狭間の刻 3





 同じ部屋でありながら、エスターシュの行動に気付かなかった自分も自分だが、私事権が存在しないが故に、互いの行動には口を挟まないのが、騎士の暗黙の了解だ。
 思い返せば、エスターシュは頻繁に寝台を空けていた。
 アシルの言葉はフィリップを驚かせたが、それ以上の感情は生まれなかった。
 傲慢不遜なエスターシュだが、それでも権力欲はあるのだろう。主君や年長者にはおもねるのが常だった。
 何よりあの美貌だ。
 少年の頃から人形めいたその美貌は目を惹いていたが、長じてもそれは変わらなかった。
 蜜壷から零れだした蜂蜜さながらの黄金巻毛、肌はあくまでも白く、物憂げな青灰色の瞳。成程、愛玩動物にはもってこいだろう。
 そんなことを考えながら見ていたためだろう。
 エスターシュが振り返り、寝台の上のフィリップを見た。
「私に何か用か」
「別に」
 言って、掛け布団の下に潜り込む。
 エスターシュは椅子代わりの長持ちに腰を掛け、その黄金の髪に櫛を入れているところだった。再び前を向き、髪に櫛を入れながら。
「お前は本当にアシルの腰ぎんちゃくだな」
 常ならば相手にしないところ、だがフィリップはつい先だってエスターシュに言われた雌犬の言葉が心に引っかかっていた。
 絡みたい気分にもなった。
 掛け布団を跳ね上げ、フィリップは言った。
「人のことを言えるものか」
 それはアシルが出会いの場でエスターシュに投げかけた言葉であった。
「お前こそどうしていつも私たちの側にいる」
「お前たちが私の近くに来るのだろう」
 まるで子供の喧嘩のような意味のない応酬だった。
 思えば、自分たちは十年以上もこんなやりとりを繰り返していた。いつしかエスターシュの毒舌にも、エスターシュがいつも空気のように側にいることにも慣れ、何も言わなくなっていた。
「お前はアシルが好きなのか」
 また来たな、不穏な空気を感じたフィリップは平静を装って答えた。
「当たり前だろう、私たちは親友だ。あんなに良い男はそうはいない」
「アキレウスとその親友のパトロクロスは同性愛だったという話があるな」
 フィリップはもはや黙ってはいられず、反撃に転じることにした。
「そういうお前は毎日毎晩どこに出かけている」
 エスターシュは息を飲み、けれど珍しくも何も言い返さなかった。





