キャビネ・ノワール 7





 王女の私的な音楽会に呼ばれることが出来たのは、やはり宮廷きっての実力者、リシュリュー公の口添えあってのことだった。
 目当てのアンリエット王女は間もなく別れを迎える双子の姉、ルイーズ・エリザベート王女とのひそひそ話に興じていた。
 お気に入りの色である真紅のドレスに身を包んだ王女はうら若く、美しかった。フランス王家の子女たちは宿命的におべっか使いの廷臣たちに取り囲まれ、しぜん気位が高くなるものだが、王女はその驕慢ささえも魅力の一つに変えていた。
 いとこ、と端的に表現されることの多い親王家の親族たち。今のオルレアン家は太陽王の弟を初代当主に持つが、二代目は太陽王が寵姫との間に設けた庶子を押し頂いた。現オルレアン公はその二人の間に生まれた子。シャルトル公ルイは太陽王の曾孫に当たるのである。そこに王女が縁付けば、さらに強力な王位継承権を主張することが可能となるだろう。
 アンリエット王女は11歳、シャルトル公ルイは13歳。幼馴染みの延長線上の二人だか、幼馴染みから恋人に発展することは世の中にままあること。王とて災いの種は早めに摘み取っておきたいに違いなかった。
 音楽好きとして知られるアンリエット王女は優美にヴィオール(ヴィオラ)を奏でた。
 欲望の焔が胸に渦巻くのを押し留めることは出来なかった。正当なるフランス王女。若く美しく、才知に溢れる。この王女の血を引く子なら――。
 拳を硬く握り締め、黄金の瞳に宿ったであろう剣呑な色を消す。
 自分の番が来、立ち上がったディートルフにアンリエット王女が尋ねた。
「何をお弾きになられますの」
 クープランやラモーといった名だたるフランスの作曲家の曲を選び、王女におもねるつもりはなかった。いかにフランス人的と言われても、自分はドイツ人。そして自分が求めているのは、ドイツの王国の王妃なのだから。
「バッハのフランス組曲を」
 ディートルフは椅子を引くと、クラヴサン(チェンバロ)の前に座った。
 鍵盤の上に手を置き、目を閉じる。やがて自然に手が動き始めた。
 バッハは好きだった。バッハのルター派的生真面目さが自分の気質に染むのかもしれなかった。
 完全に独立した動きを見せる右の手と左の手で紡ぐ旋律は、さながら長い時間をかけて織り上げられるタペストリーのよう。
 タペストリー……。

――ルッツ、君は一体何を知った?

 ヴェルサイユが常軌を逸した快楽の地であることはとうに理解していた。
 宮廷では長く続いている情事はふんだんにあった。サロンの一角を占めるリシュリュー公は妻が愛人と寝台にいる姿を目撃した時、こう言ったとまことしやかに噂されていた。
「マダム、私以外の者にこれが見つかったらどうなるか、考えてもごらんなさい」
 避妊は神に背く行為だが、避妊具はこのヴェルサイユでは当然のように使われている。それは貴婦人たちの密かな――或いは公然の――情事の隠れ蓑となっていた。ルードヴィヒもそんなことは百も承知の筈だろう。
 誘惑は時代の法典、不道徳はその原則、悪徳は虚栄心の満足だ。
 だが、ルードヴィヒの奇妙に思いつめたような口振りが気に掛かってならなかった。
 人の想像もつかぬほどの悪徳と退廃。世にも残酷な真実……。
 バッハは完璧に奏でることに成功すれば、別の世界が見えてくるものだ。
 ディートルフは一時、自分が王女の御前で演奏していることを忘れた。完璧に演奏しなければならないという気負いも、自分を美しく見せようというあざとさも、バッハの旋律が創り上げる小宇宙の前にやがて霧散していった。
 ふと気が付くと曲は終わっていた。水を打ったような沈黙が流れる中、口火を切ったのは、アンリエット王女だった。
「見事でしたわ、大使」
 リシュリュー公もまた拍手を送り。
「貴公は控えめな男だな。これで嗜み程度とは」
 どうやら王女に自分を印象づけることには成功したに違いなかった。ディートルフは腰を屈めてお辞儀をすると、王女の手を取り、その甲にうやうやしく口付けた。 





