キャビネ・ノワール 19





 リーンハルトが証言者として選んだのは、デュヴァリエ伯だった。軽率でおしゃべり、だが愛すべき存在である彼はまさにその役柄にうってつけであった。
 ラインラント大使の突然の帰国はヴェルサイユに波紋を呼んでいた。さまざまな憶測が飛んだが、親友であったバイエルン大使の死から立ち直れなかったのだろうという説が最有力だった。
「私も何も聞いてはいないのです、ただ……」
 リーンハルトは伏目がちにデュヴァリエ伯に打ち明けた。
「本国の国王陛下の容態が思わしくないという噂が」
「ルドルフ王が!?」
「お世継ぎの王子殿下はカッツェンエルンボーゲン伯の従兄弟だそうです。それが火急の帰国の理由ではないかと」
 リーンハルトからディートルフを紹介される日を待ちわびていたであろうデュヴァリエ伯は大きな衝撃を受けたようだった。がっくりと肩を落としたまま。
「……世継ぎの王太子殿下はカッツェンエルンボーゲン伯に生き写しだそうですな」 
 同一人物なのだから当たり前だが、むろんデュヴァリエ伯はその事実を知らない筈だった。リーンハルトが曖昧に首を傾げるのを受けて。
「カッツェンエルンボーゲン伯はリシュリュー公爵閣下に王子の肖像画を見せられたそうです。これほどまでの美貌の持ち主ならば、とリシュリュー公はアンリエット王女を引き合わせることに同意したとか」
「よくご存知ですね」
「リシュリュー公の従者は私の従者と懇ろでしてな」
 従者? 小間使いではなく? 浮かんだ疑問はすぐに自己解決した。デュヴァリエ伯は自他共に認める同性愛者(ソドミー)だ。恐らく周囲も同じ性癖の者で固めているのだろう。
「あの方がいなくなり、ヴェルサイユから火が消えたようですな」
「私もそう思います」
 真実そう思っていたがためにリーンハルトの言葉はデュヴァリエ伯にもっともらしく響いたことだろう。
「気晴らしに旅行に出かけようと思うのです」
「それはよろしいですな。どちらに?」
「シャルトル、いえ、もっと遠くが良いですね」
 リーンハルトは寂しげに笑ってみせてから、こう言った。
「聖ミカエル山の修道院に行かれたことは?」





