キャビネ・ノワール 17





「いつの間に親しくなられたのです」
 オーギュスト=フランソワ・デュヴァリエは執拗にリーンハルトに迫ってきた。
「同じ大使ということで自然に……」
 二人きりで話しているところをどこかで見られたものらしい。適当に誤魔化そうとしたが、デュヴァリエ伯は納得が出来ない様子で。
「まあ、あなたと彼は同国人ですがね」
 デュヴァリエ伯は許可も得ることなくリーンハルトの隣に腰を下ろした。
「未だあの方の傷は癒えていらっしゃらないようですな。無理もない。あの方とバイエルンの大使は大変親しい仲でありましたからな」 
 ちらり、意味ありげな視線を送ってくるが、リーンハルトは完黙した。
「ときに一度、紹介を……」
「ここにいたのか、リーンハルト」
 ディートルフであった。
 まるでびっくり箱の中の人形のようにベンチから飛び上がったデュヴァリエ伯を手で追い払い、ディートルフの袖を引き、リーンハルトはヴェルサイユの庭園へと消えた。
「今の貴族は……」
 しきりに首を捻っていたが、名を思い出すことは出来ないようだった。
「デュヴァリエ伯だ。貴公を紹介してもらいたいと言っておられた」
「私を? 何故だ?」
 これほどの美貌を持ちながら、ときに彼はそのことに無頓着で、それが余計に愛おしかった。
 リーンハルトは意識してネプチューンの泉とは反対方向に進んだ。あれから季節は巡り、既に初夏、フランスが最も美しく輝く季節であった。
 当然のように手を差し伸べられ、リーンハルトは喜びで胸が押し潰されそうだった。手を繋ぎ、二人で庭を歩む。
 二人は広大なヴェルサイユ宮殿が十五持つ小庭園の一つに入った。
 一歩足を踏み入れて驚く。
 ぐるりを大理石の列柱に囲まれた空間は古代ギリシャを彷彿とさせられた。中央には古代ギリシャの彫像が刻まれた噴水があり、盛んに水を噴き出している。
「見た目通り、コロナード(列柱)の庭園と呼ばれている」
 太陽王の栄光を今に伝える小庭園。二人は石造りのベンチに腰を下ろした。ディートルフは差し込む初夏の陽光を手の甲で遮りながら。
「貴公に何と言えば良いのか、未だに私はわからぬのだ」
 ディートルフは静かに語り始めた。
「私が手に入れた物は、いわば帝国への死刑執行令状に等しい。我がラインラントの益にはならぬが、友の魂を沈めることは出来るだろうと思った。――すまぬ」
「皇帝陛下も皇女殿下もわかっておられるはずだ。領邦にどのような好餌を振り撒き、女帝を立てる約束を取り付けようとも、所詮はただの紙切れ。そして敵は何もバイエルンとフランスに限ったものではない」
 リーンハルトは考え考え、言葉を選びながら言った。
「むろんご存知であろう? 皇女殿下とその夫君は恋愛結婚であられた」
 帝国の皇女、それも総領娘が相手を自由に選ぶことなどありえない。けれど皇女はそれを強行し、皇帝もまたそれを許した。
「愛とは呪いのようなものだ。一度その呪いに取り憑かれたら、逃れることは難しい。だが、結局のところ未来を選ぶのは自分自身。皇女は愛する夫君との婚姻を決められた時、腹を括られたのであろうと私は思っている。誰しも自分のしたことには責任を取らねばならぬ」
 そしてリーンハルトもまた、ある覚悟を決めていた。ゆっくりと口を開く。
「もう荷造りは済んだのか」
 ディートルフは驚いたようにリーンハルトを見た。やがて恥じ入るように唇を噛み。
「今日言おう、明日言おうと思い、ずるずると引き伸ばしてしまった。すまぬ」
「今日の貴公は謝ってばかりだな。構わぬ。むしろ今までよく我慢してくれたと言いたい位だ」 
 帝国の大使である以上、知りたくもない情報も手に入る。ラインラントの国王の病状はいよいよ悪化し、明日をも知れぬ命だという。彼は一刻も早く故国に帰りたい、否、帰らなければならない立場だ。
 それを今日まで引き伸ばしたのは、――自惚れでさえなければ――、リーンハルトの存在があったからだろう。もう引き伸ばすことは許されない。
「再会を約束することは簡単だ。だが……」
「国王となってしまえば、簡単に国を空けることなど出来ないからな」
 言い切ってしまうと、リーンハルトは首を傾げてディートルフを見た。
「そうだろう、王太子殿下」
 ディートルフはリーンハルトが予期したほどには驚かなかった。ほんの僅かだが、弓なりの眉を上げ。
「いつから気付いていた?」
「おかしいと思い始めたのは、貴公がラインラントの至宝たる紅のラインラントを売り払ったと聞いた時からだ。いかに王子の従兄弟といえ、そんな勝手な振る舞いが許されるのかと不思議に思った」
 ディートルフは黙ったまま、リーンハルトの言葉に静かに耳を傾けていた。
「一度疑いを抱けば、奇妙なほど嵌りだす符丁に気付いた。一年前から公の場に現われなくなった王子。そして貴公がヴェルサイユに現われたのは、その頃だと聞いた」
 何よりその態度。時折彼が垣間見せていた矜持。身に纏う雰囲気。それは生まれ付いての王侯貴族しか持ち得ぬものだった。
「一つだけ、未だわからないままのことがある。ラインラントの王子は黒髪と聞いている。だが、貴公のその美しい金髪は地毛だろう」 
 ディートルフはその黄金の髪を一房持ち上げて見せた。
「私は太陽王に一つだけ感謝している。それは欧州の宮廷に鬘を流行させたこと。幼き頃は染めていた。長じてからは鬘を使った」
