キャビネ・ノワール 5 |
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禁欲すべき四旬節の間も王の熱情は留まるところを知らず、パリ大司教の甥の息子であるフェリックス・ド・ヴァンチミーユに白羽の矢が立てられた。ポーリーヌ・フェリシテの形だけの夫としてである。 袖にされたマイイ伯爵夫人を宮廷で見かけることはなくなり、パリの住居に引きこもっていると専らの噂であった。 禁欲が名ばかりなのはむろん王だけではなく、二人の大使が会話を交わす場所も、やはり寝台の上だった。 「簡単なことだ。改宗すれば良い。ユグノー(新教徒)の盟主であったアンリ四世もまた改宗によってフランス王となったのだから」 ディートルフはヴェルサイユの街中にあるメゾン(居館)を間借りしていた。 広大なヴェルサイユ宮殿は蜂の巣の如く700余の部屋を有していたが、王の家族、寵姫、大臣や特別に許された貴族、使用人を含めると1万人をゆうに越える人々を住まわせるには、それでも充分とは言えなかった。 宮殿内に部屋をもらえることは大変な名誉とされ、あぶれた人々は宮殿に付属する建物や街中に住んでいたのだ。 「ラインラントはその逆だ。国王は新教徒でなければならないと王国法によって定められている」 ラインラント王国の国教は新教。それは国王の庶子とされ、一度は縛首台に立ちながらも奇跡的な生還を果たし、国王となったルドルフ・フォン・ラインラントが文字通り命懸けで勝ち取ったものだった。 そして似た境遇から英国女王となったエリザベス同様、ルドルフ王もまた独身主義者だった。父王に命を狙われた経験から子を持つことを恐れたためと言われていた。 そのため、前王の弟たるラインスター公爵とシュタインベルク伯の娘エルスヒェン・クリスティーネとの間に生まれたヴォルフガング・フォン・ラインスターが、子のないルドルフ王の推定相続人、筆頭王位継承者として指名されていた。 「シュタインベルク伯の娘? だが、君は」 「私の正式な名はディートルフ・フォン・シュタインベルク=カッツェンエルンボーゲン。主君に倣ったためではないだろうが、王国宰相であった前カッツェンエルンボーゲン伯は生涯独身を通した。私の父はカッツェンエルンボーゲン伯の従兄弟だった」 「それ故に二つの伯爵位が君の元に転がり込んだという訳か」 庶子と養子の継承が認められぬ王侯貴族は血がすべて。嫡子が存在しなければ、執拗なまでに血縁を辿っていく。 スペインのハプスブルグ家は同格の王家を見つけられず、帝国とおぞましいばかりの近親婚を繰り返した挙句、滅亡した。そのため、政略結婚によりスペインから太陽王に嫁いだマリー・テレーズの血縁を辿られ、スペインの王座を宿敵フランスに奪われる結果となったのである。 背後からディートルフを抱いていたルードヴィヒは肩口に顔を埋め。 「イギリス、オランダ。ルター派のデンマークにスウェーデン。ドイツ領邦ならプロイセンか。新教国は山とある。君の王子は新教を捨てられぬというのに、どうして旧教の長女たるフランスの王女を望む」 「フランス王家が一番格式が高いからだ」 「伯の娘が生母なら、いわば貴賎結婚。出自が悪いが故に王妃で粉飾しようとしていると思われても仕方がないぞ」 つとめて平静を装ったが、動揺が顔に出ていたのかもしれなかった。 「ディー、それは本当に君の王子の望みなのか」 ディートルフは時々思うことがあった。この男はどうしてこんなに鋭いのか。 世にも有能な大使を持つバイエルンとフランスの秘密同盟は着々と進められていた。 バイエルン公、カール=アルブレヒトの妃は先帝の娘だった。そしてカール=アルブレヒトの弟はケルン大司教、選帝侯の一人だ。抱き込むのに何の問題もないことだろう。 「そう、ひょっとしたらそれは私の望みなのかもしれない。我が王子にはフランス王女こそがふさわしい」 「それを人は独善と呼ぶのだ」 ルードヴィヒは溜息を付きながらも、ディートルフに助言を与えた。 「狙うべきは、マダム・カトリエーム(四番王女)だろう。マダム・トロワジエーム(三番王女)は、幼いながらも美しいと評判だ。不具か醜女か、何か弱みがなければ、フランス王は新教徒の王子に断じて王女は渡すまい」 ルードビィヒもまたディートルフと同じ結論に達していた。王は初めて持った双子の片割れである二番王女、アンリエットを手放すまい。そして三番王女、アデライードは美貌の持ち主。ならば、四番王女のヴィクトワールが狙い目だろうと。 「構わない。――不妊でさえなければ」 「ヴィクトワール姫は五歳だ。待てるのか」 堂々巡りだった。 ディートルフは目を伏せたまま、何も答えなかった。 ディートルフはフォントヴローの修道院長に密かに手紙を書き送った。