キャビネ・ノワール 16 |
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落ち着きを取り戻すと、フルーリーは言った。 「気欝で伏せっていると」 「あなたの目は何事も見逃さない。全てご存知でいらっしゃったはずだ」 「一体何のお話か」 「猊下、お話が終わるまでは誰もお呼びにはなりませぬよう」 フルーリーは再び呼び鈴に伸ばしかけていた手を止めた。 外衣に不自然に差し込まれていた手が今は引き出されていた。ラインラントの大使は短銃を構えていた。 「あなたの配下は指を三本折ったところで白状しました。他愛もない」 フルーリーは思わず執務机の角を掴んだ。 よもや仕損じるとは。 詰めの甘さは寄る年波のせいかもしれなかった。認めたくはないものの。 「忌憚なく話し合いましょう。今の私はラインラントの大使ではなく、友を悼む男に過ぎません」 ラインラントの大使はフルーリーに一歩、近付いた。その手に短銃を構えたまま。 「ルードビィヒ・フォン・ヴィッツレーヴェンは国王の秘密を盾にあなたを強請り、バイエルンとの秘密同盟を結ばせたと私は睨んでいます」 フルーリーは答えなかった。 「けれどあなたはそれを良しとしなかった。だから彼を消した」 そう、私は良しとはしなかった。 この世で最も金貨を浪費する行為。 王族を際限なく増やすことでも、城を建築することでも、公式寵姫を持つことでも、貴族たちに年金を支払うことでもない。 それは戦費。 フルーリーは内心の葛藤を巧みに覆い隠し、口にしては。 「陛下に一国との同盟を結ばせるほどの秘密など」 温和に映るであろう微笑を口許に称えて首を振る。 この男は何も知らぬ筈。 ルードビィヒ・フォン・ヴィッツレーヴェン。その美貌と忌々しいまでに滑らかに動く唇を武器に、瞬く間にヴェルサイユに人脈を作り上げた駐仏バイエルン大使。その目的はバイエルンとフランスの同盟。帝国皇帝亡き後、バイエルン公カール=アルブレヒトを皇帝に擁立することであった。 バイエルン大使とラインラントの大使が親しくしていたのはむろん知っていた。肉体関係があったことも。 二人の間で交わされる手紙はすべて盗読していたが、両者の間で暗号が使われたことはなく、あくまでも同じ立場にいる者同士の友情、もしくは恋愛関係であるかと思われた。 「フランス王女を求めてこの国に訪れたというのに、私は盲(めしい)も同然だった。フランス王家ともなれば、この世に生まれ落ちたその瞬間から婚約者探しが始まるもの。だが、このヴェルサイユにおいて婚約者がおられる王女は、ルイーズ・エリザベート姫、ただお一人」 ラインラントの大使の言葉は的を得ていた。 王族の結婚相手は赤子のうちから探し始められるのが常識だ。釣り合いを重んじる王家にとって同格の、同じ宗教を信じる国の年頃の相手を見つけるのは困難を極めるからだ。すなわちスペイン、サルデーニャ、バイエルン、ザクセン。自ずと決まった国から選ぶしかない。相手は極めて限定される。 「そしてあなたがなぜ歳若の王女たちを拙速に修道院に押し込めたのか」 フルーリーは背筋が凍りつくような思いだった。 まさにこの部屋だった。駐仏バイエルン大使はこの部屋で王の秘密を白日の元に晒したのだ。バイエルン大使の言葉に頷き、その提案に同意する振りをしながら、フルーリーは目まぐるしく策略を巡らせていた。消さねば、一刻も早く、この男を。 「王女たちは。少なくとも双子の王女たちは……」 「黙れ!」 フルーリーは執務机を掌で強く叩いた。 「どうかなさいましたか、猊下」 扉の向こうで侍従頭の声がした。 ラインラントの大使が引き金に指を掛ける。 室内にさっと緊張が走った。 「何でもないのだ。下がってよい」 「かしこまりました」 短銃の銃口が向けられる中、フルーリーは椅子に深く座り直した。 知っているのか、何もかも。話したのは、ヴァンタドゥール夫人か。 女の、何と浅薄なことよ。 「王妃は泣いて抗われたが、私は強行した。王妃は何も知らぬのだ。知っていたら、決してアデライード姫を手元に留めようとはなされなかったことだろう」 「ルードビィヒはアドニスを引き合いに出し、私に気付かせようとしておりました。アドニスはキプロスの王キニュラスとその娘、王女ミュラの間の子。父子姦から生まれた呪われた子だ。――王女たちは王と関係を持っているのでしょう」 長い沈黙が落ちた。 麻疹の禍根により、二歳で母と父と兄を失い、天涯孤独に生まれついた王。その王が初めて持った双子の王女を溺愛するのは、当然のことのように思われていた。 フランスとスペインの政略結婚は古来からの伝統である。