「カッツェンエルンボーゲン大使」
 王女の居室を出ると、待ちかねたように帝国の大使が駆け寄ってきた。恐らくどこからか王女の私的な音楽会の噂を聞きつけてきたのだろう。フランスの宮廷でいかに帝国の大使が白眼視されようとも、帝国の大使には潤沢な資金と背後にあまた抱える間者がいる。
「何か」
 帝国の大使には個人的に好感を持ってはいたが、すぐに心の内をさらけ出すつもりはなかった。ここは万魔殿、皆心に一物を持っている。
「歌劇場での仮面舞踏会以来、ゆっくり話す機会がありませんでしたね」
 ディートルフは帝国の大使の服装を盗み見た。パリの仕立て屋で急ぎ誂えたのだろう。大使は裾が大きく張り出したヴェルサイユ流のジュストコールを身につけていた。
 悪くないな、ディートルフは思った。ヴェルサイユでは男も女も孔雀の如く着飾ってこそ、だ。
 ディートルフに続いて王女の居室から出てきたリシュリュー公が二人に意味ありげな視線を送ってくる。ディートルフは言った。
「庭に出ましょう」
 ディートルフは宮殿を後にすると北側に向かった。以前大使を見かけた時は冬枯れていた庭園だったが、肉断ちの四旬節を終えた今はそこかしこに春の息吹があった。
「親しい付き合いなのですか、バイエルンの大使とは」
 何と直截に物を聞くのだろう。それがむしろ微笑ましくも思え、ディートルフは朱唇に笑みを刻んだ。
「あなたも大使ならば、ご存知でしょう。大使は互いに国を背負っている。腹の探りあいとなってしまうのは仕方のないことだ」
「そうですか」
 大使は寂しそうに笑った。
「やはり似ておられますね」
 不思議そうな表情を浮かべる帝国の大使に向かい、ディートルフは続けた。
「我がラインラントの国王陛下に」
 大使は合点がいったように笑い。
「残念ながらお目にかかったことがないのですが、私の大叔父に当たるそうですね」
 ルドルフ王は前王ジキスムントがヴェルフ伯の娘エリザベートに生ませた子供であった。庶子とされ、一度は縛首台に立たされながらも奇跡的な生還を果たし、ラインラントの王となったのである。
 王位継承者たるラインスター公の子息とその従兄弟であるシュタインベルク伯の子息は、共に兄弟がいなかったこともあり、まるで双子の兄弟のように育った。ニンフェンベルク宮殿は二人の遊び場、ルドルフ王は優しい慈父であった。
 過酷な生い立ちにも関わらず、ルドルフ王は優しかった。ディートルフはそんな国王を心から敬愛していた。
「似ておられますか、そんなに」
 ディートルフは頷いた。
「顔ばかりでなく性格も似ておられるようだ」
 直截な物言い、感じやすい気質。それらはすべて国王の若い時はこうであったろうと思わせるものだった。だからこそ自分はこの帝国の大使に親しみを覚えてしまうのだろう。
「ところで、ネプチューンの泉はもう見られましたか」
 北の花壇を通り過ぎたところでディートルフは前方を指し示した。
「太陽王が造った物に現王が手に入れられた。九十九もの噴水が――」
 言いさして、ディートルフは足を止めた。泉の前に人だかりがしていたからである。
 紳士は眉を潜め、貴婦人たちは扇で口を覆い、泉を遠巻きにしていた。衛士を呼ぶためだろう。紳士が一人、二人の脇をすり抜け、宮殿めがけて走っていった。
 泉の中央部分に男がいた。うつぶせになり、ジュストコールの背を向けて。両手は溺れた女のように大きく広げられ、身動き一つしていなかった。
 次の瞬間、ディートルフは駆け出していた。
 泉に飛び込み、水の中を進んだ。春とはいえ、水は身を切るように冷たい。だが、ディートルフは一向に頓着しなかった。まさか、そんなことがあっていいはずがない。
 男の身体を抱え上げ、顔を上向かせた。濡れた白金髪が頬に張り付く。
 ディートルフは叫んだ。声の限りに。
「ルッツ!」





つづく
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