犯罪は貴族の愉しみ 1 |
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「必死だな」 時速八十マイルで走行中のパトカーの後部座席。ロンドン警視庁の主任警部、ヒース・ブラックロックは呆れたような口調で呟いた。 ロンドン市内に向かう幹線道路。美しい田園地帯をパトカーは走り抜けていく。助手席のランツベルク部長刑事は必死の逃走を続ける前方の車にちらと冷たい一瞥を送った。 「あれでは脛に傷持つ身だとみずから認めているようなものですね」 事の起こりは一時間前。ロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)犯罪捜査局(CID)特捜機動課の主任警部がある麻薬密輸事件の捜査のために、部長刑事と制服警官を伴って、ロンドン郊外のグレイブス卿の邸を訪問したことに端を発している。 警察官の身分証明書を取り出して、二、三お尋ねしたいことがあるのですが、とやった途端、グレイブス卿は二人の刑事を突き飛ばし、車寄せに停めてあった車を発進させたのだ。 疚しいことがあると言わんばかりのグレイブス卿の行動に、刑事たちは執拗な追跡行を開始したのであった。 「主任警部、どう料理いたしましょうか」 ややあって、ランツベルク部長刑事が静かに尋ねた。 運転を担当する制服警官は少しずつ、しかし確実にグレイブス卿の搭乗する車との距離を狭めている。それを含めての発言であろう。 「料理も何も……」 ブラックロックは後部座席から身を乗り出した。言を継ぐ代わりに溜息を付き、再びシートに身を沈める。 「お手柔らかにやるしかないだろう。挙動不審って理由だけで、銃弾を撃ち込む訳にもいかないからな。相手が何か仕掛けてくりゃ、正当防衛で言い逃れできるんだが」 言い逃れとは何とも凄まじい。だが、この上司の性格を知り尽くしている部長刑事は唇だけで笑い、およそ感情のこもらない声で言った。 「お喜び下さい、主任警部。どうやら仕掛けてくるようですよ」 見ると、グレイブス卿が車窓から顔を覗かせていた。右手に拳銃を構えている。 弾丸はパトカーのボンネット部分に命中したが、パトカーはビクともしない。グレイブス卿は諦めがつかないらしく、二発、三発と銃を乱射したが、結果は同じだった。 ブラックロックは不敵な笑みを浮かべた。 「スコットランドヤードの特別仕様車を甘く見るな。戦時中にはマシンガン備え付けで装甲車代わりに使われたオースティン社製だ」 「後ろに付けます」 運転を担当する制服警官がおもむろにそう宣言した。 「裁判沙汰になったら証言して貰うぞ。先に撃って来たのは向こうだと」 「お約束いたしましょう」 ランツベルク部長刑事の返事を聞くや、ブラックロックは脇下に吊るしたホルスターから拳銃を引き抜いた。 グレイブス卿が乗る車は、優美なフォルムを有するロールスロイス。主任警部の胸に、淑女の横っ面を張り倒すのにも似た、意地の悪い喜びが沸き起こった。 窓を開け、身を乗り出して、拳銃の照準をロールスロイスの車輪に定めるや、引き金を引いた。 凄まじいばかりのタイヤの破裂音が耳朶に響いた。 走行不能となった車など逃走中の人間にとっては棺桶も同然である。グレイブス卿は慌てふためき、ロールスロイスから飛び出して来た。 その進路を塞ぐような形で、パトカーが停車する。 「さて」 指と指とを組み合せた上に顎を乗せ、ブラックロックは含み笑いを浮かべた。 「仕上げと行くか」 車中で待機するようにとの指示を制服警官と部長刑事に与えて、パトカーから降り立ったのは、褐色の髪と鳶色の瞳を持つ若い男だった。型通りの美青年ではないが、猫科の獣を思わせるくどい顔立ちが目を引く色男だ。 「ヘンリー・グレイブス閣下」 グレイブス卿は憎々しげに主任警部を睨み付けた。ブラックロックは胸の辺りで銃を構えたまま。 「貴方を公務執行妨害の現行犯で逮捕します。この後の発言はすべて書き止められ、証拠として扱われますので、そのおつもりで……」 「証拠がどこにある! 私が麻薬取引に関わったという証拠があるのなら、見せてもらいたい!」 恐怖に膝をガクガクと震わせながら、グレイブス卿が叫ぶ。 まるで荷担したと言わんばかりの態度であった。 手錠を取り出そうとブラックロックは銃を左手に持ち替えた。その一瞬の隙を見逃さず、グレイブス卿はすかさず主任警部の腕を蹴り上げた。 拳銃が宙を舞った。 それを追って駆け出すグレイブス卿とブラックロックとの間でしばし格闘が展開され――。 最後に競り勝ったのは、グレイブス卿だった。