狭間の刻 2





 エスターシュはカイザリオンだと聞いていた。
 カイザリオン、帝王切開で生まれた子。母のいない子と同義だ。
 母親の腹を切り裂いて生まれてきた子。その暗い生い立ち故か、エスターシュは付き合いにくい男だった。高飛車で傲慢、常に自分が一番でなければ気が済まぬ。そんな性格の男と誰も進んで友になろうとは思うまい。
 そんなエスターシュはいつもアシルとフィリップの側にいた。
 他に居場所がなかったのかもしれない。





 昼食の後はいつものように自由時間だった。騎士団が置かれている居館の大広間で、騎士たちは思い思いに寛いでいた。
 アシルとフィリップは差し向かいでチェスを指し、エスターシュはその横で木彫りの林檎を作っていた。
 アシルとフィリップの目下の話題は長年の宿敵、イングランド軍の軍備についてだった。
 イングランドはフィリップとアシルが生まれる遥か以前からの敵であり、フランスは追い込まれては巻き返す、を繰り返していた。
 話す言葉が違うため、恐ろしく得体が知れず、しかしそれ故に憎むことも戦うことも容易な相手だった。
「イングランド軍が用いる長弓(ロングボウ)の長距離攻撃は確かに脅威だが、威力において弩(いしゆみ)に勝るものはあるまい」
 初陣の際、その威力を畏れる余り、一歩も足を踏み出せなかった経験のあるフィリップは弩派だった。
「長弓とて甲冑を貫くぞ。殺すことは出来ずとも、戦闘不能とすればそれで充分だろう」
 イングランド軍が誇る長弓。元はイングランドと敵対していたウェールズの弓兵が使用していた武器だった。ウェールズを併合した後、イングランドはその武器と技術を自国に組み入れたのだ。
「そして」
 アシルが駒を置く。
「射程距離は圧倒的に長弓が弩に勝る」
 そこに駒を置くか、とフィリップは首を捻った。
 エスターシュは彫り物をする手を休め、二人の駒の動きを目で追っていた。
 時折、フィリップは思うことがあった。
 エスターシュは本当はもっと色々なことを自分たちに話したいのではないだろうか。人を人とも思わぬような言動を取りながら、しかしエスターシュは臆病な兎のような素顔を垣間見せることがあった。
「長弓は熟練者でないと扱えぬ武器だ。いくら取り入れようとしたところで、我らが長弓の射手を育成するまでには長い時間がかかるだろう」
 ポーンを斜めに進ませながら、フィリップは言った。ポーンが斜めに進むのは相手の駒を取る時だけだ。
 駒を取られたアシルは舌打ちし。
「長弓で痛い目に遭う前に、いっそイングランドと組むか」
「そしてフランスを討つと?」
 それは有り得なくもない可能性だった。
 フランス王の末子から興ったブルゴーニュ大公国は、今や本家のフランス王国を差し置き、欧州最大の国家となっていた。
 フランスの王族を主君に戴き、宮廷ではフランス語が使われながら、ブルゴーニュ大公国の領邦(テリトリウム)の半分は神聖ローマ帝国に属する。
 ブルゴーニュ大公国は時代の仇花、まさに鵺(ぬえ)であった。
 アシルは笑った。
「本来はフランスとブルゴーニュが組むのが筋だろう。俺たちが小競り合いを繰り返すうち、イングランドはいよいよ力を付けて来る。この内輪揉めはイングランドのためにしかならん」
「ならばフランスが我らが軍門に下るがいい。狂った王を戴く国に未来などあるものか」
「――そこまで言うなら」
 それまで沈黙していたエスターシュが突如として口を開いた。
「フィリップ、お前がフランス王を廃したらどうだ。狂った王などフランス王国に必要あるまい」
「ルイ・ドルレアンのようにか」
 フィリップがその名を口にした途端、大広間は水を打ったように静まり返った。
「フィリップ」
 アシルが目線で促す。ここではまずい、と。
 エスターシュが小馬鹿にしたように鼻を鳴らすのが聞こえた。