 フィリップが再びアシルの部屋を訪れると、アシルはおりしも湯浴み中だった。
 木の浴槽に浸かり小姓に身体を洗わせているところだったが、フィリップの顔色を見るや、すぐに小姓を追い払い。
「あいつと喧嘩をするのは俺の役目じゃなかったか」
 冗談めかして言った。
 今日は大公の添い寝当番ではなかった筈だが、アシルの同室者は今日も不在だった。それをフィリップが口にすると。
「最近通う先が出来たようでな。最近じゃ二日に一度は部屋を空けてる。父なし子でも作らなきゃ良いが」
「そう……なのか」
「背中を流してもらえるか。風呂に入りながらでも話は出来るだろう」
 当たり前のように言われてフィリップは戸惑ったが、覚悟を決めて袖を捲った。樹脂石鹸を手にすると、海綿に丹念に擦り付ける。
 手慣れているのも当然のこと、それはフィリップか小姓時代にさんざん行った奉仕であった。
 しかし小姓時代に担当したどの騎士よりもアシルの肉体は逞しかった。その鍛え上げられた鋼のような身体は同性ながら惚れ惚れするほどだ。
「お前の名は本当にお前に相応しいな。アシル、とは」
「何も弱点のある英雄の名を付けずともと思うが」
 アシルはアキレウスの弱点として知られる踵を持ち上げて見せた。しぜん脚間のそれが目に入る。フィリップは堪らず視線を湯に落とした。
「エルキュールの方が良かったか?」
 エルキュール、それはやはりギリシャの英雄であるヘラクレスのフランス語読みだ。
「遠慮する。ヘラクレスはアキレウスより頭が悪そうだからな」
 アシルの大きな広い背中を海綿で擦り上げながら、フィリップは言った。
「エスターシュの毒舌には慣れているつもりだったのだが」
 アシルの背中には騎士の勲章とも言うべき傷跡があちこちにあった。その一つ一つがどの戦場で付けられたものか、フィリップはすべてそらんじることが出来た。
「近頃は執拗に絡まれる」
 手桶のお湯を使い、背中の泡を流す。
「果たしてフィリップ殿とはどういう関係なのか」
「さあな。男女の中かも知れんし、フィリップ殿の子飼いの一人なのかもしれん」
 アシルはフィリップから海綿を取り上げると、腕や脚を自分で擦り始めた。
 視線を逸らすのもかえって不自然な気がして、フィリップはギリシャ彫刻のようなアシルの裸身を眺めていた。
「だが、フィリップ殿と親しい仲なら、何を告げ口されるかしれたもんじゃない。だから忠告した、エスターシュには気を付けろ、と」
 フィリップは頷いた。
 アシルは他人の醜聞をむやみに口に出すような男ではない。それでもあえて口にしたのはフィリップの身を案じたからなのだろう。
 それを裏付けるようにアシルは。
「あいつは何を考えているのかわからない男だからな」
 アシルは浴槽の縁に腰を掛けると、布で身体を拭き始めた。
「騎士団の皆は私たちを友だと思っている。ディジョンの三騎士とまで呼ぶ位だ。だが、私たちは果たして友なのか」
「腐れ縁というのがもっとも近い表現だろうな」
 アシルは身体を拭き終えると、裸のままで寝台に入った。
 未だ寝る気になれないフィリップは服を身に付けたまま、アシルの傍らに横たわると、その漆黒の髪に指を絡めた。
「――十三年か。確かに長いな」
 エスターシュと共に過ごしたその歳月は、同時にアシルと過ごした歳月でもあった。
「初めてお前に会った頃は、お前の容姿が珍しくてならなかった」
 漆黒の髪、黒い眼、浅黒い肌。アシルの容姿はまさしく黒鹿毛の馬そのものだった。
「ギリシャ由来の黒髪だそうだぞ。親父は俺たちの一族はアレクサンドロス大王の末裔だと言っていたが、果たして真実かどうか」
 アレクサンドロス大王はアキレウスの子孫を自称していた。だとしたら息子にアシルという名前を付けても不思議はないだろう。
「フィリップ、近々戦がありそうだ」
 突然、アシルが浮き立った様子で言った。
「さっきの小姓が報告してくれた。大公殿下とフィリップ殿の会話を盗み聞いたそうだ。アルマニャック伯が動く。たぶん狙いは、コンピエーニュだ」
 フィリップは脳裏に地図を思い描いた。
 ディジョンから北西、パリから北北東となる位置に、その城塞都市はあった。
 ブルゴーニュ大公の領地、フランドルとブルゴーニュの中継地点であり、軍事的に重要な位置にある。
 そしてコンピエーニュ郊外にはピエールフォン城がある。かのルイ・ドルレアンがブルゴーニュ大公国の交易を監視するために造ったという、曰くつきの城だった。
 単なる宮廷闘争に過ぎなかったブルゴーニュ大公とルイ・ドルレアンの争いは、ルイ・ドルレアンの暗殺を経て、もはや全面戦争の様相を呈していた。
「すると攻城戦だな」
「大公殿下はコンピエーニュに援軍を派遣なさるだろう」
 アシルは上機嫌だった。
 アシルはその名の通り、騎士になるべくして生まれついた男だった。小競り合いばかりが続き、大きな戦のない今の状況を憂いていたのだろう。
「これから忙しくなるぞ、フィリップ」
 浮き立つ友とは裏腹に、フィリップの気持ちは晴れなかった。
 トロイア戦争の英雄アキレウスは敵将へクトールを討つが、弱点である脚をへクトールの弟パリスに射抜かれて死ぬ。
 トロイア戦争は純然たる攻城戦だ。
 そして敵たるアルマニャック伯は今やパリの君主。パリはパリスと同じ綴りだ。
 嫌な、符丁だった。





つづく
Novel