キャビネ・ノワール 9





 咄嗟に手首を掴んだものの、リーンハルトは次に掛ける言葉を持ち合わせなかった。
 振り払われる気配を察し、より一層手首を掴む手に力を込める。
「……離せ」
「美しい金髪を」
 その言葉でカッツェンエルンボーゲン伯はようやく我に返ったようだった。唇の端を上げて皮肉がちな笑みを形作り。
「そうか?」
 冷たく言った。
「私は黒髪の方が好きだ」
 自分に向けて言った言葉ではないだろうが、黒髪持つリーンハルトは戸惑いを禁じえなかった。
「離してくれ。もう、切らぬ」
 いつまでも手首を握ったままでいるリーンハルトを不快に思ったのだろう。カッツェンエルンボーゲン伯は噛んで含めるように言った。
 リーンハルトはカッツェンエルンボーゲン伯に向けて手を差し延べた。その意図を悟り、カッツェンエルンボーゲン伯はリーンハルトの手の上に鋏を置いた。
 一旦は渡したが、また使わぬとも限らない。リーンハルトは暫く考えた挙句、鋏を服の隠しに仕舞った。
「どうやって入って来た」
 リーンハルトはかいつまんで事情を説明し。
「お許し頂ければ幸いです。ただ私は……、貴方のことが心配だった」
 見渡せば、室内は荒れ放題だった。書き物机の抽斗(ひきだし)は開け放しのまま、帽子は転がり、床には黄金の髪が散らばっている。
 リーンハルトはカッツェンエルンボーゲン伯が手紙のような物を握り締めていることに気付いた。すぐに視線を逸らしたが、察しの良い彼のこと、気付いたのだろう。黄金の瞳に警戒の色が浮かぶ。
「帝国の大使なら他に成すべきことは多々あろう」
「私は大使である以前にシュヴァリエ(騎士)でありたいと思っております」
「シュヴァリエ(騎士)か。私が女であれば、さしずめ感涙に咽んだことであろうな。だが、生憎と私は男で、下手な同情は蔑みと思う性質(たち)なのだ」
 カッツェンエルンボーゲン伯の言葉には無数の棘が潜んでいた。リーンハルトは瞳を伏せ、甘んじてその言葉を受けていた。
 ややあって、カッツェンエルンボーゲン伯はぽつりと言った。
「――すまぬ」
 カッツェンエルンボーゲン伯は立ち上がって行き、書き物机の抽斗(ひきだし)に手紙を入れると鍵を掛けた。
 そして崩れるように肘掛椅子に腰を下ろす。俯き加減で、髪を乱し、頬や首から血を流す伯はしかし凄絶なまでに美しかった。
 リーンハルトはハンカチを差し出し。
「痕が残らぬと良いのですが」
 カッツェンエルンボーゲン伯は主語を省略して言った。
「誰だと思う」
「……」
 リーンハルトはためらった。フランス全土に網の目のように張り巡らされた帝国の情報網は何事をも見逃さない。推測は付いていた。だが、外国(とつくに)に身を置いていても、この身は帝国にがんじがらめだ。何を知っていても、何を掴んでいようとも、ラインラントの大使にそれを漏らす訳にはいかなかった。
「たとえ知っていても話す訳がないな」
 カッツェンエルンボーゲン伯はハンカチで頬の血を拭った。
「帝国にとってはむしろ好都合だったのではないか。バイエルンは帝国にとって目の上の瘤のようなもの。有能な大使はいなくなってもらった方が都合が良い」
「帝国にとっては良かったかもしれませんが、私はそうは思いません」
「ふふ、口では何とでも言える」
 リーンハルトは沈黙を保ったままでいた。そうではないと弁明するのは容易いだろう。だが、相手の心にそれが響かなければ何の意味もない。
「怒らぬのだな、帝国の大使ともありながら」
「腹を立ててはおりませんので」
 リーンハルトは首を振り、ためらいがちに言った。
「何かお役に立てることが……」
 言いさして、口を閉ざす。
「役に?」
 激しい敵意を湛えた黄金の瞳が真っ直ぐにリーンハルトを射抜いたからだ。
「では、可哀想な私を慰めてはくれないか」
 カッツェンエルンボーゲン伯の声の調子が微妙に変わったことにリーンハルトは気付いた。
「貴公の身体で」



 猿轡を噛ませられ、口を封じられた上で、リーンハルトは手首を一纏めにされ、四柱式寝台の柱に縛り付けられた。
 キュロットの留め金が外され、引き下ろされる。そこで初めてリーンハルトはカッツェンエルンボーゲンの本気を知った。
「……力を抜け」
 カッツェンエルンボーゲンは冷たく言った。
 自分の身に起こっていることが十全には理解出来ず、リーンハルトはその身を竦ませていた。カッツェンエルンボーゲンは舌打ちし、リーンハルトの脚間に手を伸ばした。脚間で縮こまっていたそれが探られ、引き出される。
 細く白い手に包まれ、上下に摩られれば堪らなかった。脚間のそれに血が凝り、頭を擡げる。震えながら蜜を零す先端に指の腹が触れて来、撫でるように動かされた。
「……!」
 懸命にもがいたものの、猿轡が外れることはなく、蜜で濡れそぼった指が後孔に挿し込まれた。
 リーンハルトは瞳を閉ざし、未知なるその感触に耐えた。指は内壁をこそげ落とすように動き、やがてまた指が足される。
 狭い隘路を徐々に押し拡げていこうとするその所作は、いよいよリーンハルトを怯えさせた。
「言ったであろう、力を抜けと」
 恐れはそのまま現実となり、下衣を寛げたカッツェンエルンボーゲンがリーンハルトの背後から覆い被さった。
「怪我をさせたくはないからな」
 充分な慣らしもないまま、容赦なく突き入れられた。
 男を知らぬその身体は抵抗を見せたが、カッツェンエルンボーゲンはリーンハルトの腰を掴み、ゆっくりと、しかし確実に挿入を果たした。
「動くぞ」
 一旦腰を引き、再び突き入れる。
 抜けるまで引かれ、脚の付け根が触れるまで押し込まれる。容赦のないその抽送は、そのままカッツェンエルンボーゲンの怒りと哀しみを体現しているように思われた。
 こんな目に遭わされながらも、なおカッツェンエルンボーゲンの身を案じている自分が不思議でならなかった。
 バイエルンの大使の方が執着しているように見えた関係だった。だが……。
 やはり恋人だったのか。
 突き上げられ、激しく揺さぶられながら、リーンハルトは必死にその痛みを、その衝撃を耐えた。
 仕方のない気もした。自分の子供じみた思慕の念から、彼に恋人の死に様を見せてしまったのならば。
 どれほどの苛立ちをぶつけられようとも。
 どんなひどい目に遭わされようとも。
 そして自分のその考えが間違ってはいなかったことを、リーンハルトは後に悟った。
 何故なら――。



 リーンハルトを犯しながら、カッツェンエルンボーゲンは泣いていたのだった……。







つづく
Novel