キャビネ・ノワール 18 |
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国境に接した街の旅籠で金髪を黒髪に染め、ディートルフはヴォルフガング・フォン・ラインスターに戻った。 馬車は夜陰に乗じてラインラント王国に入った。 ヴォルフガングが王宮に入るなり、本来のディートルフである従兄弟が息せき切って駆け付けてきた。 従兄弟は言った。 「再会を喜び合うのは後にしよう。――我らの陛下がお待ちでいらっしゃる」 従兄弟と共に国王の居所に入ると、ヴォルフガングは一年間の不在の重みを思い知らされた。 国王は病み衰えていた。その国王の傍らにはヴォルフガングの父、ラインスター公爵が居た。 この国の宰相であった前カッツェンエルンボーゲン伯を失った後、国王はラインスター公爵を頼りにしていた。かつての政敵であり、互いに激しく憎みあったという二人だが、今では余人には計り知れぬ絆が存在するようであった。 「陛下……」 「戻ったか、我が王子よ」 ラインスター公爵に支えられ、国王は寝台から身を起こした。 「まこと人生は夢のようだな。先王から直々に後継者に指名されたのが、まるで昨日のことのように思える。時が巡り、よもや自分が同じ立場になろうとは――」 国王は弱々しい声で言った。 「次の王はそなただ」 「陛下、そのような気弱な事を……」 言いかけて、ヴォルフガングは気付いた。従兄弟も、ラインスター公爵も、瞳を伏せ、国王の言葉を聞くばかりだということに。 もう、駄目なのか。 本当に――。 「そして公、素晴らしい後継者を育ててくれたそなたに感謝を」 「勿体ないお言葉にございます」 「王子よ、王冠は決して栄誉だけをもたらすものだけではない。王冠は血の犠牲の伴う茨の冠だ。それを戴くことはどんなに苦しいことだったろう。だが、私はいつの日か先に逝った者たちに認めてもらおう、その一心で王冠を戴き続けた……」 幼くして母を亡くし、妃も子も持たなかった国王は、宰相であり親友であった前カッツェンエルンボーゲン伯を心の寄り処にしていた。その彼を失った後、国王は十年間の間、喪服を着続けた。 そんな国王にとって死はある種の開放なのかもしれなかった。 「そんな茨冠をそなたに渡そうとする私を許すが良い」 ヴォルフガングは寝台に近付き、国王の手を取った。 シュタインベルク伯から世にも残酷な真実を告げられたその日から考え続けてきた。 王国のただ一人の王位継承者である自分。だが、その自分にはただの一滴も王家の血は流れていない。 そんな自分が王位を継ぐことなど許されないことだと思った。だからこそ愚かにも求めたのだ。血統正しき、フランスの王女を。 国王の手は驚くほど細く、軽かった。 「いいえ」 ヴォルフガングは決意を固めて言った。 「喜んで。陛下の茨冠は私が受け継ぎましょう」 ヴォルフガングと再会したことにより気が緩んだのか、国王は翌朝、黒い胆汁を吐いた。殿医や看護人が慌しく出入りする中、ラインスター公爵は息子のヴォルフガングを王宮の中庭へ誘った。 「もっと早く話すべきであったな」 若い頃より美貌を持って知られたラインスター公爵だったが、老年の域に差し掛かった今なお、その水際立った美貌は衰えていなかった。 ラインスター公爵は先王が建立したという、古びたムーア式の四阿の前で立ち止まり。 「昔、ここで先のカッツェンエルンボーゲン伯と口論となったことがあった。我は激昴し、伯の頬を打擲した」 「今の父上からは想像も付きませぬ」 「そうか」 ラインスター公爵は唇を歪めて笑った。 「そなたはそのカッツェンエルンボーゲン伯によく似ている」 ヴォルフガングは顔を強張らせた。前カッツェンエルンボーゲン伯はシュタインベルク伯とエルスヒェン・クリスティーネ兄妹の従兄弟だった。すなわちカッツェンエルンボーゲンの中のカッツェンエルンボーゲン、シュタインベルクの中のシュタインベルクだ。 