犯罪は貴族の愉しみ 2





「兄の様子がおかしいと思い始めたのは一年ほど前からですわ。理由も告げずに家を空けることが多くなって、帰宅はいつも決まって真夜中。一度など服の袖に血を付けて帰って来たり……」

 女――グレイブス卿の十五才違いの妹、ミス・グレイブスはやや青ざめた表情で、これまでのいきさつを語り始めた。
 ブラックロックとランツベルクはブランチを早々に切り上げて、女をヤードの特捜機動課へ連れて来たのだった。
 特捜機動課は喧騒に満ち溢れていた。電話はひっきりなしに鳴り響き、制服警官は忙しなく大部屋を出入りしている。部屋の端から怒鳴る声、それを受けて叫び返す声。

「兄上が犯罪に荷担しているのではないかと思い始めたのはいつ頃ですか」
「二週間ほど前でしょうか。屋敷に手紙が届いたのです。受取人の名前も差出人の名前もない付け文が」
「それを受け取られたのは、あなたですか?」
 ミス・グレイブスはひどく意外そうな表情を浮かべた。
「いいえ、もちろん執事のジェームズですわ。ちょうど兄が屋敷を留守にしていたものですから、わたくしがジェームズから相談を受けたのです」
 幼くして家族を失い、養護施設で育ったブラックロックにすれば、執事という単語をさらりと口にする人種に思うところはあったが、それを口に出すことはしなかった。
「わたくしはそのような物は捨ててしまった方が良いと申しました。付け文の内容など中傷や誹謗と相場が決まっておりますもの。ところが、そこへ帰ってきた兄が自分宛だと言い張り、強引にもぎ取っていってしまったのです。――その日から兄は変わりましたわ。物音に異常に異様に敏感になり、一日中寝室に籠もりきり。わたくしが心配して兄の寝室を訪れたところ、兄はわたくしにこう申し渡したのです」
 その時の会話を思い出そうとしたのか、ミス・グレイブスは目を閉じ、ややあってから澱みない口調で話し始めた。
「『ああ、ブランダイナ。もしも私が死んだのなら、奴らに殺されたのだと思ってくれ。奴らは秘密を握った人間をむざむざ生かしておくほど寛容ではない。私亡き後はお前がグレイブス男爵家を盛り立てて行くのだ。約束してくれ、我が妹よ』そう言って、わたくしに確約を迫るのです」
「つまりあなたは兄上がその……、奴らに命を狙われるのではないかと思っていらっしゃる?」
「ええ」
 ブラックロックは隣で几帳面にメモを取っているランツベルクの方を向いた。
「ランツベルク、グレイブス卿は三階の留置所に拘留されていたな」
「はい、午後から尋問を再開する予定です」
 ランツベルクが鉄壁の無表情で答える。
「お聞きの通りです。留置所は世界で一番安全な場所です。たとえあなたが心配なさっていることが真実であったとしても、留置所の中に手は出せないでしょう」
「そうでしょうか……」
 ミス・グレイブスは不服のようだった。
 安心させようとブラックロックが再び口を開きかけたその時、轟音が響いた。
 
「機関銃(マシーネンピストーレ)……! マシンガンですね」
 とっさにドイツ語が口をついて出たらしく、ランツベルクは急ぎ英語に言い直した。 
 轟音は階下から上がっていた。
 窓に飛びついて下を覗くと、二階下のフロワの窓ガラスがすべて砕け散り、路上に散乱していた。
 ブラックロックは絶句した。特捜機動課は五階だ。その二階下と言えば……。
「留置所か!」
 スコットランドヤードの五階は犯罪捜査局(CID)に割り当てられている。捜査が荒っぽいことで有名な特捜機動課と犯罪捜査課は共にこのフロア。かたや殺人(ころし)、かたや暴力団とテロ組織相手。いずれの課の刑事も猛者揃いで、行動も迅速だ。
 ブラックロックの言葉を聞くや、刑事たちはすぐに行動に移った。
 グレイブス嬢にここから動かぬようにと言い含め、ブラックロックは武装を整えると階段を降り始めた。ランツベルクもそれに従う。
「予想通り、という訳でしょうか」
「言うな、ランツベルク。お前を締め殺したくなる」
 ブラックロックの胸に苦い後悔が押し寄せてきた。
 いや、誰も本気にはしなかったはずだ。

 白昼堂々、天下の |ロンドン警視庁庁舎《ニュー・スコットランド・ヤード》が襲撃されるなど。

 再びの連射音、続いてたまぎるような悲鳴が上がった。
 手すりに手を掛け、三階の踊り場に身を躍らせたブラックロックの前におよそ信じがたい光景が広がっていた。

 目出し帽の男が二人。マシンガンを連射しながら、その行く手を阻んでいる。
 ブラックロックは床に倒れたまま動かない制服警官を気にしながら、ガラスの破片を踏みしだいて駆け出した。

 |肩吊り《ホルスター》から拳銃を引き抜き、一番近くの男を狙う。命中したと見るや、床を蹴った。
 判断は正しかった。先ほどまでブラックロックがいた場所にマシンガンの連続射撃が降り注ぐ。
 すぐに身を起こしたブラックロックの前を人影が横切った。ランツベルクだった。
 ランツベルクは腿を撃たれてのたうち回る男の手からマシンガンをもぎ取り、投げ捨てると、残る一人を狙って撃った。
 その狙いは正確の一言。
 腕を撃たれた男はマシンガンを取り落とした。
 男はじりじりと後退を続け、やがて窓際へ追いつめられた。もはや逃げる場所はどこにもない。
 観念したかのように見えたその男は胸に手を入れた。ブラックロックがぎょっとして立ちすくむ。
 男が手榴弾をばら撒いたのだ。
「主任警部!」
 叫びと共に突き飛ばされて、ブラックロックは床にもんどり打って床に倒れた。

 爆発、そして閃光。

 次にブラックロックが目を開けた時、男たちは忽然とその姿を消していた。窓枠に結わえつけられたロープが左右に揺れている。
 ブラックロックは窓から半身をもぐりこませると、地上を見た。男らは今まさに路上の車に飛び乗ろうというところだった。
 近くにいた制服警官が呼笛を吹き鳴らした。パトカーがけたたましいサイレン音と共に車を追って動き出す。
 爆風で飛ばされた破片が頭上からばらばらと降り注ぐ。頬を拭うと、手の甲にべったりと血が付いた。
 ブラックロックはやるせなくため息をついた。
「ご無事ですか、主任警部」
 珍しくも感情のこもった声で、ランツベルクが尋ねた。ランツベルクも無傷とは言えなかった。額が割れ、そこから血が流れ出している。
「おまえこそ」
 ロンドンの目抜き通り、ブロードウェイ通りに面したスコットランドヤードの三階は惨憺たる有様だった。医者だ、担架だ、と怒声が飛ぶ中、瀕死の制服警官が助けを求めて泣き喚いている。
 ブラックロックは留置所を覗いた。
 ヘンリー・グレイブス卿は死んでいた。マシンガンの連射によって、文字通り身体を蜂の巣にされて。
「何てこった……」

 そしてブラックロックはおよそカトリックとは思えない冒涜的な言葉を吐いた。





つづく
Novel