狭間の刻 1 |
---|
フィリップが後に親友となるアシルと出会ったのは、七歳の時だった。 生まれて初めて伺候したブルゴーニュ大公城は目も眩むばかりに壮麗で、フィリップは高鳴る胸の鼓動を押さえつつ、城の回廊を歩いていた。 豪奢な調度品に目を惹かれれば、きょろきょろするなと付き添う父の拳固が飛ぶ。 大広間に入ると先客がいた。自分たちと同じ取り合わせだ。すなわち、壮年の貴族と少年。 恐らく自分の小姓(ペイジ)仲間になる少年なのだろう。少年の名を聞くなり、変わった名だと思った。 「アシル? トロイアのアキレウスか」 背後から飛んできた声がフィリップの心を代弁した。 振り返ると、そこに黄金の髪を持った少年がいた。 青白い卵型の顔、瞳の色は青灰色。けれど人形のような外見とは裏腹に、性格は傲慢なのだろう。少年は顎をしゃくると。 「変わった名だな。僕はエスターシュ・ド・ラ・ボーテだ」 「ボーテ(麗しの)? 人のことを言えるものか」 そう、ボーテには麗しの、美という意味があった。 アシルは金髪の少年を無視し、フィリップに手を差し伸べてきた。 「よろしく。名前は?」 二人に挟まれた格好となったフィリップは決まり悪さから開放され、ホッとして差し出された手を力強く握り返した。 「フィリップ。フィリップ・ダルブレーだ」 背後でエスターシュが小馬鹿にしたように鼻を鳴らすのが聞こえた。 儀仗官が杖を鳴らし、大公殿下の登場を告げたため、話はそこで打ち切りとなった。 後にアシルがローマ貴族、遠くはギリシャ王家の血を引くと聞いて納得した。 漆黒の癖毛も秀でた鼻梁も、かのギリシャを彷彿とさせられるものだったからだ。 エスターシュの指摘通り、トロイア戦争の英雄、アキレウスからその名が付いたのだという。 貴族の子弟は騎士見習いに先立って主君の宮廷で小姓を勤めるのがこの世の倣(なら)い。 同い年の三人は揃ってブルゴーニュ大公の配膳係を務めた。 神経質で潔癖なエスターシュと大胆不敵なアシルの仲は必ずしも良くなく、二人の仲裁は当然のようにフィリップが受け持つこととなった。 ブルゴーニュ大公国。 それは、かつてフランス東部からドイツ西部にかけて存在した大公国である。 フランス王ジャン二世の末子フィリップがポワティエの戦いで武勲を上げ、断絶していたカペー家支流であるブルゴーニュ公領を賜ったことに端を発している。 いわばフランス王家の親藩に当たるのだが、フィリップはフランス西北部からベルギーまでの広大な領地をもつフランドル女伯マルグリットと結婚し、経済の一大中心地であったフランドル地方をその領地に加えた。 中世最大の国家となったブルゴーニュ大公国ではヴァロワ家四代の当主の下、華やかな騎士道文化が花開いた。 しかしある前代未聞の事件により、大公国の運命は大きく変わり始めることとなる。 ――フランス国王、シャルル六世の発狂であった。 「俺は黄金拍車を手に入れる」 アシルはそう告げるなり、攻城櫓を飛び出していった。 呆然と立ち竦むフィリップの背後でエスターシュが舌打ちする。 「抜け駆けする気か、――アシル!」 三人が初めて出た戦場は想像していたものとは全く異なっていた。 仕える騎士たちは次々と倒れ、そこかしこで血が飛沫(しぶ)いていた。 負傷者は手足を無くした者、頭を砕かれた者と様々だったが、断末魔の呻きだけはいずこも同じだった。 出会いから七年、三人は揃って十四歳となり、騎士見習いとなっていた。騎士見習いに許される武装は鉄枷の付いた棍棒のみ。仕える騎士の手助けをするのが仕事だ。 けれどアシルは仕える騎士が目前で倒されたのを見るや、その騎士の剣を抜き、攻城櫓から飛び出していったのだ。 投石機(カタパルト)から撃ち出された大石が攻城櫓を直撃し、攻城櫓は大きく左右に揺れた。 思わず尻餅を付いたフィリップの横をエスターシュがすり抜けた。 