キャビネ・ノワール 6





 重い石はなかなか動かせないものだが、一度動き始めれば、動かした本人でさえ止めることが出来ない勢いで転がり続けるものである。
 ディートルフはそれを痛感していた。
 ラインの黄金鱒はいわば比喩的表現。食通のリシュリュー公のこと、いかに名物とはいえ、泥臭い川鱒を気に召すまい。ディートルフは帝国一との誉れも高いシュタインベルガー、シュタインベルク産の白葡萄酒を樽ごと献上した。
 ディートルフがリシュリュー公のパリの別邸に招待されたのは、それから三日後のことだった。
「マドモアゼル・コンティはいかがか。先代のコンティ公の娘だが」
 コンティ家はブルボン王家の支流だ。親王家ではあるものの、王女ではない。
 ディートルフが喜ばなかったことに気付いたのだろう。リシュリュー公は笑い。
「やはり王女を所望か。何と欲の深い」
「失礼ながら、王子は王子でございます」
「ふふ、大した矜持だ。だが、品物を見ないうちに値段を決める訳にはいくまい」
 腕を伸ばされ、ディートルフは持参した肖像画をテーブルの上に置いた。リシュリュー公が合図を送ると、公爵家お抱えの従僕が音もなく現れた。従僕は肖像画の包みを解くと、それを恭しく捧げ持ち、公爵へと向けた。
「貴公は王子の従兄弟、であったか? 成程……」
 リシュリュー公は王子の肖像画を見ながら少し考え込んでいたが、やがて静かに。
「君が望むのは、アンリエット姫だろう。王の掌中の珠」
 アンリエット・アンヌ・ド・フランス。
 王が生まれて初めて持った双子の片割れとして、下にも置かぬ扱いを受けている第二王女である。年の釣り合い的にはまたとない相手ではあるが、端から無理とディートルフは決め付けていた。
 リシュリュー公は考えを纏めるように指でテーブルを叩きながら。
「アンリエット姫はシャルトル公ルイと仲が良い」
 アンリエット王女より二つ年上のシャルトル公ルイはオルレアン公の一人息子だった。
「だが、陛下はいずれオルレアン公となるルイと王女との結婚を決して許すまい」
 絶妙な力の均衡の上に成り立つ宮廷社会。やはり親王家であるオルレアン家の子息と王女が縁組すれば、オルレアン家は王家にとって大きな脅威となろう。
「オルレアンの一族は確かに魅力的だが、君の王子なら或いは――」
 リシュリュー公がオルレアン一族を魅力的と断じるには理由があった。若き日、リシュリュー公は今のオルレアン公の姉であるシャルロット・アレーと恋に落ちた。だが、幼少の国王の摂政を勤めていた先代のオルレアン公は二人の結婚を許さず、リシュリュー公はバスティーユ牢獄に投獄されたのだ。
「楽器は得意か、大使」 
 打てば響くような勢いでディートルフが答えた。
「嗜み程度には」
「では、王女の演奏会に貴公が呼ばれるよう、私が取り図ってみせよう」
「有り難き幸せにございます」
 リシュリュー公はつと立って来、ディートルフの頬に手を添えた。輪郭に沿って指を滑らせていく。ディートルフはその家名の如くの猫のように、甘んじてその愛撫を受けた。
 躾の行き届いた従僕はいつの間にかその姿を消していた。
 生娘の振りをするつもりはなかった。相手は太陽王を名付け親に持つ、陰謀と放蕩で知られるリシュリュー公。性の相手もどちらも、と言われている。国王とて異性愛者でさえなければ、彼をその寝台に引きずり込んだであろう。
「君の王子は果たして王女を満足させられるだろうか」
「お確かめになられますか」
 ディートルフは唇を柔らかく開き、リシュリュー公の口付けを受け入れた。舌技は流石という他はなかった。舌はまるで生き物のように蠢き、ディートルフの口内を蹂躙した。自らも舌を絡めてそれに応えながら。
「モンセニュール(閣下)……」
「ムッシュー(殿)で構わぬ」
 自分より高位の相手にムッシューと呼びかけることが許されるのは、大いなる特権であると共に二人の間の親密さを示すものであった。
 ディートルフの首筋を撫でていたリシュリュー公の手が胸元に落ち、ジレの合わせ目に滑り込んだ。頂きを探られて、ディートルフは意図して息を乱した。
「君はフランス人以上にフランス的だな。到底ドイツ人とは思えぬ」
 その言葉を聞いた瞬間、何故か帝国の大使の姿が脳裏に過ぎった。あれこそがドイツ人の鑑なのだろう。真面目で率直、そう、愚鈍なまでに。
 そしてそれと同時に不思議に思った。自分はあの大使の一体何を知って、そう思うのだろう、と。
 ああ、そうだった。
 ラインラントの国王陛下はヴェルフの血を引くのだったな。
 ディートルフはジレの上からリシュリュー公の手をやんわりと押さえ。
「ムッシュー、この続きはまたいずれ」





