キャビネ・ノワール 15





 ディートルフは馬車の扉を開け放つと、そこから身を乗り出し、騎馬に向けて短銃の引き金を引いた。
 訓練を施されていない馬車馬は突然の発砲音に猛り、棹立ちとなる。
「閣下!」
 手綱を引き絞りながら叫ぶ御者に向かい、ディートルフが命じる。
「馬を落ち着かせ、そのまま駆け続けさせよ!」
 こうした事態には慣れているのか、御者は猛る一頭を宥めて落ち着かせるや、鞭を振り上げた。
「そっちは何騎だ?」
 ディートルフの問いかけにリーンハルトはすぐさま冷静さを取り戻した。怖じることなく疾駆する馬車の扉を開け、後方を確認する。
「二騎だ」
「では、こちらを先に片付ける!」
 再び銃声が轟く。
 狙いは誤らず、馬は騎手を振り落として斃れ、たちまち小さく、やがて見えなくなった。
 ディートルフは疾駆する馬車の屋根によじ登った。
 身を伏せ、短銃をジュストコールの裏から引き抜いては撃ち、撃っては引き抜いた。
 キャロッスは鈍重なベルリン馬車に比べれば遥かに軽量なものの、それでも単騎の相手には到底叶うものではない。すぐに追いつかれ、再び騎馬が馬車に並ぶ。
「使え!」
 短銃が車窓から放りこまれた。
 リーンハルトは短銃を構えた。
 激しく揺れる馬車から振り落とされまいと脚を突っ張らせて体勢を保つ。
 併走する騎馬からマスケット銃の銃口が向けられた。リーンハルトはためらうことなく短銃の引き金を引いた。
 二発の銃声はほとんど同時に上がった。
 マスケット銃の銃口から放たれた弾丸は馬車の天蓋に突き刺さった。
 リーンハルトが放った弾丸は正確に騎手の肩を射抜き、騎手はもんどりを打って馬から転落した。
「リーンハルト、無事か!?」
「問題ない!」
 答えたものの、あまりに至近で撃ち、また撃たれたがためにいっかな耳鳴りが収まらない。
 まだ一騎残っていた。
 ディートルフは短銃を両手で持つと、続けざまに馬を狙って撃った。
 馬は脚を折り、騎手をその背から振り落とした。
「停めろ」
 御者が馬車を停車させるまでの時間さえ惜しいのか、ディートルフは馬車から飛び降りた。リーンハルトもそれに続く。
 騎手のほとんどは撃たれるか首の骨を折って虫の息だったが、その中で辛くも馬から振り落とされただけで済んだ者がいた。
 ディートルフはその男に短銃を突きつけると。
「試みに問おうか。――誰に雇われた」
 男は激しくかぶりを振った。
「であろな」
 ディートルフは瞳を細め、剣帯に付けていた儀礼用刀剣の鞘を払った。 
 両手で柄を持ち、その切っ先を男の太股に向ける。
「残りの生涯を不具の身で過ごしたくなければ、さっさと白状することだな」
 リーンハルトが止める間もなく、ディートルフは刀剣を男の太股に突き刺した。
 魂切るような絶叫が上がった。





 アンドレ=エルキュール・ド・フルーリーは疲れきっていた。
 彼が太陽王の后、マリー・テレーズ・ドートリッシュ付の司祭となったのは、二十七歳の時だった。何と若く、何と未来は希望に満ちていたことか。
 カトリックの宗主国とも言えるスペインから嫁いできたマリー・テレーズ王妃は、その生涯を通してフルーリーを頼り切っていた。
 そのマリー・テレーズ亡き後、フレジュスの司教に任命されたフルーリーは、そこで生涯を終えるものと思っていた。
 太陽王の遺言により、幼い王太子の家庭教師を任ぜられるまでは。
 フルーリーは王太子を育て、混迷に満ちた摂政時代を乗り切り、やがて政敵であったブルボン公を排除した。王太子は成人を迎えるや、フルーリーを枢機卿に任命した。 
 誰しも素晴らしい生涯だと思うことだろう。ただひとつの誤算は――。
 三十にもならんとする国王が、政治を八十七歳のフルーリーに丸投げし、いつまでも親政を行おうとしないことだった。
 フルーリーは一人、書斎で物思いに耽っていた。
 高等法院の権利は増し、宮廷費は膨れ上がり、王妃から生まれてくるのは王女ばかり。
 王女たち。
 フルーリーは嘆息した。
 王女が増えれば増えるほど、貴族たちは名ばかりの官職に群がり、甘い蜜を吸おうと躍起となる。
 そう、私は間違っていない。
 瞬間、王妃の言葉がフルーリーの耳に蘇った。
 王女たちを修道院に送り込む決定を下した時、王妃はフルーリーに涙ながらに抗議し、やがて一人しか手元に置けないと知るや、震える声でこう言ったのだ。

――あなたは正しい人ではありませんわ。

 皆、何もわかっていない。このままでは王室の財政はいずれ底を付く。破滅を回避するためには、誰かが大鉈を振るう必要があった。誰に憎まれても、誰に恨まれたとしても。
 年金は財政を脅かし、戦は何も産み出さず、王女たちは宮廷費を食い潰す。
 何よりも王女たちは……。
 ふいに頬に夜風を感じ、フルーリーは顔を上げた。
 床まである両開きの硝子窓が開いていた。眉を顰める。……無用心な。
 使用人を呼ぼうと呼び鈴に伸ばしかけた手が不自然な形で止まる。
 かつん、踵を鳴らし、カーテンの陰から青年が現われた。
 月明かりに照らされたその顔を見誤ることはないだろう。
 比類なき美貌。それ故、彼がヴェルサイユの地に足を踏み入れた時から用心していた。度を過ぎた美貌というものは、波乱を呼び、人々に不和の種を撒き散らすものだからだ。
 そしてフルーリーは自分のその用心は杞憂ではなかったと確信していた。
 心持ち首を傾け、ラインラントの大使は言った。
「無用心でございますな、猊下」






つづく
Novel