「何故そんなことを……」
 ディートルフは皆まで聞かず、瞳を閉ざして語り始めた。
「前王の弟たるラインスター公との婚姻から十年を経ても、エルスヒェン・クリスティーネは子を成すことが出来なかった。ルドルフ王は独身主義者だ。そしてラインスター公を除けば、男系も女系もすべて死に絶えている。ラインスター公との間に子を成さなければ、ラインラントは滅亡する。しかし公は妻を熱愛しており、いかに子を孕むためといえども、エルスヒェン・クリスティーネは夫を裏切ることが出来なかった」
 季節は初夏、昼下がり。寒いはずがなかった。だが、リーンハルトは暗い予感に震えながら、ディートルフの告白を聞いていた。
「エルスヒェン・クリスティーネは悩み、ある男と関係を持った。彼とならば、夫への裏切りにはならないだろうと考えた。裏切りとはならず、八つ裂きにされたとしても秘密を漏らさぬであろう男がこの世にたった一人だけ存在した。彼女の兄、シュタインベルク伯だ」
 ディートルフの視線の先にある噴水の彫像は冥府の神に連れ去られるぺルセフォネー。彼女が連れ去られる先は冥府だ。
「一度きり、そう約束して関係を持ったそうだ。それで孕まなければ諦めようと。果たしてエルスヒェン・クリスティーネは子を身籠った。実の兄との罪の子を。それが私、ヴォルガング・フォン・ラインスターだ」
 ディートルフは小さく首を振り。
「だが、エルスヒェン・クリスティーネはひとつだけ、それも決定的な間違いを犯した。黒い髪と黒い瞳を持つ男から、金の髪と瞳を持つ子は絶対に生まれないのだということを!」
 ディートルフは拳でベンチを強く叩いた。
 手で顔を覆いつくす。指間から涙が一筋、二筋と流れ落ちる。
「私は鏡を見る度に思い知らされた。自分が実の兄妹の間に生まれた呪われた子であるということを。父上は私にこの上ないほど深い愛情を注いで下さった。私は父上を愛していた、この世の誰よりも。……認めたくなかった、その父上と一滴も血が繋がっていないことなど」
「貴公はどうしてそのことを知ったのだ」
「シュタインベルク伯が臨終の床で、私とディーに告解をしたのだ」
 ディー、誰のことを話しているのかと混乱する。
「私とディーとで、一人で背負い込むにはあまりに重すぎる秘密を分かった」
 では、ディートルフ・フォン・シュタインベルク=カッツェンエルンボーゲンの名を持つ男は本当に存在するのか。
「ディーが、自分の出自に懊悩する私を常に側で見守っていたディーが言ったのだ。花嫁は自分で見つけて来るといい。自分がその間身代わりを務めようと」
 そしてヴォルガング・フォン・ラインスターは表舞台から姿を消し、ディートルフ・フォン・シュタインベルク=カッツェンエルンボーゲンがヴェルサイユに現われたのだ。自分の花嫁を探すために。
 すべてを打ち明けてしまうと、ディートルフは指を噛み、俯いた。
 そう、彼はこんなにも脆い。
 だからこそ、こんなにも愛おしいのだ。
「殿下、あなたが抱える苦しみを私にもお分け下さい」
 ディートルフを背後から抱き締め、リーンハルトは言った。
「私もまた皆を欺き続けて生きて参りました。殿下、私は庶子なのです」
 庶子と養子の継承が許されない貴族社会。
 しかしヴェルフ伯は妻との間に子を成すことが出来なかった。夫婦仲は当然の如く冷え切っており、ヴェルフ伯はその鬱屈を紛らわすために足繁く劇場に通った。そして恋に落ちた。
 美しい黒髪のローザリンデ。
 リーンハルトは鎖を手繰り、ペンダントの蓋を開けた。
「これが私の母でございます」
 ディートルフの美しい黄金の瞳が大きく見開かれる。
「不思議だ。殿下と私はまるで運命の双子のよう。前ヴェルフ伯は妻との間に子を成すことが出来ず、愛人の女優の妊娠を知った時、その子を自分の跡継ぎにしようと目論んだのです。妻は妊娠を装い、やがて月満ちて私が生まれると、女優の手から私を取り上げ、あたかも妻が産んだかのように偽装した」
 義母はリーンハルトにいつも冷たかった。だが、彼女を責めるのは酷だろう。妻にそのような行為を強いたヴェルフ伯にこそすべての責がある。
 跡継ぎを得るという重責から開放されたためだろうか。皮肉なことに妻は一年を経たずして妊娠し、子を産んだ。活発で聡明、そして何も知らない異母弟はリーンハルトによく懐き、義母のリーンハルトへの冷たい仕打ちを訝っていた。
 父も母も弟もすべて金髪の一家にあり、黒髪の自分は明らかに異端の存在だった。
「この髪の色を理由に、いつの日か誰かが私の嘘を暴きに来るだろうと怯え続けていました。私こそ、殿下の黄金の髪がどんなに羨ましかったことか」
 リーンハルトはまっすぐにディートルフを見た。
「ただ一言、仰って頂けますでしょうか。来い、と」
 それはリーンハルトが生まれて初めて選んだ未来だった。
「そうしたら私はすべてを捨てましょう。ヴェルフ伯の地位も、ワインスベルクの城もリリエンベルクの街も。何も心配することはございません。世にも優秀な私の異母弟が私に代わってすべてを受け継いでくれることでしょう」
「貴公は変わった男だな」
 一時ディートルフであった男、ヴォルフガング・フォン・ラインスターは立ち上がり、そして言った。
「来るがよい、我が花嫁よ!」
 リーンハルトは言葉もなくラインラントの王子に抱きついた。







つづく
Novel