狭間の刻 4





 雨は音もなく降り続けていた。
 フィリップはコンピエーニュの街の城壁に立ち、そぼ降る雨に打たれるオワーズ川を眺めていた。
 辺りは静まり返っていたが、城壁外のそこかしこに潜む敵兵がこちらをじっと注視しているのを感じる。
「そんなところに突っ立ってると射掛けられるぞ」
 城壁に上がってきたのはアシルだった。
 アシルの言葉通り、コンピエーニュの街はアルマニャック派によって包囲され、ブルゴーニュ大公は援軍として二百騎を送った。
 コンピエーニュは深い森を背に、オワーズ川を懐に抱く城壁都市である。
 戦は膠着状態となっていた。
 攻城戦、ことに篭城する側は忍耐を強いられるが、圧倒的優位な立場でもあった。
 戦に負けても身代金目当てに人質とされる貴族はいざ知らず、落ちた都市の住民は――攻囲側の指揮官が余程高潔な人物でない限り――徹底的な略奪と暴行に晒される。
 財産は奪われ、家には火を点(つ)けられ、女たちは犯された。そのため市民は死に物狂いで攻囲軍に抗い、守備軍の味方に付くのが常だった。
 そう、守備軍には余裕があった。その余裕こそがフィリップを城壁に立たせた。
 だが。
「嫌な予感がする」
「脅かすな。――お前の予感は昔からよく当たる」
 二人は攻囲軍から矢を射掛けられる恐れのない狭間へと入った。
「お前に悪い夢を見たと言われた次の日、俺が攻城櫓から落ちたな」
「ああ」
「古来から悪い予言をするカサンドラは信用されぬ」
 フィリップはハッとして顔を上げた。
「やめてくれ。アキレウスの名を持つお前からカサンドラなどという名を聞くとゾッとする」
 カサンドラはトロイア王国の王女であり、へクトールとパリスの妹に当たる。太陽神アポロンに愛され、予言の力を授けられたものの、後にその予言を誰も信じては貰えぬという呪いを掛けられた。
 パリスがヘレンを攫った時も、名高きトロイの木馬をトロイアの城内に引き入れた時も、カサンドラの警告は黙殺され、果たしてトロイアは滅亡した。
 アシルは狭間から出ると、城壁の外を眺め。
「では、木馬を置かれても城壁内に引き入れぬことにしよう」
「呑気なものだな、そこまでして射られたいか」
 刺々しい言葉に振り向くと、そこにはエスターシュがいた。
 フィリップは思った。
 アシルとエスターシュ、二人が口にした言葉はとても似ているのだが、受ける印象がまるで異なるのは不思議なものだ、と。
 アシルは冷ややかに。
「何用だ」
「軍議だ。平騎士身分以上の者は皆集まれと」
 親切心から伝令役を買って出るような男ではない。大事な事をあえて伝えずにいて、後から笑い者にするような男だ。本当は姿の見えないアシルと自分の様子を探りに来たのではないか、そう邪推さえした。
「承知」
 アシルは短く答えると踵を返した。
 フィリップに対しては饒舌なアシルだが、エスターシュとの会話は短かった。それは過去の際限のない諍いの末、アシルが身に付けた術だったのかもしれなかった。
 アシルの後を追うフィリップにエスターシュが物問いた気な視線を投げ掛けてきた。
 フィリップは構わず城壁を降りた。エスターシュが付いてくる気配がした。背を向けたまま、問う。
「急に軍議とは――、何があった」
「ブルゴーニュ大公殿下が給糧部隊を派遣される。シャロレ伯が参られるそうだ」 
 戦は膠着状態となって久しく、街の食料は底を付き始めていた。
 待望の給糧部隊の派遣であるが、周囲を敵に取り囲まれた攻囲戦の只中である以上、食料を城壁内に運び入れるのは困難を極める。そのため、急ぎ軍事会議が開かれることになったのだろう。
「シャロレ伯が? 何故だ?」
 エスターシュは不自然に視線を逸らした。
「私が知るはずがない」 
 相変わらず嘘の下手な男だ。
 フィリップは思い、城壁を後にした。





 軍議は荒れたが、大規模な反攻を行い、それと同じくして給糧部隊を引き入れることで決着した。
 市門の跳ね橋を降ろし、攻囲軍に打って出るのだ。
 出撃は今から三日後と定められた。
「大公殿下はなぜシャロレ伯を派遣されるのだと思う」
 フィリップはアシルに尋ねた。
  コンピエーニュが、大公家の跡継ぎであるフィリップ殿がわざわざ出陣するほどの戦地であるとは到底思えなかったからだ。
「コンピエーニュは重要拠点だ。ここが落ちれば、次はソワソン。大公殿下がこれ以上懐に入られたくないと思われるのも当然だろう」
 ソワソンはコンピエーニュからほぼ真東に位置する城塞都市だ。
 フランス王国を東から抱き抱えるような形で成り立つブルゴーニュ大公国。コンピエーニュが落とされ、さらに東へと進まれれば、確かに腸を食い破られるかのような気がするだろう。
「だから、か」
 アシルの言葉に一旦は頷きながら、けれどフィリップは納得出来ないでいた。何かを知っているかのようなエスターシュの態度が気がかりだった。
「どうした、フィリップ」
 真顔で問われて、フィリップは顔を上げた。
「最近のお前は少しおかしいぞ」
「悪い予言をするカサンドラは信用されぬ、だったな? いや、何でもない。久し振りに戦場に身を置いて、神経が過敏になっているのだろう」
 フィリップは嘯いた。
 ディジョンを出る前から胸にあった不安は日を追うごとに膨れ上がり、今や看過できぬ状態になっていた。
 だが、悪い予感がするからと言って、戦場に出ない訳には行かない。それが戦を愛するアシルなら尚の事だろう。
 そして幾ら親友の言葉であったとしても、毎日毎晩悪い予感がすると言われ続ければ、アシルも決して良い気はしないだろう。
 伏せておこう、この予感は。
 もう一つの想いと共に。
 アシルはフィリップに近付くと、力付けるように肩を叩いた。
「もしも不安があるなら、決して俺の側から離れるな。俺がお前を全力で守ってやる」
 フィリップは今さらながらアシルの誤解に気付いた。
 フィリップは自分の身に危険が迫っていると考えたことは一度もなかった。フィリップが不安に思い、その身をひたすら案じているのは、アシルのことだった。
 だが、たとえ自分が泣いて縋ったとしても、アシルは戦場を出ることを決して躊躇わないことだろう。

――もし、この予感が現実となったとしたら?

 フィリップは改めてアシルを見た。
 漆黒の髪、黒い眼、浅黒い肌。それは初めて出会った七歳の時から変わらず、けれどもより男らしく、魅力的になっていた。
 耐えられるだろうか、自分は。
 もしも、この男を失ったとしたら。
 次の瞬間、あることに気付き、フィリップは戦慄した。
 戦の前日は闇夜だ。

 それはまるで何かの啓示のように、フィリップには思えた。





つづく
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