犯罪は貴族の愉しみ 4





 大英博物館(ブリティッシュミュージアム)は常にない団体客を迎え入れていた。
 緑色の作業服を着た鑑識担当の警察官を始めとした、制服私服入り混じった、50人もの警察官である。
「そう気に病むことはないよ、ランツベルク」
 主任警視は悄然として立ちすくむランツベルクに慰めの言葉をかけた。
「いえ、私さえ主任警部のそばにいれば、こんな事態を引き起こさずに済んだはずです」
 ランツベルクは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。

 まさに虚を突かれたと言うのだろうか。修羅場をくぐり抜けた直後に起こった、一瞬の出来事。
 女は仲間と共にブラックロックを連れ去り、車に押し込んで逃走した。
 その行方は杳として知れなかった――。

「安心したまえ、部長刑事。状況から見て、奴らは初めから拉致を目論んでいた。相手方が目的を果たすまでは、ブラックロックが殺されることはないだろう」
「は……ですが」
 主任警視は手を振って。
「過ぎたことを悔やんでも仕方がない。幸い、こちらには貴重な生き証人が二人も手に入った。その線からブラックロックの行方を辿ろう。――しかしまた派手にやったものだなあ」
 天井の弾痕を見上げ、主任警視は大きなため息をついた。
「さて、これからの指揮は私が取ろう。ブラックロックを拉致した車は無線で手配をしておいた。目撃者がナンバーを覚えていたのは望外の幸運だったな。後は……」
「主任警視、私はグレイブス邸に参ります。ブランダイナ嬢の元に何か連絡が入っているかもしれません」
 主任警視は鷹揚に頷いた。
「警官を一人つけてやろう。単独行動は危険だ」
「感謝いたします」
 ランツベルクの琥珀の瞳はきらきらと異様な輝きを帯びていた。
 主任警視は不安にかられて釘を刺した。
「いいか、ランツベルク。くれぐれも先走るなよ」
 ランツベルク部長刑事は踵を返しながら。
「善処いたします」





 ブラックロックはうなっていた。
 声を出そうにも猿轡をされていて出ないのだ。
 さらに言えば、猫脚の椅子に縛りつけられ、動くこともままならなかった。撲たれた後頭部が心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛んだ。

 ここはどこかの応接間(パーラー)らしかった。
 ウィリアム・モリスの壁紙の上に湖水地方の景色が描かれた水彩画が飾られている。床にはペルシャ絨毯が敷かれ、豪華な調度品の数々が目を惹く。 
 カーテンが閉められているため、外の様子はまったくわからなかった。
 ブラックロックは首を傾げた。

 悪党のアジトにしては、この応接間(パーラー)はあまりに上品すぎるのだ。
 一体……。

 突然、応接間の扉が開いた。
「お目覚めかい、主任警部さん」
 お決まりのフレーズを口にしながら、細身の男が入ってきた。猿轡を外されるや、ブラックロックは言った。
「ウォートンじゃないか」
 男は顔見知りだった。ブラックロックは以前この男を麻薬密売容疑でしょっぴいたことがあったのだ。
 一言で表現するなら、ケチなチンピラだ。
「おまえがこの事件に関わっていたとは知らなかった。出世したもんだ」
「俺の有能さを認めてくれる人間がいたってわけさ、ブラックロック」
 無能さの間違いではないかと思ったが、それを口にはしなかった。
「で、おまえのボスは俺をどうするつもりなんだ。コンクリート詰めにしてテムズに沈めるのか?」
 ウォートンはしてやったりとばかりに大笑いした。
「あんたの土手っ腹に風穴を開けてやりたいのは山々だがな。その前に一つやってもらいたい仕事があるんだ」
「仕事?」
 ブラックロックはウォートンの次の言葉を待った。

 警視庁(ヤード)で一番危険な部署に籍を置いているブラックロックは日頃から腹をくくっていた。情け知らずの犯罪組織相手の商売。一歩足を踏み外せば、凄惨な私刑の末の死とは隣りあわせだ。
 警察官殺しは未遂、既遂に関わらず無期懲役。警察官の使う決まり文句だが、それにどれほどの抑止力があるだろうか。