「ディートルフからすべてを聞いた」 まるで心臓を鷲掴みされたようだった。どんな表情を浮かべれば良いのかわからなかった。ヴォルフガングはラインスター公爵を見つめ返した。 自分は今、世にも奇妙な表情を浮かべているだろうと、ヴォルフガングは思った。 「エルスヒェンとの婚姻から十年、子を持つことを諦めかけた矢先に授かったのがそなただった。有頂天の喜びの陰で、漠とした疑いを抱かなかったと言えば嘘になろう。だが、我は知らぬ振り、気付かぬ振りをし続けた。疑いを抱くこと、そのこと自体がエルスヒェンへの大いなる裏切りとなるような気がしたからだ」 王族としては驚くほど遅くラインスター公爵は花嫁を迎えた。花嫁、エルスヒェン・クリスティーネは公爵より遥かに年下だった。けれど、そんな幼い妻をラインスター公爵は熱愛したという。 「我はエルスヒェンを愛していた、心の底から。だが、我のその愛こそが年若きエルスヒェンにとっては重荷となったのやもしれぬ。子を成せぬことにより、我の愛が移ろうことを恐れたのか」 記憶の中の母はいつも憂い顔だった。 よくヴォルフガングの黄金の髪を梳いては溜息を付いていた。そしてヴォルフガングが秘密を守れるほど分別がつく頃になると、その髪を髪を黒く染めさせた。 ――皆には内緒よ。 その理由もわからぬまま、ヴォルフガングは秘密を守った。 そしてエルスヒェン・クリスティーネは周期的に流行するペスト災禍により突然この世を去った。ヴォルフガングに何一つ打ち明けることが出来ぬまま。 髪を染めなくてはいけない理由にようやく思い当たったのは、シュタインベルク伯の告解を聞いてからのことだった。 その日からヴォルフガングは熱愛して止まぬ父から距離を置くようになったのだ。 「シュタインベルク伯亡き後、我に対するそなたの態度が変わったことに気付いた。天にも地にもシュタインベルク伯はエルスヒェンのたった一人の兄だ。そなたの出生の秘密を知っていても不思議はない。そなたはシュタインベルク伯に何かを知らされたのだろうと思った。けれど悲しいかな、私はそなたに真実を尋ねる勇気を持ち合わせなかった」 「父上……」 「我はその時に真実を確かめ、そして言うべきであったのだろう。血の繋がりがあろうとなかろうと、我はそなたを愛していると」 ヴォルフガングは我と我が耳を疑った。――今、何と言ったのか、父上は。 「どうやら我は自分で思っているよりも怯懦な男のようだ」 「父上」 「血の繋がりなど関係ない。我ほどそなたを愛しみ、育てた者はおらぬだろう。そなたは間違いなく我の子だ」 父の言葉は凍て付き、頑なになっていたヴォルフガングの心の中に広がり、染み渡っていった。 気付くと、ヴォルフガングの瞳から涙が溢れていた。 ラインスター公爵は息子を抱擁し。 「次代の王はそなただ。我が死ぬほど欲しながらも、ついに手に入れることの出来なかった王冠。それを息子のそなたに引き継がせることが出来て嬉しく思う。それこそが我の人生の意義なのかもしれない」 「けれどそのために父上は旧教を捨てられた……」 ラインスター公爵は熱心な旧教徒だった。けれど息子の王位継承権をより確実なものにするため棄教したのだ。 「そうだな。けれどそのことを後悔はしていない。棄教をしたお陰で、我は世にも素晴らしい妃と王子を手に入れることが出来たのだから」 「それほどまでに愛しておられたのですか、母上を」 ラインスター公爵は一瞬、遠い目をした。 「この世の誰よりも。その愚かしさも、妖精じみた冷たさも、すべてを含めて」 「私も父上を愛しております、この世の誰よりも」 ラインスター公爵は笑い、そして言った。 「その言葉はそなたの花嫁のために取っておくが良い」 |
つづく |
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