中世には頻繁に行われていた。身内を殺された者、財産を奪われた者、名誉を傷つけられた者。その本人および親族が、加害者とその親族に対して実力を行使する。それは合法とされていた。 「フランスの地で、フランス王に復讐を挑むつもりか」 「フランス王に近い場所にいる者だろうが、フランス王ではないだろう。ならば、全く手が出せない訳でもない」 リーンハルトは沈黙した。カッツェンエルンボーゲン伯は口には出さなかったが、暗にそれを示唆していた。スクレ・ドゥ・ロワ、王の秘密機関だ。背後にいるのは恐らく――。 「消されるぞ」 「赤帽子にか」 カッツェンエルンボーゲン伯はズバリと切り込んだ。カトリック教会において教皇に次ぐ高位聖職者である枢機卿。枢機卿は緋の衣と帽子を被ることが許される。そのため、それを揶揄して赤帽子と呼ばれるのだ。 リーンハルトはその言葉には反応せず、違うことを口にした。 「貴公が死んだら故国の王子の花嫁探しはどうなる」 「ああ」 カッツェンエルンボーゲン伯は意外なほどにあっさりと。 「まるで憑き物が落ちたようだ。良いのだ、もう……」 カッツェンエルンボーゲン伯が良くても王子は、本国はそうではないだろう。それとも花嫁探しはカッツェンエルンボーゲン伯の独断で行っていたことなのか。胸に生じた疑念はしかし言葉には出来なかった。 「王子の花嫁探しは、元を正せば、私の独善から起こったこと」 表情を読んだのだろう。まるでリーンハルトの心中を見透かしたかのようにカッツェンエルンボーゲン伯は言った。 「王子は貴賎結婚によって誕生した。王子の母君は伯爵の娘だった」 王侯の結婚相手は王侯と決まっている。王女もしくは公女だ。少なくとも、君主の子女でなければならない。その身分にあまりの隔たりがあれば、生まれてくる子供の王位継承権は剥奪される。 しかし概ね家法に左右されるため、貴族であれば認められることもある。ラインラントの王子の場合は伯領国の君主の娘として認められたのだろう。絶対君主制を敷くフランス王国と違い、大小さまざまな領邦から成り立つドイツの領邦国家のラインラントであれば、納得の行く話である。 「私は思っていた。王子には血統正しき姫、フランスの王女こそがふさわしいと」 カッツェンエルンボーゲン伯はラインラントの王子の母方の従兄弟だと聞いていた。王位を巡り、醜い争いを繰り広げる父方の親族とは違い、母方であればこその親しい仲なのだろう。だからこそ許される。いかに親族といえど、王家の血筋を取り沙汰するのは不敬の謗りを免れぬからだ。 「フランス王女に執拗に拘る私にルードヴィヒは言った。王子の出自を誤魔化すために王妃で粉飾しようとしていると。まさしくその通りだ。なのに私は聞く耳を持たなかった」 カッツェンエルンボーゲン伯の言葉には深い後悔の響きがあった。 「今更悔やんでも詮無きこと。だが、このままでは終わらせない。必ず仇は取る」 宣言するように言って、カッツェンエルンボーゲン伯は立ち上がった。 「これでよくわかったろう。私の近くにいると、近い将来、貴公は痛くもない腹を探られることになる」 だから近付くな、と。 リーンハルトは考え込んでいた、長いこと。 ふと手を見た。手には鎖の切れたペンダントがあった。 ローザリンデ、貴女ならどうしたろう。こんな時、何と言うだろう。 そう、貴女ならきっと……。 「カッツェンエルンボーゲン大使」 顔を上げ、リーンハルトは言った。 「私に協力をさせてはくれないか」 |
つづく |
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