「先を越されてたまるか!」 騎士叙任は通常十七歳から二十歳とされている。されど戦場で目覚しい武勲を上げれば、その年齢に満たずとも騎士叙任を果たすことが許された。 黄金拍車は騎士の象徴。アシルは騎士叙任を狙っているのだ。 二人に遅れまいと立ち上がったフィリップは、眼前の騎士が弩(いしゆみ)の矢に射抜かれるのを見た。いかな鉄の鎧でも近距離から放たれる弩の矢は防ぐことは出来ない。 フィリップは雨霰と降り注ぐ弩の矢の前に立ち竦んだ。エスターシュは弩の矢の雨の中を掻い潜り、既に敵陣に潜入していた。 何も考えずに飛び出せば、恐らくは自分もあそこに行けたであろう。一瞬の躊躇、それがフィリップの命取りとなった。 それは三人の出会いと全く同じだった。けれど出会いの時とは違い、アシルは自分を顧みることなく、フィリップは一人、取り残されたのだった。 アシルとエスターシュの二人は先駆けの功績により、その場で騎士叙任を果たした。 出遅れたフィーリップは騎士叙任までその後三年も待たなくてはならなかった。 後に何度悔やんだことだろう。 どうしてあの時、一歩を踏み出せなかったのかと。 ブルゴーニュ大公が持つ騎士団は七つ。戦場で互いの命を預ける騎士団は結束を深めるため、同郷者や同年齢者で構成されることが多く、三人は当然のように同じ騎士団に入団した。 そしてアシルとエスターシュ、そして二人から遅れること三年で騎士叙任を果たしたフィリップは、ブルゴーニュ大公宮殿のある街にちなみ、いつしかこう呼ばれるようになった。 ディジョンの三騎士、と。 フィリップはアシルの騎士部屋で気炎を上げていた。 「盛りの付いた雌犬と言ったんだぞ、この私を!」 「俺たちはあいつと何年付き合ってると思う。いちいち腹を立てていたら身が持たん」 アシルはいつものことだと取り合おうとはせず、長大な両手持ちの剣の手入れに余念がなかった。 「しかし珍しいこともあったもんだ。お前があいつに腹を立てるなんて」 そう、いつも三人の間でいざこざを起こすのはアシルとエスターシュの二人で、フィリップはもっぱら二人の仲裁役だった。アシルの言葉ももっともだった。 「しかも言うに事欠いて雌犬呼ばわりとは。何が原因だ?」 フィリップは沈黙した。 当初のエスターシュの怒りの原因はアシルだった。しかしアシルの肩を持つフィリップに対し、エスターシュが言ったのだ。アシルに尻尾を振る盛りの付いた雌犬め、と。 常は温厚なフィリップも流石に怒り狂い、あわや決闘を申し込む騒ぎとなったのだ。 「お前の同室者は今夜は大公殿下の添い寝当番だったな。ここに泊めてもらうぞ」 「もちろん構わんが」 この時代、個人の私事権は存在しなかった。老いも若きも男も女も皆裸で一つ寝台で休んだ。 むろん騎士とて例外ではなく、フィリップはエスターシュと同室だった。だが、流石に決闘を申し込む寸前までいった相手と一つ寝台で休む気にはならなかったのだ。 アシルは両手持ちの剣を片付けると手燭を顧みた。 「油が残り少ない。もう寝るぞ」 アシルはぞんざいに服を脱ぎ捨て全裸になるや、箱寝台に潜り込んだ。フィリップもまた服を脱ぐと寝台に入った。掛け布団からは慣れ親しんだ友の匂いがした。 「こうしていると昔を思い出すな」 フィリップは言った。 「よく盗み食いをして、配膳頭に木匙で頭を嫌と言うほど叩かれたっけ」 「叩かれるよりも食事抜きの罰の方が辛かったな」 「空きっ腹を抱えて寝ていたら、アシル、お前がこっそりパンを持ってきてくれた」 「今にも死にそうな顔をしていたからだ」 「エスターシュが告げ口をして」 「例によってとっ組みあいの大喧嘩」 二人は声を揃えて笑った。 「俺たちは何年経っても変わらないな」 そうだろうか、とフィリップは訝った。だが、それを口にする前にアシルが告げた。 「お休み」 フィリップは寝返りを打つふりでアシルに身体を密着させた。