キャビネ・ノワール 14





 ヴァンタドゥール夫人はヴェルサイユにあるグラティニー城館に住んでいた。
 ディートルフはグラティニー城館に手紙を書き送った。
 ルードヴィヒの名前を出した上で、共に友の話をして悼みたいと願い出たところ、驚いたことに受諾の返事が返ってきた。
 しかしながらラインラントと帝国の大使が雁首を揃えて、王の元家庭教師を訪問する訳にはいかないだろう。
 ディートルフがそう言ってリーンハルトを遠ざけようとすると、リーンハルトは言った。
「それなら、私は貴公の従者として同行しよう。ヴァンタドゥール夫人は私の顔を知らぬのだから」
 かくして二人はキャロッス(豪華四輪馬車)に乗り込み、フランス王の最初の家庭教師、ヴァンタドゥール夫人の元に赴いた。
 ヴァンタドゥール夫人こと、シャルロット・ド・ラ・モート=ウーダンクールは伝説的な女性であった。 
 父はカルドヌ公爵、母はやはり王家の家庭教師であったルイーズ・ド・プリー。成人を迎えると、ヴァンタドゥール公爵であるルイ・シャルル・ド・レヴィと結婚した。
 フランス宮廷において最大の名誉とされる、王族の御前で床几に座る特権(タブレ権) それを得るために、醜く、性的にも放埓なヴァンタドゥール公爵と結婚したといわれる彼女は、権勢欲の強い女性だった。
 王にママンと慕われ、王太子の養育にも当たり、一時は権勢を極めたものの、老齢に達した今は宮廷を下がり、王から下賜される莫大な年金を元手に壮麗なグラティニー城館に住んでいた。
「お初にお目にかかります」
 ヴァンタドゥール夫人はその年齢にすれば……という但し書きがつくものの、美しかった。背はすらりと高く、体躯は堂々としたもの。深い皺の刻まれたその顔からは、内に潜む豊かな知性を感じさせられた。
「貴方のことはかねてから聞いておりました、ラインラントの大使殿」
 ヴァンタドゥール夫人は当然のように手を差し伸べてきた。その手を取り、甲に口付けを落とす。
「私には美しい友がいると」
「ヴィッツレーヴェン大使が?」
「よく貴方のお噂をされておりました」
 宮廷を退いた彼女に一体どこで会ったというのだろう。
 ふふ、決まっているな。
 受諾の返事を受け取った時から予期していたものの、ヴァンタドゥール夫人のその言葉を聞き、今それは確信に変わった。二人は男女の関係にあったのだろう。
 宮廷では三十を過ぎれば既に老婆扱い。ましてや九十に手が届こうとする彼女。
――流石だ、ルッツ。君はバイエルン公にとって得がたい大使だった。
 ヴァンタドゥール夫人の許可を待ってから、ディートルフは椅子に腰を下ろした。
「かの君の遺品をお持ちとか」
「はい」
 ディートルフは従者に扮したリーンハルトに命じ、懐中時計を捧げ持たせた。
 蓋裏に名前の頭文字であるRの文字が刻まれた懐中時計。それはルードヴィヒがディートルフの居館に泊まっていった時、忘れていったものだった。友を忍ぶ唯一のよすがであったが、友の復讐を遂げるためとあれば、ディートルフはそれを投げ出すことすら厭わなかった。
 ヴァンタドゥール夫人はそれを押し頂くようにして手にし、やがてそれを頬に押し当てた。皺の寄ったその顔に涙が一筋、二筋と流れ落ちた。
「何故……何故……」
 ディートルフは覚悟を決めて口を開いた。
「知ってはならぬことを知ってしまったからでしょう」
 ヴァンタドゥール夫人は虚を突かれた様子で顔を上げると、ディートルフに人払いを命じた。
「閣下、私は馬車にて控えております」
 リーンハルトが一礼して居室を後にするや、ヴァンタドゥール夫人は畏れに満ちた視線をディートルフに注ぎ。
「まさか、陛下が?」
「貴女様が手ずから育て上げた陛下に限ってそのようなことはなさらぬでしょう。陛下の養育権を貴女様の手から奪ったあの方ではないかと」
「そう……」
 ヴァンタドゥール夫人は椅子の肘もたれを強く握り締めた。
「アンドレ=エルキュールの仕業という訳」
 アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー。
 時の宰相を呼び捨てにする不敬をヴァンタドゥール夫人は平然と行った。
「ええ、ええ、そうでしょう。あの男はバイエルンとの同盟を渋っていたわ。あの老いぼれめが!」 
 自分より二歳歳下の男を老いぼれ呼ばわりする滑稽さにも、ヴァンタドゥール夫人は未だ気付かぬようだった。
「そう、知ってはならぬことをあの方に知らしめたのはわたくし。それを武器にあの方はアンドレ=エルキュールとの交渉に及んだ。けれどあの方が殺されてしまった今となっては、フランスとバイエルンとの秘密同盟も破棄されたのでしょう」
 ヴァンタドゥール夫人は杖も用いることなく、決然と立ち上がると。
「ラインラントの大使殿、貴方にお願いがあります。かの君の悲願であった、フランスとバイエルンとの秘密同盟を再び締結して頂きたいのです。もちろん私も尽力を惜しまぬつもりです」
 フルーリー枢機卿はルイ十三世の宰相、リシュリュー枢機卿と並び証される名宰相とされていた。
 だが、妻帯を許されぬ旧教の聖職者故に一点だけ読み誤ったのだろう。一国との同盟と愛する男の死を天秤にかける、女の情念を。
 女は、死ぬまで女なのだ。
「そのためには貴方も知らなければなりません。誰も知らない、王の秘密を」
 そしてヴァンタドゥール夫人は告げたのだ。
 ルードヴィヒが命を賭けて探り当てた、世にも残酷な、世にもおぞましい、――真実を。