ブラックロックは屈辱に歯噛みした。しょせん相手は丸腰、その油断が詰めを甘くしたのだ。 「止めておけ。警察官殺しは未遂、必然に関わらず無期懲役だ」 グレイブス卿は顔面に張り付いたような笑みを浮かべ、一歩、また一歩と近付いてくる。 引き金に指が掛かる。 しかし悲鳴を上げたのは、グレイブス卿だった。後頭部を拳銃の握りで殴打され、使い古されたドアマットのように倒れた。 ふいに視界が開ける。 そこには漆黒の髪と琥珀の瞳という世にも珍しい取り合わせを持つ、端正な顔立ちの青年が拳銃を手に立っていた。相手に気付かれぬうちにグレイブス卿の、その背後にまで忍び寄っていたのだろう。青年は主任警部につかつかと歩み寄ると、耳元で囁いた。 「さしでがましいことを致しました」 「いや」 ブラックロックは軽く首を振り、否定の意を示した。 「すまないな、ランツベルク」 「グレイブス男爵家。1854年にヴィクトリア女王より男爵位を拝受。現在の男爵はヘンリー・グレイブス。当年三十五歳、相続は十年前。家族は妹が一人。下級保守党員、王党員」 ブラックロック主任警部はデブレット貴族年鑑のグレイブス男爵家の頁を諳んじた。 ロンドン警視庁に程近い大衆食堂である。あまり上品とは言えない装飾の店内はコックニー訛りの労働者が幅を利かせている。 「考えられるか? この一点の非の打ち所のない男爵さまが麻薬密輸に関わってるとは」 「しかしあれでシロということは考えられないでしょう、――警察官殺人未遂ですよ」 「欧州じゃ出回っていない純度の高い麻薬だ。香港から入って来てる。名目上の積荷はホンコンフラワー、知ってるか?」 「あの中国製の安っぽい造花ですね」 「実際はその安っぽい造花の下に麻薬を隠していた。船主はグレイブス卿だ」 ミルクティに口をつけてから、ランツベルク部長刑事はポツリと言った。 「吐きますかね」 彼らは今、別件(警察官殺人未遂!)にて逮捕したグレイブス卿に、麻薬密輸事件との関連について尋問を続けていたのだった。 「吐きますかね、じゃない、吐かせるんだ」 ブランチだ、ブラックロックは語気荒く言って、店の親父に追加注文を入れた。 「ポークソーセージを二本と卵二個、スクランブルで。ベーコンはなしで野菜を二種類付けてくれ」 ランツベルクは健啖家の上司が精力的に皿の上の食べ物を次々に片付けていくのをぼんやりと眺めていたが、やがて――。 「主任警部」 「何だ」 「あのレディは何をしているんでしょうか」 部長刑事の視線を辿ると、ガラス窓に鼻先を付けんばかりにして店内を覗き込んでいる、白金髪の女性がいた。女性は入ろうか入るまいか思い悩んでいる風であったが、やがて覚悟を決めた様子で、店内に足を踏み入れた。興味津々で見守る二人の幹部刑事の前を素通りすると、店の主人に声を掛ける。 「こちらに特捜機動課の主任警部がいらしているとお聞きしたのですが」 親父は無愛想にブラックロックを指差した。 「あなたが主任警部さん!?」 ブラックロックは無言で顎を引いた。 「ごめんなさい、大声を出したりして。もっと年の行かれた方だとばかり思っていたものですから」 ランツベルク部長刑事はドイツ人らしい忍び笑いを漏らした。その意図を推し量るのは容易だろう。 主任警部と聞いて通常の人間が思い浮かべるのは、五十がらみの恰幅の良い壮年男性だろう。 資格任用制で雇用される大学卒の高級公務員は、巡査から出世階段を上がる一般警官よりも格段に出世が早い。その中でも一番の出世株と目される、ヤードで一番若い主任警部のブラックロックは、巡査から認められて部長刑事となったランツベルクよりも年下だった。 如才のないランツベルクは立ち上がると女性に椅子を勧めた。女性は膝の上に手を置くと、言い出しにくそうな様相を見せていた。何度も口を開きかけては言い澱み――。 「用件を伺いましょう」 ブラックロックが堪りかねて言うと、女性は決意を固めた様子で口を開いた。 「お願いです、主任警部さん。兄を、どうか兄を守って下さい。このままではきっと兄は殺されてしまいます!」 ブラックロックは面食らい、助けを求めて部下を見た。 「もう泣かないで。どうか何もかも私達に話してくれますか。貴女の名前は?」 巡査時代に若年犯罪を担当していたことのあるランツベルクが優しく尋ねると、女性は涙に濡れた面を上げた。ためらいがちにその名を口にする。 「ブランダイナ・グレイブスと申します」 今度は二人の幹部刑事が驚かされる番だった。 |
つづく |
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