――|この国《イギリス》には死刑が存在しないのだ。

「簡単なことだ。あんたにちょいと警視庁(ヤード)に電話を架けてもらいてぇんだ」
「嫌だと言ったら?」

 ウォートンは|肩吊り《ホルスター》から拳銃を引き出すと、ブラックロックの額に銃口を突きつけた。
「協力してくれるな」
「さて、どうしようか。60歳の定年にはまだ間があるし、部下の信用を失うのは困る。つけ加えると、俺の上司はうるさ型だ」
「それじゃ、俺ととっくり話しあおうか」
 ウォートンが言い終わるか否か、腹を殴られ、衝撃に息が詰まった。
 次にこめかみを殴られた。目から火花が散った。歯を食い縛り、気が済むまで殴らせてやる。
 さんざん殴りつけた後で、業を煮やしたのか、ウォートンは叫んだ。
「あんたが取り合わないのなら、こっちにも考えがあるぞ。連れてこい!」
 扉の外で人が争いあうような気配があったかと思うと、扉が開き、意外な相手が現われた。

 赤毛の女に手を取られ、苦痛に顔をしかめる白金髪(プラチナ・ブロンド)の女――。
「ミス・グレイブス!」
「主任警部さん」
 ブランダイナはブラックロックを見て駆けだそうとしたが、赤毛の女はそれを許さなかった。腕をぐいと引かれて、ブランダイナは小さく悲鳴を上げた。
「どういうつもりだ」
 ブラックロックは鋭く言った。
「このお屋敷のお嬢さんにもご協力を願おうと思ってね?」
 ブラックロックは即座に理解した。
 この応接間が悪党のアジトにそぐわないのもその道理。ここはグレイブス男爵の屋敷なのだ。
「ヘンリー・グレイブスはおまえたちの仲間だろう。その妹を人質に取るなんて」
 ウォートンは吐き捨てるように言った。
「仲間なもんか。あの裏切り者が!」
「ヘンリーはあたしたちの金を持ち逃げしたのよ」
 赤毛の女が二人の会話に割り込んできた。
「ケイ、お喋りがすぎるぞ」
「警視庁(ヤード)を襲ったのもそれが理由か」
「復讐と、それから口封じのためね。ヘンリーは貴族の坊ちゃんだから、あんたみたいなおっかない刑事さんに責めたてられたら口を割るに決まってるもの」
「だから」
 口を挟んだのは、ブランダイナだった。
「だからお兄様を殺したの?」
 ケイと呼ばれた女はきっぱりと。
「そうよ、お嬢ちゃん」
 ブランダイナの顔は紙のように白くなった。
「一般人を見殺しにするほど、スコットランド・ヤードは落ちちゃいないだろう」
 ウォートンは拳銃をちらつかせてから、ブランダイナの眉間に銃口を押し当てた。
 ブランダイナの目には救いを求める色があらわれていた。
 ブラックロックはため息と共に言った。
「いいだろう」





 ランツベルクはフォルクスワーゲン社の大衆車、カブトムシを思わせるフォルムが特徴的なビートルに寄りかかり、グレイブス邸を睥睨していた。
 グレイブス邸はヴィクトリア女王時代の建築だ。赤煉瓦造りのデコラティブな建物。三角に尖った屋根が闇の中に浮かび上がっている。

 本日、二度目の訪問だった。制服警官と共に訪れた一度目に人の気配はなかった。どの部屋もカーテンが閉められ、シンと静まりかえっていた。真鍮のノッカーを叩いてみたが、何の応答もなかった。
 諦めて庁舎に戻ったランツベルクだったが、胸騒ぎがした。あれほど大きな邸宅で、留守番の執事もいないというのは妙だ。
 主任警視からは単独行動は危険だと事前に釘を刺されてはいたが、ランツベルクにも確証はなく、制服警官を伴う理由づけとしては弱すぎた。そこでランツベルクは愛車を駆って、再びグレイブス邸を訪れたのだ。

 夜気を含んだ風が頬をなぶる。
 ランツベルクの足元には無数の煙草の吸殻が散乱しており、ここで費やされた時間の長さを如実に物語っていた。

――考えすぎか。

 ランツベルクは息を付くと、ビートルに乗り込んだ。
 ほどなくして、ビートル特有のミシンのようなエンジン音が夜のしじまに響き渡った――。





つづく
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