 ラインラント王国。それはライン河中流域を支配するライン宮中伯が中心となり、その他のライン河流域の領邦国家が寄り集まり成立した王国である。
 その首都はライン渓谷の中流上部に存在した。
 ヴォルフガングから遅れること一ヶ月、リーンハルトの姿はヴェルサイユから消えた。
 帝国、或いはヴェルフの家中の者が自分を探しに来るかもしれなかったが、探す場所はシャルトルか聖ミカエル山のあるノルマンディーだろう。ライン渓谷の中流上部ではない。
 リーンハルトを出迎えたのは、ヴォルフガングの従兄弟――実際は異母兄弟――、真実のディートルフだった。
 その面差しは驚くほどにヴォルフガングに似ていた。一年もの間、身代わりを務められたのも頷ける。
「従兄弟からすべて聞きました。急ぎましょう、ヴォルフィが待ちかねている」
「すべて?」
 先導するディートルフにリーンハルトは尋ねた。恐らく内心の不安が顔に出ていたのだろう。ディートルフは安心させるように微笑み。
「ご案じめされるな。私たちは二人で一人。口外はいたしません」
 ディートルフはリーンハルトを街外れの教会に案内した。祭壇をずらすと、その下に階段が現われた。階段の下は文目もわかぬ闇の中。
 ディートルフはリーンハルトに手提げ式のランプを手渡した。
「北に向かって千二百歩、突き当たったら東に百歩、階段を上がるとニンフェンベルク宮殿内にある隠し部屋に出られます。そこにヴォルフィが」
「承知いたしました。貴方は?」
「私はここを元通りにするため残ります。挨拶はまた改めて」
 リーンハルトは頷き、階段を下りた。
 中世の昔から使われている坑道か。或いは一度は埋められたものを再び堀り起こしたのかもしれない。
 坑道は狭く、湿っていた。リーンハルトは怖じず、膝立ちで坑道を進んだ。
 すべてを捨てることに迷いはなかった。
 生死不明となったリーンハルトを思い、懊悩するであろう異母弟のことを考えると胸が痛んだが、異母弟はよく出来た人間だ。きっと兄の失踪の痛手を乗り越え、立派な当主となってくれるだろう。そしてそのことを義母も喜ぶに違いない。
 皇女を後継者に持つ帝国は明日をも知れぬが、異母弟はきっと未来の女帝を支えるだろう。ひょっとしたら自分よりももっと上手く。
 そして明日をも知れぬのは、何も帝国に限ったことではない。三百余にも分裂したドイツ諸邦はどれも小さく、脆弱で、そこに厄災は容赦なく襲い掛かる。戦争、ペスト、天然痘。傭兵は略奪し、農民一揆もまた頻繁する。皆、一様に寿命は短く、長く生きられる者は稀。ローザリンデも二十代半ばにして亡くなっている。
 護りたい、とリーンハルトは思った。
 あの世にも美しく、強く、誇り高い、それでいて誰よりも脆い王子を。
 ようやく坑道は突き当たり、リーンハルトは東に進路を取った。
 服は汚れ、爪にまで土は入り込んだ。
 リーンハルトは一歩、一歩、歩数を計算しながら歩んだ。
 計画的な失踪と知られぬよう、ほとんどの物は置いてきていた。たった一つ持ち出したのは、リーンハルトの母の絵姿を収めたペンダントだった。そのペンダントは今も着衣の下、リーンハルトの胸にあった。 

――ローザリンデ、今こそ貴女のことがわかるような気がする。

 ちょうど百歩のところで、ランプを掲げると階段が見えた。
 決して正妻となれぬことを、その一生を日陰の身で送ることになるとわかっていて、なぜ父上と関係を持たれたのか。
 それは父上を愛してしまったからなのでしょう。
 リーンハルトはいざって階段を上がった。頭が天井に突き当たり、確かめるとそこは揚げ戸となっていた。隙間から光が漏れている。
 揚げ戸を押そうとして躊躇った。
 この戸を押せば、もはや後戻りすることは出来ない。そう思ったからだ。
 リーンハルトは瞳を伏せ、帝国の皇女たちのことを思った。
 常に帝室に寄り添い、皇帝の一族を守り続けていたヴェルフ家である。
 ファーストネームに必ずマリアが付く、敬虔な旧教徒である帝国の皇女たちは――不敬の謗りを免れるならば――リーンハルトにとって近しい存在だった。
 未来の女帝たるマリア・テレジア姫はリーンハルトと同い年であった。マリア・テレジア姫は小国の王子、ロートリンゲン公子フランツ・シュテファンを伴侶に選んだ。そして皇帝の最後の駒である、妹マリア・アンナ姫はフランツ・シュテファンの弟、カール・アレクサンダーを熱愛している。
 マリア・アンナ姫も選ぶのだろうか。
 中世の昔から政略結婚によって領土を拡張し続けてきた帝国。その帝国を孤立させることになる道を。
 愛とは呪いのようなもの。一度その呪いに取り憑かれたら、逃れることは難しい。
 だが、未来を選ぶのは結局のところ自分自身なのだ。
 揚げ戸を押そうと手を伸ばす。重い揚げ戸はふいに軽くなり、それと同時に光が溢れた。
 光の中心にその男がいた。
 強く腕を引かれたかと思うと、次の瞬間、リーンハルトはヴォルフガングの温かな胸の中にいた。 
「待っていたぞ、我が花嫁よ!」
 そして、自分もそう。
 この先の未来に一体何が待ち受けていようとも決して後悔しないだろう、とリーンハルトは思った。







つづく
Novel