キャビネ・ノワール 12 |
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故国からの手紙はいつも通り暗号で届いていた。 ヴィジュネル暗号、それは多表式の換字式暗号のことである。 互いに同じ表を用いて解読する。 表向きこの手紙はラインラントの外務大臣から駐仏大使への注意書きという体裁を取っていた。 蝋燭の炎で炙ると、その下に書かれているあぶりだし文字が浮き上がる。 ディートルフは長い時間を掛けて、ヴィジュネル暗号で書かれたその手紙を解読した。 我が従兄弟の君、元気だろうか。 こちらは恙無く(つつがなく)と言いたいところだが、良くない知らせだ。我らが国王陛下の容態が思わしくない。 君に一目会ってから死にたいと毎日のように言っておられる。子無き陛下にとって、僕たちの存在が心の拠り所となっているのだろう。 戻って来て欲しい、それもなるべく早いうちに。 忘れないでくれ、僕の黄金の狼、僕の半身。 僕は何があっても君の味方だということを。 君の苦悩は僕の苦悩、君の望みは僕の望みだ。 愛をこめて。 ディートルフは立ち上がり、寄木細工の箪笥の扉を開けた。 そこには十挺の短銃が用意されていた。 ラインラントの至宝を売り払い、手付けの一万リーブルの一部を使って用意したのは、最新鋭の技術である雷管式の短銃であった。銃は連射が利かない。撃つばかりにした銃を何挺も用意する必要があった。 脳裏に従兄弟の顔を思い浮かべた。 私が死んだら君はきっと泣くだろう。だが、それでも私は――。 私はもう、自分を偽って生きたくはないのだ。 復讐を果たしたその時こそ、フランスの王女を求めた愚行、心を蝕むこの懊悩から開放されるかもしれない。 扉を閉めると、ディートルフはルードヴィヒからの最後の手紙を読み返した。そしてこの手紙が悪名高いキャビネ・ノワールの目をかいくぐり、自分の手に届いた幸運に感謝した。 ルードヴィヒにはもっと自分に伝えたいことがあったはずだった。恐らく危機が迫っていたため、暗号文を作る時間がなかったのだろう。 だからこそ、奪われても読まれても差しさわりのない文しか綴れなかった。そう、この手紙は読まれてもさして問題はない。 ディートルフはふいに眉を潜めた。 ひょっとしたら、ルードヴィヒは意図して読まれても問題のない文を表に書いたのかもしれない。 まさか……。 ディートルフが震える手で蝋燭の炎に手紙を近付けると、鮮やかにあぶりだし文字が浮かび上がった。 その、まさか、か。 あぶりだしにはこう記されていた。 アドニスは誰から生まれた? ふいに扉が叩かれ、ディートルフは急いでルードヴィヒの手紙を服の隠しに仕舞った。 小間使いは帝国大使の来訪を厳かに告げた。 「ヴァンタドゥール夫人?」 耳を疑った。 ヴァンタドゥール夫人は王の最初の家庭教師として名高い。幼き王の養育をフルーリー枢機卿に引き継ぐ時、涙の別れをしたという。 「存命と聞いてはいたが、既に九十に手が届こうという老齢のはずだ」 「親交があったかもしれない。少なくとも手紙を書き送ろうとしていた形跡があった」 ディートルフは肩をそびやかした。 流石は帝国。使用人を懐柔していたか。我がラインラントとて、どこまで帝国に掌握されていることか。 「王の秘密を知る者として、確かにヴァンタドゥール夫人以上の存在はいないだろうな」 そして老齢故に宮廷人にとっては忘れられた存在だった。目の付け所としては悪くない。王が母と慕う老婦人に接触し、ルードヴィヒは一体何を知ったのか……。 ディートルフは爪を噛んで考え込んだ。 自分に注がれる視線に気付いて顔を上げる。帝国の大使はひどく緊張した面持ちでいた。 「悩んでいるのだろう。私にどこまでを打ち明け、どこまでを伏せるべきか」 協力を申し出たものの、何もかも洗いざらい打ち明けることは出来ない相談だったろう。それはすなわち帝国の手の内を明かすのと同じだからだ。 「すべてを打ち明ける必要などない。その気持ちだけで充分だ」 重々しい沈黙を誤魔化そうと、ディートルフは白葡萄酒の壜を取った。 「我が領地で産出されるシュタインベルガーだ」 葡萄酒を注いだグラスを大使に手渡す。乾杯の所作を取ったものの、大使はいつまでもグラスに口を付けぬままでいた。 やがて思い切った様子で口を開き。 「貴公は死ぬつもりなのか」 ディートルフは答えなかった。帝国の大使は続けて。 「そこまで危険な橋を渡る必要はないのではないか。命令を下したのが誰であれ、下手人は別にいる」 ディートルフはグラスをテーブルの上に置くと。 「私とて自殺願望がある訳ではない」 「貴公に協力を申し出たのは、時間稼ぎをしたかったからだ。バイエルン大使が殺された理由を突き止める。その間に貴公が落ち着きを取り戻すことに一縷の望みを託した。あの時の貴公は」 大使は唇を噛んだ。 「今にも枢機卿と刺し違えかねなかった……」 「貴公は本当に面白い、いや、不思議な男だな。なぜ私のためにそれほど必死になる。貴公がしていることは帝国に対する背信だぞ」 「わからない。だが、何故だろう、私は貴公をよく知っているように思うのだ。人は、先祖からの記憶を持って生まれて来ると聞いたことがある」 「貴公の先祖を人質に取った我が先祖との記憶か」 笑い飛ばそうとしたが、上手くいかなかった。 初めて会った時から感じていた既視感。 ヴェルサイユの庭園で、歌劇場で、まるで後光が差しているように感じられたのは何故なのか。それは大使が国王陛下に似ているからだとばかり思っていた。だが、それだけではないのかもしれない。 血なのか。私はヴェルフの血に惹かれているのか。 そして彼もまた私の血に惹かれている。 この私の血に――。 乾いた笑いが唇から漏れた。 「そろそろ居館にお戻りになられるが良い。私は友の死に衝撃を受け、未だ伏せっているということになっている。見舞いが長引けば、不審に思われよう」 大使は顔を上げた。黒瑪瑙の瞳が大きく見開かれ、それから伏せられた。言葉は出さない。だが、その瞳が大使の心中を雄弁に語っていた。 ディートルフは大使の手に自分の手を重ねた。 そしてこう言った。 「帰宅の後、人目に付かない場所で辻馬車を拾い、戻って来られるが良い。それまで私は起きて待っていよう」 |
つづく |
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