狭間の刻 10 |
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縛り首を覚悟していたが、神の加護を受けていると確信するほどの奇跡が積み重なり、フィリップはその晩、無事に騎士団の置かれている居館に戻ることが出来た。 城門の鍵を盗みだし、納屋に火を点け、牢番を殺し、アシルを助けたのは、敵方の某ということになった。 城人たちは口々に証言した。 城人たちは存在しない敵方の某を目撃し、それに葡萄酒を飲まされ、それに襲われたのだ。それは暗黙の了解だった。アシルの所属する騎士団以外の者もアシルの身の潔白を信じたのだろう。 この世には存在しない誰かがアシルを逃がした。 それは時代の波に飲まれ、急速に失われつつある騎士道精神そのものだったのかもしれない。 アシルの親友であるフィリップは他の誰よりも厳重に取り調べられた。だが、フィリップは尻尾を掴まれるような失言はしなかった。 一月(ひとつき)が経った。 大荷物を不審がられて、追手を掛けられたくなかった。荷物は最小限に留めた。 騎士は馬に騎乗するから騎士なのだ。愛馬が一頭、剣が一振り、それに武装を整えられるだけの金貨があれば、それで良い。 騎士団の仲間には何も告げず、フィリップはまるで遠乗りに行くような風情で城門を後にし、ディジョンの街を出た。 市門から十馬走ほどした場所で、フィリップはブルゴーニュ大公城を振り返った。 七歳で伺候して以来、十三年の歳月を過ごした城。今となっては生まれ育ったアルブレー城より慣れ親しんだ場所だ。よもやその城を離れる日が来るとは夢にも思わなかった。 再び手綱を取って馬を進めようとしたその時だった。 「行くのか、フィリップ」 先回りをしていたのだろう。エスターシュだった。 「父君は失望なさるだろう。母君はお嘆きになるだろう」 フィリップは答えず、馬を歩み進めた。 「それでも行くのか、フィリップ」 「エスターシュ」 フィリップは言った。 「何故だ」 フィリップはその言葉に万感の想いを込めた。言葉の響きでわかるだろうと思った。 十三年の歳月をフィリップと共に過ごした男は、同じく十三年の歳月を共にしたアシルを裏切った。 「何のことだ」 「やはりそれがお前の答えなのか」 エスターシュは何も言わなかった。しかしフィリップが再び馬を歩ませるのを見るや、こう言った。 「お前の、手前勝手な予言が」 フィリップは馬を停めると、背でエスターシュの声を聞いた。 この男に自分の胸騒ぎのことを話したことはなかったはずだった。 そうだ、臆病な兎のように耳をそばだて、エスターシュはいつも二人の会話を盗み聞いていた。 あの時も――。 フィリップはコンピエーニュの城壁を思い出していた。 「だからシャロレ伯に頼んだのだ。アシルを安全な場所に置いてくれ、と。それなのに」 恐らく謀略は秘密裏のうちに行われるはずだった。 だが、楼閣にいたアシルは運悪く目撃してしまったのだろう。ワイン樽(バレル)から抜け出す敵の姿を。 そのため、シャロレ伯は口封じにアシルを殺さなくてはならなくなった。 フィリップは冷たく。 「寝物語に頼んだのか?」 エスターシュは答えなかった。 「……わからなかった。私は人と、どうして接すれば良いのかわからなかった」 振り向くと、その取り澄ました美しい顔を歪め、エスターシュは涙を流していた。 出会ってから十三年、それはフィリップが初めて見たエスターシュの涙だった。 「羨ましかった。妬ましかった。アシルに信頼されているお前が、アシルに絶対の信頼と愛情を寄せるお前が」 エスターシュの整った唇が、フィリップがおよそ想像もしていなかった言葉の数々を紡ぎだす。 「父上はいつも言っておられた。お前のせいで母は死んだのだと。母の死と引き換えに生まれたのだから、武勲を立てろ。出世しろと。私が頼んだわけではない。母の腹を切り裂いてでも生かせなどと、誰が……!」 それはエスターシュが生まれて初めて見せた感情の爆発だったのだろう。 「私は本当は母の腹を割いて殺した父よりも、アシルを。そして、お前のことも――」 フィリップは唇を噛んだ。 許すと言えたらどんなに良いことだろう。 だが、掛け違えた釦を戻すことはもはや出来ないのだ。 「 Salut l'ami 」 エスターシュは喉の奥から搾り出すようにして言った。サリュー、ラミ(友よ、また) それは親しい友の間で使われる別れの挨拶だ。 認めたくはなかったが、やはりこの男は友であったのだろう。 けれど。 「 Adieu 」 アデュー(永遠にさようなら) もう二度と会うことはないだろう。 だが、フィリップは一言、こう付け加えた。 「 l'ami 」 ラミ(友よ) さらば、我が友。 フィリップは馬に拍車を掛けた。 聖ジュヌヴィエーヴはパリの守護聖女で、彼女に捧げられた修道院が丘の上に立っていた。 