重なり合った背からアシルの温もりが伝わってくる。 自分は変わってしまったとフィリップは思っていた。 もしアシルと身体を重ねたら――。 この逞しい筋肉はどのように動くのだろう。 果てるときの表情はどんなだろう。 それを想像するだけで勃ち上がってしまう自分がいた。友に悟られぬよう膝を抱えた。 どうかしているのだ。幼馴染で親友のアシルに、こんな欲望を抱いてしまう自分は。 騎士であれば、女性の数が圧倒的に不足する戦場で、同性同士求め合う者たちは当たり前のようにいた。それこそ友人同士でも。 キリスト教徒にとって禁忌だが、そこに愛がなければ禁忌には当たらぬと皆は都合良く解釈していた。女がいなければ手近で済ます、ただそれだけのこと。 けれどフィリップはそれだけにアシルにその行為を持ちかけることは出来なかった。身体を重ねてしまえば、歯止めがかからなくなるような気がしたのだ。アシルへの想いが。 同性に愛情を抱く、それはキリスト教徒にあるまじき最大の禁忌。 アシルは竹馬の友。毎日を共に過ごし、気付くといつも隣にいる。実の兄弟以上に親しい存在。なのに――。 どうかしている、私は。 フィリップは思い、目を閉じた。そして眠ろうと努力した。 努力が功を奏したのか、フィリップはいつの間にか眠り込んでしまったらしい。 次に目覚めた時は深夜だった。 城下の修道院が讃課(午前三時)の鐘を鳴らしていた。寝返りを打って気付く、アシルの不在に。 ――厠かな。 フィリップは手探りで服を身に付けると、箱寝台を降りた。 真夜中の南の空に出る月は満月と決まっている。煌々と照らす月光のお陰で、居館の窓からは大公城が手に取るように望めた。 ――それとも、女か。 なかなか戻らぬアシルを待つうち、そんな疑惑が胸に生じた。 城内の女と関係を持つ騎士は少なくない。下は鵞鳥番の娘から、上はそれこそ貴婦人にいたるまで。 そしてアシルに熱を上げる城内の女も少なくなかった。 相手は誰だろう。 それを思うだけで胸に嫉妬の焔が渦巻いた。 いつからだろう、こんな思いを抱くようになったのは。 アシルは優しかった。 パンを差し入れてくれただけではない。故郷の城を思って泣くフィリップを呆れ顔を浮かべつつも、よく慰めてくれた。いつしかアシルの匂いも温もりも、フィリップを安堵させてくれるものとなった。 ああ、そうだ。 出遅れた騎士叙任の頃からか。 自分たちはそれまでいつも二人一緒だった。初めて二人に身分差が生まれ、アシルと離れて行動することになった。そしてフィリップはいつか自分たちが別れることとなったらどうしようと途方に暮れたのだ。 今、アシルが抱いているのは誰だろう。 その女は今、腰を抱えられ、逞しい一物で深々と貫かれ、厚い胸板の下で喘ぎ声を上げているのか。 アシルは優しい。だが、そのアシルが戦場ではまるで別人のような猛々しさを見せることをフィリップは知っていた。その猛々しさそのままに求められたとしたら。 フィリップの手が脚間に伸びる。 フィリップのそれは既に固く、熱くなっていた。指を絡みつかせ、ゆっくりとそれを擦り始める。 もしもこれがアシルの手だったら。 それを想像するだけで猛る自分がいた。あの大きな乾いた手で擦られたくて堪らなかった。背後から囁かれたかった。……何と? ――ほら、もうこんなだろう。 今にもアシルは戻ってくるかもしれない。この行為を目撃されたら何と言い訳をしよう。男の自慰など当然のこと。だが、もし揶揄(からか)われたらどうする。 誰を思って、だ。 そうしたら自分は何と答えるのだろう。 理性では止めようと思っても、手は自分の思うようにはならなかった。 やがて手の平に熱い白濁を受け止めると、あまりのやるせなさにフィリップは笑った。 ……自分は異常だ。 アシルは明け方まで戻らなかった。 |
つづく |
Novel |