 ブルゴーニュ大公ジャンが、フランス国王シャルル六世の弟であるオルレアン公ルイを暗殺したのは、七年前のことだった。
 当時の三人は騎士見習いで、騎士団の中枢部にはおらず、すべては事後に知った。
 天下のブルゴーニュ大公が持つ騎士団は七つだが、暗殺を請け負った騎士団がどこだったのか、それさえも謎に包まれていた。
 騎士団のある居館の裏、ちょうど死角となる場所に二つのブランコがあった。
 それは幼い日、フィリップとアシルの二人で作ったものだった。未だ現役であり、小姓たちが遊んだり、人目を忍ぶ恋人たちの逢引の場ともなっていた。
「ルイ・ドルレアンの暗殺については未だに禁忌だ。みだりに口にしない方がいい」
 ブランコの板に腰を下ろすなり、アシルは言った。
「何故隠す必要がある」
「わからん。ただ、ルイ・ドルレアンの暗殺は大公殿下の本意ではなかったという噂を聞いたことがある。もしそれが本当だとしたら、大公とて認めたくないのだろう」
「息苦しいな」
 フィリップは言って、立ち漕ぎを始めた。
 枝が折れるぞ、とアシルが揶揄い半分に嗜めたが、フィリップは頓着しなかった。勢いよく漕ぎ出せば、景色は大きく上下する。
「狭い騎士団の中でさえ禁忌があるとは」
「だが、少なくとも」
 よっ、と掛け声と共にアシルがブランコの板の上に立った。
「俺たちの間に隠し事はないだろう」
 フィリップはそれには答えず、まったく別のことを口にした。
「淫乱王妃のイザボーはどうしている」
 アシルはにやりと唇を歪め。
「さっそくアルマニャック伯との噂が出ているそうだぞ」
「頼りになりそうな男がいれば、誰にでも股を開くという訳か」
 すべての始まりは、フランス国王シャルル六世の発狂という前代未聞の事件だった。
 森を進軍中の王の元に狂った男が現われ、「陛下、お戻り下さい、謀反でございます」と告げたことが原因だとされている。
 国王の狂気は断続的なもので、王は時折正気を取り戻した。それが事態をさらに悪化させることとなった。
 狂った王の摂政の座を巡り、国王の叔父ブルゴーニュ大公フィリップと王弟ルイ・ドルレアンが争ったのである。
 狂王の妃はバイエルンから嫁いだエリザベート・フォン・バイエルン。フランス語読みでイザボー・ド・バヴィエールと言った。
 狂った王の相手に疲弊したイザボーは、あろうことか王弟ルイ・ドルレアンと公然と関係を持った。
 それ故にルイ・ドルレアンは驕り、我こそは兄王の摂政と、叔父であるブルゴーニュ大公と対立することとなった。
 二人の対立は激化し、七年前、父フィリップの死によってブルゴーニュ大公位を受け継いだ息子ジャンがルイを暗殺するという形で幕を閉じた。
 否、閉じたかに見えた。 
 ルイ・ドルレアンの遺児、シャルル・ドルレアンはアルマニャック伯の娘と結婚し、アルマニャック伯と共に反ブルゴーニュの貴族を集めた。やがてその一派はアルマニャック派と呼ばれるようになった。
 そして今度はイザボーとアルマニャック伯の醜聞が囁かれるようになったのである。
 アルマニャック伯は今やパリの絶対君主となっているという。
「俺たちは騎士だ。息苦しくとも、主君を信じるしかない。大公がフランスと敵対するならフランスと、イングランドと敵対するならイングランドと、ブルージュと敵対するならブルージュと戦うだけだ」
 フィリップたちが生まれる前から戦はあり、フィリップたちが死した後も戦はあり続けるだろう。
 当然のことだ、戦がなければ騎士は要(い)らない。戦場で武勲を上げねば、栄誉栄達も叶わない。
 フィリップがこの城に来てから十三年。今まで何十人、何百人もの騎士たちを、騎士見習いたちの死を見届けてきた。
 隻腕、隻眼、一生を不具の身で過ごさなくてはならなくなった者もいる。そしてこれからもその人数は増え続けていくに違いない。
「――死ぬなよ、アシル」
「どうした? 急に。縁起でもない」
 アシルは先程自分が口にした言葉を忘れてしまったのかのように、ブランコの立ち漕ぎを始めた。
 ブランコが揺れる度、枝はしなり、ぎっ、ぎっ、と不愉快な音を立てる。それはまるでアシルの内心の苛立ちを表わしているかのようだった。
「フィリップ、エスターシュには気を付けろ」
 アシルの突然の忠告に、フィリップは弾かれたように顔を上げた。
「フィリップ殿の私室に出入りするのを見た奴がいるそうだ」
 フィリップ殿はブルゴーニュ大公ジャンの息子。世継ぎの君だ。
 フィリップと同じ名であるのは、むろん偶然ではない。フィリップの父は主君の子息の誕生にあやかり、同じ年に生まれた自分の息子に同じ名を付けたのだ。
 さり気なさを装って、フィリップは尋ねた。
「昼か?」
 アシルはあっさりと答えた。
「昼も夜も、だそうだ」





つづく
Novel