その修道院の壁を背に、フィリップは市門を出入りする人々の顔を確かめていた。 ディジョンからトロワへ、そして西に方角を変えてパリへ。 アシルも恐らく同じ道のりを辿っただろう。トロワからの街道の行き着く先がこの市門だった。 来る。 アシルはきっとここに来る。 フィリップは何の根拠もなくそう思っていた。 たゆたえども沈まず、それはパリ市の紋章に記されているラテン語の標語だ。 その言葉通り、パリはセーヌ河に浮かぶ小島のような街であった。その小島に数多の建物がひしめき、二十万もの人々が住んでいた。 欧州最大の都市パリで、たった一人の男を探し出そうなど、砂漠の中から一本の針を拾い上げるようなもの。 そして、それは世にも危険な賭けでもあった。 パリではアルマニャック伯が独裁政治を行っている。ブルゴーニュ大公国の騎士がいて良い場所ではない。 身分が知れれば、どんな目に遭わされることか。 だが、フィリップは古代ギリシャの英雄の名を持つその男を待った。パリを目の前にしながら、城壁の中には入らず、市門の前でひたすらその男を待ち続けた。 待って、待って、待ち続けて、そしてついにその日がやって来た。 既に夕暮れ、時計に忠実なパリの市門が閉まる頃合だった。 今日も来なかったか、長逗留を決めこんでいる旅籠に戻ろうとフィリップが重い腰を上げた、その時だった。 そこには夕陽を背に浴びて立つアシルの姿があった。見慣れたその顔には、しかし戦で負った生々しい向こう傷があった。 「アシル!」 アシルはフィリップに気付くと、ほろ苦く笑った。 「――本当にやって来るとは」 アシルが戦場で負った傷は思いの外重く、一月ほど施療院で治療を受けたのだという。そのため、フィリップがパリに先行することとなったのだ。 ひとしきり再会を喜び合った後で、フィリップは尋ねた。 「これからどうするつもりだ」 「アルマニャック伯の元に行く」 そうだと思っていた。だからこそ危険を侵してこのパリで待っていた。だが、それでもフィリップは言わずにはいられなかった。 「敵方に付くのか」 「主君を裏切った騎士が他のどこに行ける?」 アシルは小さくかぶりを振った。 「俺は騎士以外にはなれぬ」 フィリップにしても騎士でないアシルの姿など想像することすら出来なかった。 「会いに来てくれて嬉しかった。だが、お前はディジョンに帰れ。今ならまだ間に合う」 「私は」 フィリップは覚悟を決めて口を開いた。 「私はお前と一緒なら敵方についても、傭兵となっても、よしんば賎民となっても構わない。どこまでも付いて行こう」 フィリップはアシルに向かって手を伸ばした。 アシルは困ったように瞳を細め、頭を振った。 「駄目だ。連れては行けない」 そしてアシルはフィリップに背を向けた。 フィリップの瞳から涙が溢れた。 もしもこの手を取ってくれたのなら、すべてを捨てて、共に行こうと思っていた。だが、これが世にも残酷なアシルの答えだった。 市門に向かって歩くアシルの背が遠ざかり、徐々に小さくなっていく。 いや。 フィリップは決然と顔を上げた。 自尊心などくそくらえだ。 踏み出すのだ。 あの時踏み出せなかった一歩を、今こそ。 フィリップはついにその一歩を踏み出した。 駆け寄り、背後からアシルに抱きついた。 市門の脇には市民権を持たぬ貧しい人々の住む、藁を差し掛けただけの粗末な小屋があった。抱きついたはずみで小屋が倒れ、二人はもんどりうって藁の上を転がった。 フィリップはアシルの上に馬乗りになると。 「私は何があったとしてもお前を離さぬぞ、アシル!」 その逞しい胸に顔を押し付け、フィリップは男泣きに泣いた。 この男がずっとずっと好きだった。 意識し始めたのは、騎士と騎士見習いとして身分が隔たってから。だが、本当はもっと前から好きだったのかもしれない。 パンを隠し持って来てくれたあの夜から。二人でブランコを作ったあの日から。初めて会ったあの瞬間から。 「泣き落としとは」 アシルは弱り果てたように言った。 「お前らしくないぞ、フィリップ」 アシルはフィリップの頬に触れてきた。滂沱と流れるフィリップの涙がアシルの手を濡らす。 「美男が台無しだ」 顔の輪郭に沿って、アシルの指が滑らされる。 「自尊心を投げ出してお前が手に入るのなら、私の自尊心など安いものだろう」 置き場所を求めて彷徨(さまよ)っていたアシルの手が背に回り、次の瞬間、フィリップはアシルの胸の中にいた。 「知ってるだろう」 アシルは言った。 「俺はお前の涙に弱いんだってことを」 「アシル」 フィリップは泣き笑いのような表情を浮かべ。 「またブランコを」 ――作ってくれ。 続く言葉はアシルの情熱的な口付けによってかき消された。 |
つづく |
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