王は渋々、長女ルイーズ・エリザベートとスペインの王太子との婚約を取り付けたものの、それ以外の王女の婚約には不熱心であった。王の手駒とされる王女。王女たちを諸邦に嫁がせれば、フランス王家にとって大きな利益となる。 なのに――。 その理由を知ったのは、フルーリーが予告もなく王の寝室を訪れた時だった。 寝室から漏れ聞こえてきたのは、艶かしいくすくす笑い。一糸纏わぬ姿で、王の寝台を温めていたのは、あろうことか王の双子の王女たちだった。 王は国内最高位の聖職者であるフルーリーに涙ながらに懺悔した。王女たちへの恋慕の念は断ち難く、どうしても抑えることが出来ないのだと。 その後、何度説得を試みたことだろう。けれど神罰を説いたところで、王は引き下がらなかった。 フルーリーはやがて説得を諦め、豚の腸を縫って作られた避妊具を王に差し出した。そして絶対に余人に知られないこと、歳若の王女たちには手を出さないことを条件に王を見逃したのだ。 フルーリーは皮肉がちな笑みを唇に刻み。 「同盟だけならまだしも、バイエルン大使の望みは際限がなかった。欲張りすぎたのだ、彼は」 そして王の秘密はあろうことかバイエルンの大使に漏れ、ラインラントの大使にまで知られることとなった。明日は世界中が知るもしれない。 「どうする? 今度は貴公が私を強請るのか。君の望みはラインラントの王子の花嫁なのだろう。幸いアデライート姫にはまだ王の手が付いていない。時間の問題だろうがな」 「いいえ」 ラインラントの大使はきっぱりと答えた。 「私の望みはバイエルンとフランスとの秘密同盟を再び締結させること」 フルーリーは目を剥いた。 「ラインラントにとって何の益もなかろう」 「皇帝が斃れた暁には、バイエルン公カール=アルブレヒトを皇帝として認めること。バイエルンが帝国と争うことがあれば、援軍を送られると書面にてお約束頂けますでしょうか。手紙には必ず猊下の署名を入れて頂けるようお願い申し上げます。付け加えて申し上げますと、私の身に万が一のことがあった場合、ヴァンタドゥール夫人がすべてを明るみに出す手筈を整えています」 フルーリーは長い間黙っていた。ややあってから紙と羽ペンを取り上げた。 「最後に一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」 「何だ」 フルーリーは羽ペンの先をインクに浸した。 「バイエルン大使を手に掛けたのは」 「それを聞いてどうする」 フルーリーは内心の逡巡を反映するかのように、長い長い時間を掛けて手紙を書いた。視線を手紙に落としたまま。 「君に差し向けた者たちがそれだ。生きているのか」 「私に脚の腱を斬られ、指を折られた者を除いてはすべて死にました」 フルーリーは喉奥で奇妙な音を立てた。 「戦争は浪費の最たるものだ。帝国と干戈を交えることとなれば、遅かれ早かれフランス王家の財政は破綻するだろう」 「その頃にはあなたはもうこの世にはいないでしょう」 「願わくば、私の陛下の治世の間にその日が来ないことを」 書き終えた手紙に署名を入れ、熱した封蝋でそれを閉じる。 「その後は――」 フルーリーは手紙をラインラントの大使に差し出すと、吐き捨てるように言った。 「知ったことではないわ」 背後に注意を払っていたが、動きはないようだった。来た時と同様、密かに屋敷を後にする。 人目に付かない場所で停車させていた馬車にはリーンハルトが待っていた。 当初はフルーリーと刺し違えて死ぬつもりでいた。だが、ヴァンタドゥール夫人の話を聞き、彼が命懸けで締結させようとしたフランスとバイエルンとの秘密同盟を再び締結させることこそが、彼の本懐なのではないと思い始めた。 否、それだけが理由ではないだろう。 リーンハルトと会い、生きたいと思った。呪われた身ながらも、自分は第二の人生を生きてもいいのではないかという気になってしまった。 リーンハルトはディートルフの姿を見るなり、ポロポロと大粒の涙を零した。 「ディー、よく…よく……戻って…」 リーンハルトの泣き顔を見、ディートルフは従兄弟のことを思い出していた。 ディー、ヴォルフィと呼び合った、同い年の従兄弟。 偶然か、それともどちらの両親もルドルフ(高名な狼の意味がある)王にあやかろうと考えたのか、ヴォルフガングとディートルフ、互いにその名前には狼の意味が含まれていた。 少なくとも君と彼と国王陛下だけは私の生還を喜んでくれるだろう。たとえ全世界の人間に後ろ指を指されようとも、それなら――。 リーンハルトを強く抱きしめながら、ディートルフは思った。 生きてみようと私は思うのだ。 |
つづく |
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