キャビネ・ノワール 11





 アンリ四世妃、マリー・ド・メディシス。フィレンツェを支配するメディチ家出身の王妃であった。
 そのマリー・ド・メディシスに付き従って渡仏し、商売特権を得たメレリオ宝石商。創業から百年をゆうに越え、フランス王室はもちろん欧州各邦の王室からの信頼も厚かった。
 職業柄、人を見る目に長けたメレリオは、その青年を見た瞬間、確信した。
 どこかの領邦の王族が身をやつして宝石(いし)を売りに来たのであろうと。
 はっと息を飲むほどの美貌の持ち主であった。髪と瞳の色は混じり気のない黄金で、その水際立った容姿はむしろ禍々しさすら感じさせるほどだった。
 青年は黙って宝石を差し出した。
 読み誤ったか、と思った。小さなガーネットであったからだ。 カッティングは精緻の一言に尽きる。だが、所詮はガーネット。
 もっとよく見ようと身体を乗り出し、メレリオは気付いた。
 それが世にも珍しいブルーダイヤモンドを遥かに凌駕する、希少なレッドダイヤモンドであることに。
 青年は言った。
 まるで説明の必要などないとでも言うように。
「いくらの値を付ける」
 天文学的な偶然が積み重なって生み出される、伝説のレッドダイヤモンド。どの国の王族も喉から手が出るほど欲しい一品の筈だった。
 そしてこの種の客は即金を望む。鑑定や交渉に時間をかけて、手に入れ損ねる愚は冒したくなかった。
 メレリオは即答した。
「十万リーブルでいかがでございましょう」
 メレリオの先祖は摂政女王マリー・ド・メディシスから商売特権を得るにあたり、小説の一本も編めそうなほどの大冒険をした。その血脈は現当主であるメレリオにも受け継がれていた。
 そう、危険を冒さなくて何の人生ぞ。
「結構」
 提示した莫大な額。されどそれが妥当であったと知り、メレリオは大いに胸を撫で下ろした。メレリオはさらに続けて。
「まずは一万、ルイ金貨でよろしいでしょうか」
「構わぬ」
 青年は手付けの一万リーブルを受け取ると、パリの闇の中に消えていった。 
 メレリオはその後姿をいつまでも見送っていた。
 青年に外国語の訛りはまったくなかった。
 さて、どの領邦(くに)の王族か。
 その後、メレリオは密かに同胞に問い合わせた。宝石商仲間ではない。薬屋から身を興した大いなる成り上がり、メディチ家により創設された秘密結社。メレリオはその構成員であった。
 欧州各地に散った同胞はそれぞれの地にしっかりと根を下ろしながらも、なお結束を固めていた。
 回答は間もなくアキテインの同胞からもたらされた。そしてメレリオは知った。自分が十万リーブルで手に入れた宝石こそがラインラント王国の至宝、紅のラインラントであったことを。





 密やかなノック音がし、リーンハルトは椅子から立ち上がった。
 リーンハルトが扉を開けると、男はフードを下ろしながら部屋の中に入って来た。
「本国からは状況を知らせろと矢の催促」
「何と返事を?」
 座るようにと椅子を示しながら、リーンハルトは尋ねた。
「何もわからないのですから、返事の書きようがありませぬ」
 男のドイツ語には南の訛りがあった。
「じきに後任が参りましょう。その方の指示を仰ぐより他は」
「ラインラントの大使は? 何も知らないのか」
「閣下とは大変親しい仲でございましたが、存じないでしょう。線引きはされる方でございましたから」
「君の主人は一体何をしていたのだ」
「フランス王の秘密を探っておられました」
 リーンハルトの前任者はフランス全土に蜘蛛の巣のような情報網を作り上げた。リーンハルトはその蜘蛛の巣に獲物が掛っていないか、たわみはないか確認するだけで良かった。巧妙に張り巡らされた蜘蛛の糸はバイエルン大使が本国から連れて来た従者にも及んでいた。
「それ故、殺されたのか。その秘密とは何なのか」
「存じ上げませぬ」
 男の言葉に嘘はないようだった。
 男は新教徒だった。旧教徒である主人にその事実を知られようものなら、失職し、本国にも帰れなくなったことだろう。
 各邦の大使の動向に目を光らせていた前任の帝国大使はいち早くその事実を掴み、男を帝国の密偵として飼い慣らしていたのだった。
 男は布袋に手を入れると、そこから紙の束を取り出した。
「閣下の屑物籠から拾い上げたものです。焚き付けに使うように言いつけられておりましたが、必要になるかと思い、保管しておきました」
「感謝する」
 リーンハルトは机の抽斗(ひきだし)から革の財布を取り出すと、それを男に渡した。男は礼を言ってそれを受け取った。
 別れ際にリーンハルトは言った。
「お悔やみを申し上げる」
 男は目を伏せ。
「良き主人でございました」
 男が帰るや、リーンハルトは机の上に紙の束を広げた。
 フランス王の秘密機関は一流の盗読部門を持っていた。手紙を盗読、暗号文を解読する、その名はキャビネ・ノワール(黒い部屋)
 それを知る各邦の大使たちは、大事な手紙はより高度な暗号文にして本国に書き送っていた。万が一にも使者が途中で襲われ、手紙が奪われたとしても問題なきように。
 バイエルンの大使が迂闊にも秘密を書き残しているとは思えない。だが、何かの手掛かりはあるかもしれない。
 ほとんどが恋文の書き損じだった。宛先は推測にしか過ぎないが、公爵夫人、伯爵夫人、未婚の生娘から高級娼婦に至るまで多岐に渡っているようだった。とんだ放蕩者のようだが、大使としては世にも優秀な男だったのかもしれない。
 弱みやルイ金貨で人を操るよりも、女の情に訴えた方がやりやすい場合もある。
 美しいフランス語で綴られた手紙の数々。文章も心を打つもので、大使がいかに女心を掴むのに長けていたかが伺えた。
 リーンハルトはある呼びかけに目を止めた。
 ママン・ラ・デュシェス。
 印象的な呼びかけを考えてでもいたのだろうか。そこには二重線が引かれ、次にママン・シャルロットとあった。
 ラ・デュシェスは公爵夫人という意味だ。
 相手は公爵夫人であると同時に、母親でもあるのだろう。そして名前がシャルロット……。
 突然ある名前が浮かび、リーンハルトは弾かれたように立ち上がった。
「……シャルロット、シャルロット・ド・ラ・モート=ウーダンクール……」
 ヴァンタドゥール夫人の呼称で知られる、シャルロット・ド・ラ・モート=ウーダンクール。
 フランス王の元家庭教師であり、この世の孤児同然に育った王が唯一、母と呼ぶ相手であった。





つづく
Novel