狭間の刻 6 |
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フィリップは寝もやらず翌朝を迎えた。 空が白々と明け、辺りが明るくなって初めて、フィリップは上衣(プールポワン)の肩飾りが一つ無くなっていることに気付いた。 アシルの天幕に置き忘れたに違いなかった。 服を脱ぐ間ももどかしく、激しく求め合った、その報いだろうか。 肩飾りを目にすれば、アシルはすぐにそれがフィリップの物と気付くだろう。 それはまさに血も凍るほどの恐怖だった。 どんな態度を取れば良いのか決めかねているうちに、出撃の時間が迫った。 身支度のため、仕方なく幕舎に入ると、間の悪いことにアシルが鉄甲冑の胸甲と背甲を合わせていた。 「いよいよだな」 戸惑うフィリップを後目に見ながら、アシルは何事もなかったように言った。 「ああ」 フィリップは平静を装い。 「お前が戦場に出ることにならなくて良かった」 「不本意だが、シャロレ伯の命令なら仕方がない」 市門前の跳ね橋を降ろして攻撃に出、敵を引き付けている間に給糧部隊を街の内部へ引き入れる。それが今日の作戦だった。 シャロレ伯の発案により、敵を市門内に誘い込むという大胆な作戦が実行されることとなった。 攻囲軍がどれほど多くの兵を揃えようとも、狭い跳ね橋を渡れる人数は制限される。その寡兵を市門内に誘い込み、落とし格子を落とすのだ。敵は袋の鼠だ。 だが、落とし格子の上げ下げを見極めるには、卓越した判断力が必要だった。 早ければ、味方までもが封じ込められ、遅ければ、勢いに乗じて雪崩(なだ)れ込まれる。 シャロレ伯はその判断役としてアシルを指名した。 エスターシュと並んで最年少での騎士叙任、そしてこれまで数々の武勲を上げてきたアシルの能力が認められたのだ。 アシルは戦場では常に先駆けを好んでいた。 初陣も然り。血気に逸り、攻城櫓から落ちる様を目の当たりにしたこともある。 だが、落とし格子の操作役ならば、敵の矢面に立つことはないだろう。 アシルが戦場に出ないことを知ったフィリップは心の底から安堵していた。 自分に本当にカサンドラのような予言の能力があるとは思わなかったが、フィリップの一族はブルターニュの出身だった。 ブリテンからその名が転じたブルターニュは、イングランドから海を渡って来たケルト人たちの住む土地だ。ケルトの民は妖精を信じ、神官を持った。 その身に流れるケルトの血故だろうか、他人(ひと)より危険を察知する能力が優れていることは否定できない事実であったのだ。 「安全な場所から高みの見物とは――」 騎士の証たる黄金拍車を付けながら、エスターシュは嘲るように言った。 「良い身分だな」 アシルは僅かに片眉を跳ね上げただけ、何も言わなかった。 エスターシュは苛立っていた。落とし格子の上げ下げという重要任務がアシルに与えられたことが気に入らないのだろう。 それはシャロレ伯と懇意のエスターシュにこそ与えられそうな役目だったからだ。 アシルはアレクサンドロス大王の逸話で名高い、ゴルディアスの結び目を刻んだ鉄甲鎧を身に付け、漆黒のマントを羽織った。 「フィリップ、お前の方こそ気を付けろ。カサンドラは自分もまた悲惨な死を遂げている」 トロイアの王女であったカサンドラはトロイアが陥落した後、敵将アガメムノンの妾とされる。そしてアガメムノンが故郷ミュケナイに帰り着いた時、彼の妻であるクリュタイムネストラにアガメムノン共々殺されるのだ。 自分をミュケナイに連れて帰れば、アガメムノンも殺されるだろう。そう訴えるカサンドラの予言を信じる者はいなかった。 フィリップは深々と頷いた。 「気を付けよう」 アシルの態度はお見事と言う他はなかった。内心は知らず、感情を完膚無きまでに隠し通した。 或いは、昨夜の出来事を無かった事にしたかったのか。 気まずい態度を取られないのが救いのようにも、アシルの答えのようにも感じられた。 ただひとつ。 世にも恐ろしい疑惑だけが残った。 アシルは自分を誰と取り違えたのか。 アシルの同室者に問えば、手掛かりは見つかるかもしれなかった。だが、間もなく戦が始まる。確かめる暇はなかった。 フィリップは緩く首を振ると、黄金拍車を付けた。 幾度戦場に身を置こうとも、畏れはいつも自分と共にあった。 敵方の捕虜になればまだ幸い。鉄甲冑で覆いきれない間接部分を斬られたら? 弩で鎧ごと射抜かれたら? 投石機の石が直撃したら? 狭間から煮えたぎる油を注がれたとしたら? 死も、不具となることも、いずれも恐ろしく、想像だにしたくなかった。 深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。 馬に跨るフィリップの傍らにはエスターシュがいた。 黄金の鎧を身に付け、白のマントを羽織っている。面頬の隙間から覗く青灰色の瞳がフィリップを冷たく睥睨していた。 フィリップは内に潜む畏れを見透かされまいと背筋を伸ばした。 共に先駆けだった。 出遅れた初陣での経験から、フィリップは戦場ではアシルをいつも追っていた。 真っ先に飛び出すアシルに置いていかれまいと内心の恐怖を押し殺し、必死で追いすがった。 そしてエスターシュは敵愾心からいつもアシルを追っていた。 互いに口には出さなかったが、その思いは同じだったろう。 ――戦えるのか。アシルなしで。 エスターシュはフィリップの友ではなかった。 それでも何かの繋がりが、断ち難い絆が存在することは否定出来なかった。 じゃらじゃらと鎖が鳴り、滑車が回り始めた。 跳ね橋が下ろされる。 フィリップは馬上から振り返り、アシルを探した。アシルは戦闘の状況を見極めるため、市門の上の楼閣に立っていた。 目が合った。 アシルは視線を逸すことなく、真っ直ぐにフィリップを見返し、そして笑った。 アシルはそんな優しいところのある男だった。 面頬を下ろしているため、顔を見られることがないのが幸いだった。 昨夜流せなかった涙が、漸くフィリップの頬を伝って流れ落ちた。 跳ね橋が下がりきるのと、フィリップとエスターシュの二人が馬に拍車を掛けるのは、ほとんど同時だった。 |
つづく |
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