「ディー!」
 バイエルン大使が宮廷中に張り巡らせている情報網は何事も見逃さないらしかった。抗議の手紙はディートルフが居住するメゾン(居館)に矢継ぎ早に届けられ、返事を書く暇もあらばこそ、ついに本人がやって来た。
「どういうことだ、リシュリュー館に行ったそうだな」
 リシュリュー公のパリの別邸はリシュリュー館と呼称されていた。
「ああ、シュタインベルク産の白葡萄酒の礼にと招待された」
「相手は王の寝台に二人も従妹を送り込んだ女衒だぞ」
「同時に王の寵臣でもあるな」
 憤懣やる方のない様子のルードヴィヒをよそにディートルフは呼び鈴を鳴らし、召使にショコラを注文した。
「ルッツ」
「何だ」
「知っていたのか、シャルトル公のことを」
 ルードヴィヒは嘘のつけない男だった。沈黙し、それが図らずも肯定の印となった。
「気にするな。私とて貴公に打ち明けていないこともある。お互い様だろう」
 ルードヴィヒは何か言いた気に唇を動かしていたが、やがて諦めたように首を振り、口にしたかった言葉とは恐らく別の内容を口にした。
「王女と結婚する。宮廷の序列を上げる一番手っ取り早い方法だ。オルレアン一族にとっては好都合だが、王はそうは思わないだろう。何故なら王には」
「王太子がたった一人。王太子に万が一のことがあれば――」
 ルードヴィヒは頷いた。
「ならば、私にも勝機はある筈だ。野心家の親王家にむざむざ王女を渡すくらいなら、引き離す道を選ぶかもしれない」
「そのためにリシュリュー公と手を組むのか」
「ルッツ、私たちは親しくなりすぎた。私が君の行動を制限しないように、私が目的を達成するために取る行動を君が止める権利もない」
「だが! だが、ディー!」
 ルードヴィヒは声を荒げた。
「何があっても手に入れたいのか。フランスの王女でさえあれば、それでいいのか!」
 ディートルフは迷いのない口調で言った。
「それでいい」
 召使がワゴンを押し、二人分のショコラを運んできた。ルードビィヒは口論を止め、椅子に腰を下ろすと、震える手でカップを手にした。
「ディー、君はヴェルサイユをよく知っていると思い込んでいるだろう。だが、違う。この宮廷にはおよそ人の想像もつかぬほどの悪徳と退廃がはびこっている」
 ルードヴィヒはカップに口をつけるとそれを一息に飲み干した。
「虚実をより分け、世にも残酷な真実を紡ぎ合わせて織り上げたタペストリーは幾枚も。美しいものも、――おぞましいものも。僕はそれを用いて、バイエルンとフランスの秘密同盟を結んだ」
 カップをソーサーに戻す音が大きく響く。
「公と寝たのか」
「まだだ」
 ルードヴィヒはその端正な顔立ちには不似合いな、およそ凄惨な笑みを浮かべた。
「ディー、僕は君のためにアンリエット姫を手に入れてみせよう」





つづく
Novel