 蒼白な顔で馬車に戻ってきたディートルフを見て、リーンハルトは何か間違いがあったのだと思った。
 だが、何を尋ねても、ディートルフは手を挙げてリーンハルトを制するばかりだった。
「大丈夫だ。――出してくれ」
 ディートルフの命を聞き、御者は馬に一鞭をくれた。
 吐き気を堪えるかのように口に手を当てていたディートルフだったが、喉奥から声を絞り出すようにして呟いた。
「成る程、……アドニスか」
 アドニスはアフロディーテとぺルセフォネーの二人の女神に愛された美青年だ。
 二人の女神はアドニスを取り合い、裁判に持ち込んだ。裁判の結果、アドニスは一年の三分の一をぺルセフォネーと過ごし、三分の一をアフロディーテと共に過ごし、残りの三分の一は一人で過ごすこととなった。
 けれどアドニスは一人で過ごす時間もアフロディーテと過ごしたため、怒ったぺルセフォネーはアフロディーテの愛人であるアレスに密告に及んだ。嫉妬に狂ったアレスはアドニスに猪をけしかけ、アドニスを殺した。アドニスが流した血からはアネモネの花が咲いたという。
 そのアドニスが一体どうしたというのか。
 ディートルフはそれ以上何も語ろうとはしなかった。狭いキャロッスの車内に沈黙が落ちる。いわれのない不安が募った。
「君は……」
 沈黙に耐えかねて、リーンハルトは口を開いた。
「国に帰らなくてはならないのではないか」
「何故だ」
 リーンハルトはしばらく言い淀んでいたが、やがて覚悟を決め。
「王子は御病気なのだろう」
 それはリーンハルトが密かに胸に秘めていた情報だった。
 ラインラントの王位継承者たるヴォルフガング・フォン・ラインスターは、ここ一年ほど公的な場には出ていないのだという。
 ルドルフ王の体調不良が噂される中、王位継承者が病となれば、政情は不安定となる。そのため、ラインラントは健康が危ぶまれる王子を公式の場に出さないのではないか。それこそが帝国の出した見解だった。
 ディートルフは鉄壁の無表情を決め込んでいた。リーンハルトはさらに続けて。
「君が王子の花嫁を求めていたのは、王子の命がそう永くはないと悟ったからではないか。次代の王位継承者を確保しようと必死だったのだろう」
「馬鹿な。王子は健康だ」
「健康ということにしておきたいのではないか。国王も王位継承者も病床に就いたとあらば、周辺諸邦が黙っていない」
 国王の話題を出した途端、ディートルフは明らかに顔色を変えた。
「ラインラントの王位継承者は一人しかいないのだろう」
「他国の心配をしている場合ではなかろう」 
 ディートルフはぴしゃりと言った。
「皇帝が斃れれば、男系が断絶するのは帝国とてご同様」
 今度はリーンハルトが顔色を変える番だった。
「女帝がたとえ認められなかったとしても、婿君がおられる」
「あの小国の王子を皇帝とは誰も認めぬぞ!」
「いずれ皇女殿下が皇孫たる皇太子殿下をお産みあそばされるだろう」
「その前に皇帝の命の灯火が消えねばよいがな」
 リーンハルトはそれに返す言葉を持たなかった。唇を噛む。
 どの道、長く続く関係ではない。
 もしも生き延びることが出来たとしても、ディートルフはラインラントに、自分は帝国に、いずれは帰らなければならぬ身だ。
 時間は限られている。その限られた時間の中で、何故自分達は醜く言い争わなくてはならないのか。
 本当はこう聞きたかっただけなのだ。
 いつまで自分のそばにいてくれるのか、と。
 やがてディートルフは車窓を眺めながら、ぽつりと言った。
「――すまぬ。言い過ぎた」
 リーンハルトが気にしないでくれと首を振りかけた、まさにその時だった。
 馬車に併走する騎馬の蹄の音に気付いたのは。
 ディートルフに視線を投げると、やはり彼も気付いたらしい。
「尾行されたな」
 言うなり、ディートルフはジュストコールの前を開いた。ジュストコールの裏には、短銃がずらりと吊られていた。
「それは……」
「紅のラインラントを売り払って手に入れた」
 紅のラインラント。バイエルン公家が所持するブルーダイヤモンド、青いヴィッテルスバッハと並び称される至宝と聞いていた。それはブルーダイヤモンドを遥かに凌駕する、希少なレッドダイヤモンドなのだという。
 それを売ってしまうとは――。
 リーンハルトの驚愕をよそに、ディートルフは迷いのない口調で言った。
「ラインラントの国宝を手放したからには、雑魚如きに殺される訳にはいかぬ」






つづく
Novel