キャビネ・ノワール 8





 宮廷はたちまち蜂の巣を突いたような騒ぎになった。ヴェルサイユの庭園で殺人、しかも被害者はバイエルンの大使である。極めて高度な政治問題にもなりかねなかった。
 ルードヴィヒの首には絞痕があった。首を絞められた後、泉に投げ込まれたのだ。 
 ディートルフはメゾン(居館)の一室に閉じ篭っていた。宮廷から再三にわたり召還要求が下りていたが、病を理由に握りつぶした。いかなフランス王とて他国の大使を居館から引きずりすことは出来まい。
 従僕も小間使いも立ち入らせず、部屋は荒れ放題に荒れていた。
 ディートルフは唇を噛みしめ、考えこんていた。
 ルードヴィヒは深入りしすぎたのだろう。だから殺された。誰に?
 政治に興味のない王が命を下すとは考えにくかった。黒幕は他にいる。
 ある名が脳裏に浮かんだ。
 スクレ・ドゥ・ロワ。
 王の秘密機関と名付けられている組織だが、実質指揮を取っているのは、枢機卿のフルーリーだ。
 国王が幼い頃より教育係を務め、その関係から王が全幅の信頼を寄せるようになった。齢八十を越えてなお現役であり、肩書きこそ持たぬが、事実上この国の宰相だ。
 虚ろな瞳で見ることもなく周囲を見ていたディートルフは、ふとテーブルに目を止めた。
 テーブルの上に置いてあるのは、注文した覚えのない帽子の箱だった。騒動の最中届けられ、そのままになっていたのだ。
 やり場のない怒りがこみ上げて来て、ディートルフは激情の赴くままに箱を払った。テーブルから落ちた拍子に箱の蓋が開き、そこから縁あり帽が飛び出した。
 帽子の縁がほつれている。
 パリの一流の帽子屋がそのような縫製を見逃すはずがなかった。胸騒ぎを覚え、ディートルフはナイフを手に取った。縫い目の糸を切ると、そこから白い物が覗いた。
 その後は無我夢中だった。糸をすべて抜き取ってしまうと、帽子の縁の合わせ目から手紙が現れた。
 急ぎ封を切る。現れたのは、見覚えのある友の字。



 今、人を待たせてこれを書いている。
 何を聞かれても知らないとだけ。君が無事でいること、僕はただそれだけを願っている。
 ディー、僕は君を愛していたように思うんだ。
 君の美しい黄金の髪に顔を埋める度、まるで初恋の熱に浮かされた青年のように心ときめいた。
 もし生きて君に再会出来たなら、言葉にしてそう言うよ。

 レーベ・ヴォール!



 乱れた最後の一節を見て、ディートルフはこの手紙の意味を悟った。
 レーベ・ヴォール。別れの言葉だが、普通は使わない。ドイツ人なら、アウフ・ヴィーターゼンを使うだろう。
 レーベ・ヴォールはもう二度と会えない相手に向かって使う言葉だった。
 これはルードヴィヒの遺言だ。
 ディートルフは手紙を握り締めた。
 涙が一筋、頬を伝って流れ落ちる。
 流れる涙はやがて慟哭へと変わった。
 ルッツ、私はどうしてもフランスの王女が欲しかった。どんな犠牲を払っても、と思っていた。
 だが、それは果たして君を喪ってまで手に入れるものだったのだろうか。
「……許してくれ、ルッツ」
 私は愚かだった。
 私の醜い欲が、そのあさましさが、君を殺した。
 ディートルフは立ち上がり、シリンダー式の書き物机に歩み寄ると、抽斗(ひきだし)を開けた。
 そうしてしばらく鋏の刃先を見つめていたが、やにわに髪を束ねる黒絹のリボンをほどくと、その黄金の髪に鋏を差し入れた。
 髪を断ち切る鈍い音が耳元近くでする。

――こんな、……髪!

 一度感情を爆発させてしまえば、もはや止め処がなかった。
 ディートルフは鋏を振りかざし、二度、三度と髪に鋏を入れた。めちゃくちゃに動かしたために、頬を、首を傷つけたが、一向に頓着しなかった。
「カッツェンエルンボーゲン大使!」
 手首を掴まれ、我に返る。
 そこに立っていたのは、帝国の大使だった。





 リーンハルトは大きな責任を感じていた。
 あの時、自分がカッツェンエルンボーゲン伯に声を掛けなければ、伯は庭には出なかっただろう。
 自分が声を掛けたばかりに見せてしまった。あの世にも美しい男(ひと)に、友の死体を。
 カッツェンエルンボーゲン伯は友を抱いたまま、その場から離れようとなかった。やがて到着した衛士が伯から死体を引き取ったが、伯は呆然とその場に座り込んだままでいた。
 リーンハルトはカッツェンエルンボーゲン伯のすぐそばにいたが、何もすることが出来なかった。慰めの言葉をかけることも、濡れた服を着替えさせることも、何一つ。
 やがて騒動を聞きつけたリシュリュー公が手配をし、公爵家のお仕着せを身に付けた従僕がカッツェンエルンボーゲン伯を馬車に乗せると、彼の住まう居館へと連れて帰った。
 腹を探り合う仲だと言っていたが、その言葉は必ずしも真実ではなかっただろう。少なくともバイエルン大使の方は。
――ディー。
 親しさの度合いを見せ付けるかのように多用していた愛称。リーンハルトを探るように見ていた蒼い瞳。
 白金髪に蒼い瞳を持つバイエルンの大使と黄金の髪と瞳を持つラインラントの大使は、まるで一対の美しい絵画のようだった。
「申し訳ございません。誰であれ、お通しせぬよう言いつかっております」
 従僕に迷いのない口調で言われれば、お悔やみの言葉を述べつつ、見舞いの品を渡すより他はなかった。
 御者の用意する足乗せ台に足を置きかけて、リーンハルトは未練がましく居館を振り仰いだ。

――ヴェルサイユが歓迎せずとも私があなたを歓迎いたしましょう。

 オペラ座でのカッツェンエルンボーゲン伯の言葉が耳をかすめた。
 誰一人として信用出来ぬと知りつつ乗り込んできた国で、宮廷だった。
 だが、カッツェンエルンボーゲン伯のその言葉だけは何故か信じられるような気がしてならなかったのだ……。
 リーンハルトはごくりと唾を呑み込むと、屈み込んで長靴下を直す振りで、御者にあることを囁いた。御者は心得たように頷くと居館の玄関に向かった
 御者が呼び鈴の紐を引くのを見届けてから、居館の裏へと回る。
 嫌悪の表情を浮かべられるかもしれない。冷たく追い返されるかもしれなかった。
 だが、ただ一人暗い部屋の中に閉じ篭り、悲嘆にくれる相手のことを思えば、自分がどう思われようと、どんな態度を取られようとも構わない気がした。
 塀を乗り越え、敷地内に入る。
 鍵の掛かっていない裏口から居館に入ると、玄関先がにわかに慌しくなった。御者に一芝居打つよう命じておいたのだ。急に苦しみ出し医者を呼べと叫ぶ御者に、今頃は従僕も小間使いも釘付けになっているはずだった。
 リーンハルトは騒動をよそに階段を上がり、前室の前に立った。
 フランス宮廷独特の引っ掻くようなノックをしようとして止めた。入るな、と制止されることを恐れたのだ。
 意を決し、前室に入る。
 続く部屋の扉が僅かに開いており、その隙間からカッツェンエルンボーゲン伯の後姿が覗き見えた。
「大……」
 そこに煌く刃先を認めた瞬間、考えるより先に身体が動いた。





つづく
Novel