フォントヴロー修道院に年若の王女たちが預けられていたためである。 高位聖職者はおおむね強欲と相場が決まっているものだが、そのたぶんに漏れず、賄賂をちらつかせただけで、修道院長はヴィクトワール姫の近況についてつぶさに報告してきた。 健康で美しい。が、聡明ではない。それが修道院長の印象だった。 ディートルフは修道院長から受け取った手紙を隠しに仕舞うと立ち上がった。懐中時計を取り出し、几帳面に時間を確かめる。 今日は日曜日、王の公式晩餐が開かれる日であった。 太陽王と呼ばれた先王は宮廷儀礼を神格化した。暦と時計さえあれば王が何をしているかわかるとまで言われた、細分化された宮廷儀礼をしかし現王は好まず、おおむね簡略化された。太陽王が毎日執り行っていたこの公式晩餐も日祝のみとされたのである。 王と顔を会わせる貴重な機会を一度たりとも無駄にする気はなかった。ディートルフは王の控えの間に向かった。 踊り場で、ディートルフはふと足を止めた。 帝国の大使が立ち話をしていた。相手は――。 リシュリュー公爵か。 その名の示す通り、ルイ十三世の宰相であったリシュリュー枢機卿の甥の孫に当たる彼は、マイイ夫人とポーリーヌ・フェリシテの従姉妹であり、彼女たちを王に斡旋したことでよく知られていた。国王の寵臣、今一番宮廷で権勢を誇っている貴族と言っても差し支えないだろう。 そして公爵はかつて帝国に大使として駐在していたことがあった。その関係から帝国大使に声を掛けたのだろう。 帝国の大使はディートルフの姿を認めると微かに頬を紅潮させた。階段に立ち尽くすディートルフの姿に、リシュリュー公に用があると誤解したのだろう。礼を取り、素早くその場を離れた。 リシュリュー公はその後姿を見送りながら。 「実に可愛いらしい」 皆が足早に王の控えの間に向かう中、柱の陰に誘い込まれた。 「君が薔薇なら彼は菫だな」 同じ大使であるからだろうか、リシュリュー公は二人を比較して語った。 「薔薇は赤く、菫は青い」 それは英国の古い童謡の一節だった。ディートルフはそれに続く言葉を知っていた。 「砂糖は甘く」 「そしてあなたも」 リシュリュー公はディートルフの手を取るとその甲に接吻した。 「菫をご所望に?」 「たやすく摘み取れる野の菫に興味はない」 帝国の大使がたやすく摘み取れる野の菫とも思えなかったが、ディートルフは思慮深く沈黙を保った。 「我が従妹、ポーリーヌ・フェリシテに会いたくはないか」 「ヴァンチミーユ夫人に?」 ディートルフは即座に答えた。 「ほう」 リシュリュー公は感心した様子だった。 「もう知っているのか」 「もはや知らぬ者の方が少ないでしょう。陛下を虜にさせるお美しい従妹方をお持ちでいらっしゃる閣下が羨ましゅうございます」 「美しさのただその一点で言えば、そなたに勝る者はおるまい。国王陛下が同性愛者でなくて残念であったな、カッツェンエルンボーゲン大使」 王は完全なる異性愛者であり、包容力のある女性を好むという噂があった。多産を見込まれて玉の輿に乗った王妃は年上ではあるものの、甘えられる存在ではなく、それが王に公妾を求めさせる遠因になった。 しかし信心深い王に神に背く存在である公妾を持つよう強く働きかけたのは、誰あろうこのリシュリュー公であった。 「控えの間に向かわれなくてもよろしいのですか」 宮廷社会では宮中位階がすべて。王の公式晩餐では王の家族、そして公爵と公爵夫人だけが最前列を許される。 「待たせておけばよい」 公爵の不遜さを露わにリシュリュー公は言った。 「そなたが女であれば、私は真っ先に王の寝台に送り込んだだろう」 「お戯れを」 リシュリュー公はディートルフの頤に指を掛けて上向かせると、人差し指を擽るように動かした。 「だが、君を高く買う相手は陛下だけとは限らぬな」 ――まるで女衒だな。 ディートルフは内心の嫌悪感を押し隠し、リシュリュー公の話に聞き入るふりで、妖艶な流し目を送った。 「どうか売りつける相手を見誤られませぬよう。閣下とて、四度目のバスティーユ入りはお嫌でございましょう」 謀反人を収容することで知られるバスティーユ牢獄。王の権威を誇示するものとされ、投獄された経験を持つ貴族は少なくない。だが、三度の投獄とあれば、公の陰謀好き、色好みが祟ってのことだろう。 釘を刺されたことに気付いたのだろう、リシュリュー公は眉を跳ね上げた。 「ときに大使、ラインラントの王太子の肖像画はお持ちか」 ディートルフは瞳を瞬かせた。 「――直ぐに本国より届けさせましょう。ラインの黄金鱒と共に」 美食家であることでもよく知られるリシュリュー公は満足げに瞳を細めた。 |
つづく |
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